忘却溶解度
「記憶には種類がある」と、担任の檀家先生がホームルームの時に話した。そのときの情報をざっくりまとめると次のようになる。
・人間の記憶は【短期記憶】と【長期記憶】に分類される。
・【短期記憶】は「情報を非常に短時間しか保持できない記憶」であり、最近では【短期記憶】ではなく【作動記憶】という概念が主流であるらしい(何故主流なのかは語られず)。
・【長期記憶】は「半永久的に保持できる記憶」のことであり、これはさらに複数の記憶に分類できる。【手続記憶】と【宣言記憶】、さらに【宣言記憶】は【意味記憶】と【エピソード記憶】に分類できるという。
・【手続記憶】は非言語化されたもの、【宣言記憶】は言語化されたものである。
・【意味記憶】は一般的知識、【エピソード記憶】はプライベートな思い出である。
大体このように分類分けができると檀家先生は言ったあと、「で、みんなは、そういうことを理解したうえで物事を記憶してるの?」と訊ねた。その時にちょうどチャイムが鳴ってしまったので、続きを言うことなく檀家先生はホームルームを終えて、授業へ向かってしまった。檀家先生の、このような質問を投げ掛けるだけで何も教えない、いわゆる「質問放置」は、ある種哲学的なものを含んでいるため、あまり深く考えすぎず、しかし、考えなさすぎない、という姿勢がベストであると思う。本人も「考えすぎるのは良いことだけど、考えすぎて体調崩さないようにね」といつも言っている。その割には難解な質問を口にしてそのままにする。矛盾した存在だと思う。
崇神と田沼は「質問放置」に対して何か話しているようだ。
「要はさ、学問を短期記憶ではなく長期記憶に記憶させていこうという話なんじゃないかな?」出だしから結論を話し始める田沼に対して、崇神はいやいや、と首を振った。
「それはミスディレクションだと思うな~。多分、普通の先生だったら、そんな感じの話をしてうまくまとめるだろうけど、檀家先生だからねぇ。『なんで分類分けなんてしたの?』って単純に聞いてる気がするな~」
「まぁ、学問は細分化のおかげで目覚しく発展してきたというのが結構な要因だと思うけどね。ただ、短期記憶とか、長期記憶とか、そのような分類を意識しながら記憶はしてないかもしれないね」
「食べ物がどんな風に消化・吸収されるか知らないようにね」そう考えると基本的に色色なものが知らないままだよね、と崇神が続けた。
「ただ、気になることが1つあったな~。【エピソード記憶】は長期記憶ではないと思う。思い出だって色褪せていくし、その時点で半永久的な記憶は保持されていないじゃん。だからといって、作動記憶とも言うには忘れるのが早すぎる。結局、どちらかと言えば長期記憶側だから、無理やり分類作ってあてはめちゃえ、みたいな感覚だなー」崇神は意見を垂れ流している。そのような光景を見て、私も気なったことがあったから彼女たちの後ろから話しかけた。
「私も気になったことがあったの」急に話しかけられたのが驚いたのか、崇神は少しびくっとしながら後ろを向いた。田沼には特に変化はなく、ゆっくりとした動作で後ろを向いた。
「何が気になったの?」崇神が訊ねた。
「意味記憶に関する?」田沼も訊ねた。
「そうだね。【意味記憶】が長期記憶に含まれることに違和感があったかな。微妙にだけど。確かに、言葉の意味は記憶してしまえばその後はほぼ忘れることはないけれど、でも、途中で、自分の中で言葉の定義が変化した場合は、それまでの意味を持っていた記憶とは別のものを持つことになるとは思わない?だから、『半永久的に』覚えていても、『半永久的に』意味が変わらないとは限らないと思うの。多分、抽象すると田沼さんが言ってたエピソード記憶に関する指摘と同じことだと思う」とりあえず、言語化できたところまでは言葉に変換できた。
「となると、【意味記憶】と【エピソード記憶】はほとんど同じ意味で、つまりそれは【宣言記憶】ということだねぇ。無駄に細分化しちゃった、っていうイメージがあるかも。まぁ、特に不都合を感じてはいないけれどさ~。覚えるのが面倒なくらいかな?【宣言記憶】よりは【装飾記憶】とか【修復記憶】とか【周期記憶】とかの方が合ってる気もすれけれどねぇ」さらさらと【宣言記憶】の代わりを挙げた崇神に対して、田沼は【修復記憶】が的を射てるねと口を挟んだ。私は【装飾記憶】が良いと思った。若干の揶揄が込められている気がしたからだ。
そろそろ、1限が始まる時間だ。
昼休み。崇神は購買で買ったパンを、私と田沼はお弁当を食べている。
「記憶について、少し考えたよ」最初にお弁当を食べ終わった田沼が言葉を発した。
「ホームルームで檀家先生が話してたのは、心理学の話だよね。私は化学を取り入れて考えたけど、話聞く?」
