ブリギッテ・シェーンベルクの場合 その3
ブリギッテとその夫がようやくの妊娠に喜んでいたちょうどその頃、ある事件が世間を騒がせていた。妊娠中の女性が次々と襲われ、殺されていくという事件が起こっていたのである。
それだけではない。その事件の内容があまりにおぞましく、詳細が知れれば知れるほど、人々は恐れおののいた。なにしろそれは、妊娠中の女性をただ殺害するのではなく、まず女性の腹を割いて胎児を取り出しそれを女性の目の前で切り刻んでから女性が失血死していくのを眺めるという、まさに悪魔のような所業だったのだ。
しかしその事件はブリギッテが住む町からは遠く離れた場所での事件だったので、彼女にとっては真偽不明な怪奇譚のようなものでしかなかった。
「大丈夫かい、ブリギッテ」
大きな腹を抱えてふうふうと息を切らしながら家事をこなすブリギッテに、夫は優しかった。子供ができる前の不協和音がまるで嘘のようだった。子供ができたということで、『縁起が悪い』などと彼の作る靴を敬遠していた人間達も掌を返し幸せにあやかろうとこぞって彼の靴を買い求めた。元より腕は良かったから品物自体の出来は素晴らしいものだったのだ。
ブリギッテとその夫の不仲を案じて彼女に言い寄っていた若い職人も、自分が入り込む隙はないと潔く身を引き、彼女に声を掛けることもしなかった。
また、
「お姉ちゃん、もうすぐ赤ちゃん産まれるの?」
と、近所に住んでいた幼い妹が家に訪れる度にキラキラした目でそう尋ねてくる。
「そうね、もうすぐだよね」
応える彼女を、体を気遣って家の手伝いをしに来てくれた他の弟妹達も温かく見守っていてくれた。自分達が姉からしてもらったことを少しでもお返ししたいと考えたのだ。温かく、そして労りと慈しみに満ちた関係だった。決して裕福ではなかったが、心の持ちようによってはこういう生き方もできるのだというのを示してくれていた。
その時の彼女の顔には、幸せというものが形を持ってそこに張り付いているようにさえ見えただろう。
誰もがこの若い夫婦の幸せを願い、祝福していた。
しかし、この世に神というものが本当に存在するのだとしたら、その神とやらは何故、理不尽や不条理といったものをこの世にばら撒くのだろう。この若い夫婦がついしてしまった過ちは、そこまでの報いを受けなければいけない程のものだったのだろうか……。
この時、幸せそうに微笑む彼女を誰もが温かく見守っていたのだが、ただ一つ、まるで恐ろしい闇を湛えた深淵から覗き込むかのような暗く淀んだ禍々しい瞳が、少し離れたところから向けられていたことに、ブリギッテもその周りの人間達も誰一人として気付くことはなかったのだった。




