王座を奪われた国王の言い分
私の名はアレクシス。かつては、この国の国王だった。
今は、王宮の中にある離宮で、最期の時を迎えようとしている。
死期が迫り、死に神の姿が垣間見えるようになってから、後悔することばかりだ。
ソフィア……。
その名を呟くと、私の傍に控えている侍女達が、一斉に顔を顰める。
ああ、そんな反応をしないでくれ。あの子は、私の最大の被害者なのだから。
私は、この国の王太子として生を受けた。生まれた時から、国王となるべく定められた存在だった。
だから、物心つく前から、次期国王としての教育を施されてきた。自分は、その教育を受けるのが当たり前だと思い、与えられるものをそのまま素直に受け入れてきた。
けれど、二つ年下の弟クラウスが、私とは違い、ある程度の自由を与えられているのを知った時、疑問を持った。
なぜ、クラウスには自由がある? 私には何一つ許されていないのに。
私にはすでに定められた婚約者がいるのに、クラウスはいずれ名だたる令嬢の中から好ましい者を自分で選んでも良い、とされていることを知った時に、その疑問ははっきりと不満となって私の心を支配した。
私には、将来の伴侶を自分で選ぶことさえ許されていない。
初めて会った婚約者エリザベートは、人形のように愛らしい女の子だった。
けれど、幼児でありながら、すでに非の打ち所がない容姿に完璧な礼儀作法を身につけている彼女に、私は気味悪ささえ覚えた。
私の婚約者として育てられた子か。まるで、調教された犬や馬のようだ。
話しかけると、まるで教科書に載っている模範解答のような答えが返ってくる。笑顔も、いつも貼り付けたように同じ。
彼女が公爵家へ帰ると、何故かとても疲れている自分に気付いた。
きっと、将来エリザベートは、理想的な王妃になるのだろう。自分は、そんな彼女の隣に並んで、見劣りのしない国王になれるのだろうか。
ふとそう思った時、身体の奥から寒気に似た不快感が湧き上がってきて、息苦しさを覚えた。
それは、一種の拒否反応のようなものだった。そして、それはその後、エリザベートと顔を合わせる度に私を苛むようになっていた。
エリザベートと会うたびに感じる息苦しさは、年を追う毎に強くなっていった。
それは恐らく、私の中で膨らむ、いずれ国王となることへの重圧だったのだろう。
彼女と会えば、嫌でも将来への不安を突きつけられる。
だから、何だかんだと理由をつけて、本来出向くべき公爵家への訪問を取りやめることが多くなっていた。
そんな自分の代わりにエリザベートの機嫌を取っておく、と嬉々として公爵家へ出向くクラウスの本当の気持ちに、私は早くから気付いていた。
気付いていて、知らないふりをした。
私と違って、将来の重圧を感じずに伸び伸びと育つクラウス。私よりも、ずっと国王としての資質を持っているというのに。
だから、そのクラウスにも、どれほど望んでも手に入らないものがある苦しみを味あわせてやりたかった。
本気でそう願えば、エリザベートとの婚約を解消することは、できなくはなかった。
クラウスの思いを遂げさせてやろうと思えば、そうできる可能性はあった。
けれど、私は敢えてそうしなかった。
婚礼の最中、クラウスが私を睨み殺さんばかりの視線で見ていることに気付いていて、私は言い知れない優越感に浸っていた。
お前が本当に望むものは、絶対に与えてなどやらない。
……そんな心の狭小さこそが、王の器量ではないことにもっと早く気付いていたなら、私は道を誤らずに済んだのかも知れない。
予想よりもずっと早く父が亡くなり、予定よりもずっと早く王位に就いた私には、充分な権力基盤が整えられていかなった。
ゆえに、否応なく正妃の実家であるウィルンスト公爵家を頼らざるを得なくなった。
けれど、その支援を極力最小で抑えたかった私は、他の貴族達を取り込むために、後宮に彼らの娘を側室として迎えることになった。
正直、政務で疲れ切っている身としては、夜ぐらいはゆっくりと眠りたい。しかし、後宮に入った娘が王に全く相手にもされていないとなると、貴族達の不満を煽ってしまう。
取り敢えず一度ずつだけでも相手をするよう側近達に促され、私は後宮に通うようになった。
そんなある日のことだった。