「意次なりの【記憶】の定義って訳ね。面白そうだから聞きたいな~。ただ、化学用語はきちんと解説してね。そうしないと毎回質問を挟むことになるからさ~」パンを食べながら崇神が話している。少し恥じらいがあるのか、口元は手で隠していた。
了解、と一言ついてから、田沼は話し始めた。
「まず、【溶解度】という言葉の解説をしようか。これは【溶媒100gに解ける溶質をg単位で表したもの】と定義される。基本的に溶媒は水だね。溶質は溶かしたい物質のことで、【溶解度】は溶質の種類によって異なる。例を出すと、食塩水だったら、溶媒は水、溶質は食塩。これらを合わせて溶液と言うよ。あと、溶解度は温度に依存する。温度によって溶解度は変化する。一般的に温度が高いほうがよく溶けるけど、比例的ではないから注意してね。ここまでは大丈夫?」
私はお弁当を食べ終えたので、田沼の話をメモしようと思い、ノートを取り出した。崇神は未だにパンを食べている。噛み続けている。体格的に仕方ないのだろうか。そんな崇神は食べながらも頷いたので、田沼は続けた。
「先に言っておくけれど、【溶解度】と言っても注目するのは溶けているものではなくて、溶けていないものだからね。【溶解度】を超えるほど溶質を加えると、【溶解度】までは溶質は溶けるけど、それを越えてしまうものは【沈殿】してしまう。この【沈殿】が【記憶】かなと思ったの。ただ、これだけだと、なんだかつまらない。だから、少し境界条件をつけようと思う。紡、ノートを貸してもらっていいかな?」私の承諾を得ると、田沼は大きさの異なる『凵』の絵を3つ描いた。それぞれの絵の上には蛇口の絵。
「私の【記憶】のイメージはまさにこれ。大きさが変化する容器があって、その上に蛇口がある。そこから水が一定の割合で出ている。容器の中には【溶質】、つまり、【覚えるべきもの】が放り込まれる。理想は【覚えるべきもの】をそのままそっくり覚えられたら良いんだけれど、そうはいかない。忘れてしまう。それは、蛇口が開いてるからなんだよね。水が出てくると、【溶質】はどうなる?」田沼は私に話を振ってきた。促されるままに、答えた。
「【溶解度】から考えて、少なからず溶ける【溶質】があるってこと?」
「そう。同じ量の水でもたくさん溶ける【溶質】もあるし、ほとんど溶けない【溶質】もある。これは、覚える人間に依存するものではないと思う。【覚えるべきもの】に依存するだろうね。ほとんど溶けない【溶質】は自分の名前をずっと覚えていられるってことだし、たくさん溶ける【溶質】はヒッグス粒子や超ひも理論とかを聞いてもほとんど理解できない、ということだよ」
「なるほどね。じゃあ、【容器】の大きさは何を表しているの?」
「【容器】の大きさこそが自分自身の能力かな、と。【容器】が大きいほど多くの水が入る。そうすると、勿論【溶解】する可能性が高くなってしまうよね。つまり、【容器】の大きさは【記憶力】の能力に依存する。【記憶力】が悪い人は【容器】が大きい。その分、【溶質】が溶ける。よって、覚えられない。【記憶力】が良い人はその逆だね。さらに、【容器】は蛇口から水が注がれているんだけれど、【容器】から水が溢れ出してくる場合もある。溢れ出してくるのは当然水だけではないよね」
やっとパンを食べ終えた崇神が口を開く。
「あぁ、【溶解】した【溶質】まで水と一緒に流れていっちゃうんだねぇ。覚える以前の問題か~。それは覚えられない、というより、忘れるメカニズムに近いねぇ」
「忘れるメカニズム…。なるほど。蛇口から出てくる【水】、これは【時間】を意味していると思う。…私も何故『思う』という言葉にしたか分からない。最初はぼんやりとこういう感じだと思い描いただけで、水に対して役割は何もなかったけれど、徐々に【溶質】は【覚えるべきもの】であったり、【容器】は【記憶力】と決まっていくうちに、【水】すら定義されてしまった感覚。だから、『思う』なんだと思う」
「意次が『少し考えたよ』と言った時には定義されていなかったんだ、【水】は」
「そんな感じかな。【水】は【時間】で、それが増すにつれて、それまで溶けていたものまでも【溶解】して【容器】から流れてしまう。忘れないためには、【溶質】を増やすしかないよね。蛇口は止められないことが分かったから」
「繰り返し勉強する理由はそれかもしれないね。【溶質】を【容器】に入れる作業」
記憶と溶解度。溶けているものではなく、沈殿しているものこそが記憶。田沼の発想はとても面白かった。
温度。
「あれ?そういえば、【溶解度】は【温度】に依存するんじゃなかった?【温度】は何を表しているの?」 残りの1つの要因を言い忘れているのではないかと思い、私は田沼に訊ねた。
田沼は2つ目のパンを食べ始めている崇神を見て言った。
「それは、完全に【モチベーション】だね」
記述者 國府田 紡