1・王妃ユーリンダ
「……リンダ。ユーリンダ」
遠くから自分を呼ぶ声がする。あれは誰の声だっけ? よく知らないような……とても大事なような……?
「う……ん?」
「このような所でうたた寝しては風邪をひく。腹の子にも障ろう。まったく、そなたと来たら、もうすぐ母親になるというのに、相変わらず子どものようだ」
「陛下」
ユーリンダはぱちりと眼を開けた。夫の笑顔がすぐ傍にあった。ここは王妃宮の中庭……生まれ育ったアルマヴィラを懐かしがったところ、愛する夫にしてこのヴェルサリアの頂点、まだ二十歳の若さながら王国の歴史で最も輝かしき王、と称賛されつつあるエルディスが建築してくれた庭園の東屋は、子どもの頃に幾度も過ごした田舎の離宮によく似ていた。身重になったユーリンダは、王妃宮の束縛を鬱陶しく感じ、しょっちゅうこの東屋で過ごすのだが、今は書物を読んでいるうちに窓際で春風に吹かれて心地よくうたた寝してしまっていたようだ。
「陛下、このような時間にこちらへいらして大丈夫なのですか?」
次第に目が覚めてきたユーリンダは、なぜ今ここに夫がいるのか解らずに問う。そよそよと吹く風は彼女の黄金色の美しい髪を嬲り、陽の光が煌めきを与えた。国王エルディスは、最愛の妻の美しさに眼を細めながら上機嫌で、
「有能な宰相が、私に時間をくれたのだ。暫くは大丈夫だ」
「お父さまが」
前宰相アロール・バロックの急な病死から、王の指名で後任に就いたのは、ユーリンダの父アルフォンス・ルーンだった。国王と宰相の間には誰も入れない固い信頼があり、それが今の、かつてない程の繁栄を誇る王国の基盤ともなっていた。
エルディスは愛妻のほどけた髪を愛おしげに指で梳いて、
「とにかく、こんな所でうたた寝はよくない。そなたの気分が良いなら、庭園を散策でもしようか」
と提案する。
「はい、陛下」
にっこりと笑ってユーリンダは応える。年頃になるまで特に男性に興味を持つ事もなく過ごした深窓の令嬢。それが、突然の前王の死をきっかけに、王太子妃候補の話が具体的に持ち上がり……逢った途端に虜になった。鳶色の髪と瞳、才気芳しく優しい王太子。彼もまた一目で彼女を見初め、愛してくれた。結婚、そして王妃への道へは、元々父アルフォンスがエルディスの一番信頼する臣であった事もあって、殆ど障害はなかった。定められていた次期聖炎の神子には、ヴィーン分家の娘が立つ。
椅子から立ち上がろうとして、ユーリンダは「あ」と言った。
「どうかしたのか?」
エルディスが妻の顔を覗き込む。
「いいえ、なんでも。ただ、お腹の子が、蹴ったのです」
「元気がいいな。きっと男子だろう」
エルディスは破顔する。
「だとよろしいのですが……」
「女だったとしても、これからそなたは私の子を大勢産んでくれるだろうし、その中には男子もいるだろう。今は男子を早くなどと考えこまず、無事に初産を済ます事だけを考えよ」
「ありがとうございます……」
夫の優しさがユーリンダには嬉しい。さすが、父が勧めてくれた縁談だったと思う。心から幸せで、欠けるものは何もない。
ただ……いつも、何かを忘れている感じは否めない。子どもを宿してから、その思いは強くなる一方でもあった。
「陛下、私、考えてましたの」
「ん? 何を?」
「もしも男子でしたら……勿論これは私のただの考えですからお気にかけられなくてもいいのですが……、アトラウス、という名前はどうでしょうか」
「アトラウス……アトラウス・ヴェルサリア……」
エルディスは吟味するように呟いてみた。
「良いのではないか? 確か歴代ルーン公の中でも名を残した……」
「ええ、初期に色々業績を残した人で、伝記を何度も読みました」
「とにかく、そなたが無事に王太子を産んでくれれば、私には何も不満などないし、名付けもそなたに希望があればそれでいいと思う。神殿の方から特に何も言われなければだがな」
エルディスは微笑して同意してくれた。何故この名前が心に浮かぶのか自分でもよく解らなかったが、夫の鷹揚さをただ嬉しく思う。聖都アルマヴィラで箱入り娘として生まれ育ち、それ以外の世界を知らなかったユーリンダには、最初はヴェルサリアの王妃などとても務まらない、と思えたが、優しく愛おしい夫の人柄と、宰相に就任した父のおかげで何もかもがうまく運んでいた。
「陛下……私、本当に幸せで、言い尽くせないくらいですわ」
大きくなった腹をさすりながらユーリンダは言う。国王と夫婦になるまで、男女の営みについてもあまり知らなかった少女だったが、今は若く比類無く美しい王妃として、夫の導くままに女の幸せも充分に得ている。
「外へ出よう。光が、ルルアが、私たちを祝福してくれる」
優しい瞳でエルディスは言い、愛妻の手をとった。心からの笑顔で、ユーリンダは夫に手を預けた。
アトラウス、という名の従兄が幼くして亡くなっていた事を彼女は知らないままだった。