実家の力を誇示するかのように飾り立て、贅を凝らした歓待ばかりの日々に飽き飽きしていた私は、間違って侍女の休憩室に足を踏み入れてしまったのではないかと一瞬慌ててしまった。
それほど、ソフィアの部屋には、元々あった最低限の家具以外には何もなかった。
そして、ソフィア自身、側室とは思えないほどの哀れな身形をしていた。
けれど、私の前で可哀想なほど緊張しつつも、気丈に笑顔を浮かべようとするその健気さに私の胸は熱くなった。
こんな気持ちになったのは、生まれて初めてだった。
私は生まれてこの方、常に私よりも優れた者達に囲まれ、優れた王になるよう追い立てられて生きてきた。
そんな日々の中で疲れ切っていた私にとって、彼女は初めて現れた弱き者だった。
私が庇護してやらなければ、ソフィアはここでまともに生きていくことさえできないだろう。
そう思うと愛しさが溢れ出てきて、止めることはできなかった。
貴族とは名ばかりの貧しい人生を送ってきたというソフィアは、貴族の常識に囚われない寛容さを持っていた。
ソフィアの前では、私は王という重荷を脱ぎ捨てて、アレクシスという一人の男になることができた。
そして、一度その言い知れない幸福感を味わった私は、その甘い時間をなるべく長く味わっていたくて仕方がなくなってしまった。
駄目だ、と分かっていながら、優秀な側近達に仕事を任せることを覚えると、段々とそうやってソフィアと逢う時間を作ることが当たり前になっていった。
自分がソフィアに与えられるものは、何でも与えてやった。ドレス、宝石、家具、思いつくものは、何でも。
その度にソフィアが零れるような笑顔で喜んでくれるのを見て、私は蕩けそうになるほどの幸福を味わった。
生まれてこの方、自由以外は望まなくとも何でも与えられてきた私にとって、何かを与えられて嬉しく思う気持ちなど感じたことはなかった。
けれど、私が何かを人に与えて、その人が喜ぶのを見るだけで、こんなに嬉しいものだということを気付かせてくれたのはソフィアだった。
いや、きっとソフィアしか、私にこの幸福感をくれる者はいないのだ。
その頃、エリザベートが体調を崩して臥せったと聞き、慣れない政務で疲れているのだろう、少し静かな所で休ませてやろうと離宮へ移るよう勧めたところ、ウィルンスト公爵家を筆頭に多くの者達から猛反対を受けた。
私に他意はなかったのに、エリザベートに無実の罪を着せて王妃の座を追おうとしているのか、と勘繰る声が多く上がった。
本当に煩わしい。過去の慣習だとか陰謀だとか、諌める振りをして私を責める者達に、私は嫌気が差してきた。
エリザベートではなく、ソフィアが王妃だったら。
その気持ちは、私の中で日を追う毎に大きくなっていった。
ソフィアと過ごす中で、ふとそんな願望が漏れ出たことがあった。
それがどこをどう伝って漏れ出たのか、いつの間にかそれはエリザベートの耳にまで達していた。
エリザベートはまるで氷のように冷たい表情で、やれるものならやってみなさいとばかりに私を詰った。
私が、ウィルンスト公爵家の支え無くして王位を保っていられないと知っていて。
もう限界だ、と、その時、私の中で何かが切れた。
これまでずっといろいろなことに耐えてきたが、もうこれ以上は我慢できない。
それから後、私は最低限示してきた正妃への愛情表現を止めた。
これまでずっと黙認してきた、エリザベートのソフィアに対する圧力を見て見ぬふりをするのも止めた。
エリザベートは、ソフィアに対して低能な嫌がらせをするような者ではないことは分かっている。だが、彼女は正妃という立場にありながら、後宮で繰り広げられているその嫌がらせを止めることもしないでいた。
結果として、エリザベートは嫌がらせを助長しているのだ。
事ある毎に私達は衝突し、その度にあくまで自分は正しいと揺るがないエリザベートに、私は憎しみさえ覚えるようになっていた。
なぜ、分かってくれない。なぜ、妥協してくれない。
余りの貧しさ故にろくに貴族の教養も身につけられず、それを負い目に感じているソフィアに、王妃になるつもりならそれなりの知識と儀礼を身につけろと迫ったと聞いた時には、怒りで目の前が真っ暗になった。
正論で相手を踏みにじるエリザベート。
彼女がソフィアを潰してしまう前に、私が彼女を排除しなければならない。
その時、私はそれが正しいと完全に思い込んでいた。
思えば、私はその時、自分が王であることを完全に忘れていたのだ。
エリザベートとウィルンスト公爵家を疎ましく思う者も少なくない。
そんな勢力を密かに抱き込んでエリザベートを闇に葬ろうと画策すること三度。
身の危険を感じたのか、ようやくエリザベートは譲歩の姿勢を見せ始めた。
やがてウィルンスト公爵家から、内々に、エリザベートとの離縁を打診されるようになった。
王家に対する支援は引き続き惜しまない。その代わり、娘のこれ以上の苦しみを看過することはできない、と。
驚くほど周囲も理解を示し、呆気ないほど簡単に離縁が成立した。
そして、その二日後、私は信頼していた弟クラウスによって王座から引き摺り下ろされ、かつてエリザベートを移そうとしていた離宮に幽閉されてしまった。
……信頼していた? いや、心の中で常に対比しては劣等感に苛まれ、憎しみさえ抱いていたのに、そんなクラウスを信頼していただなんて嘘だ。
どんなに私がクラウスを憎もうが、そ知らぬふりをしてクラウスの欲しいものを奪おうが、クラウスが私を裏切るはずはない、と思いたがっていただけだ。
しかし、クラウスは違った。国と愛しい人の為には徹底的に冷酷になれる男だった。例え、血を分けた兄をその手にかけるようなことをしてでも。
離宮に移ってすぐ、私は自分が口にするものに、ごく僅かな毒が含まれていることに気付いた。気付いたが、どうすることもできなかった。
これが、王座を追われた者の辿る道か。
表向き、病死を装いたいらしいクラウスのやり方に、抗う術は私にはなかった。
体調を崩して臥せるようになった私の看護をしてくれたのは、幼い頃私の傍に仕えていた古参の侍女だった。
彼女は、この離宮にソフィアも幽閉されていると教えてくれた。
ああ、そうだったのか。無事では済まないと思っていたが、クラウスは彼女も私と同じように、じわじわと時間をかけて苦しみを与えるつもりなのだ。
けれど、私はソフィアに会いたくはなかった。
望んだとしても、会うことは許されないだろう。それに、王位を失い、もう何もソフィアに与えられない私が、どんな顔をして彼女に会えるというのだろう。
身体の辛さに加え、ソフィアに会いたくても会えない悲しみに苛まれている私に、侍女が思いもしないことを囁いた。
ソフィアが、色仕掛けでクラウスの側近をたらし込み、この離宮を出ようと画策していたというのだ。
目の前が真っ暗になって、激しく咳き込んだ私は、大量の血を吐いて昏倒した。
食が細った分、体内に注がれる毒が減ったのか、体調の悪化は緩やかになった。
けれど、明らかに死は私に近づいてくる。
そんなある日、クラウスが私を訪ねて来た。
私が本当になりたかった、重圧に屈することのない強さを身につけた、立派な王となって。
そして、ついにクラウスは、自分が最も欲していた女性をも手にいれてしまった。
なぜ、お前は私が欲しかったものを持ち、手に入れることが不可能なものさえ手に入れてしまうのか。
そして、この期に及んでクラウスに嫉妬している自分に気付いて、私は深く絶望した。
クラウスや多くの者達は、私がこの離宮でソフィアを愛したことを悔いていると思っているようだが、それは違う。
私は、王に相応しくない、器の小さな男だった。
私を支えようと日蔭に徹してくれたクラウスの才能を妬み、私を一途に慕って努力を重ねてきたエリザベートを忌まわしく思うことしかできなかった最低の男だった。
心の中で常に王であることを厭いながら、王でなければ愛する人を幸せにすることさえできなかった。
ソフィア。お前も私と同じように、死地へ旅立とうとしているのだろうか。
そう思うと居ても立っても居られなくなって、ある夜、ふらつく体を壁に預けながら部屋を出た。
部屋の外で監視していた騎士に咎められたが、最後の願いだと懇願して見逃してもらった。
ソフィアの部屋の前には、誰もいなかった。
見張りなどいなくとも、彼女はもう一人ではどこにも行くことはできない身体になってしまっていたのだ。
月明かりに照らされた彼女の顔は見る影もないほどやつれ、青白く浮かび上がっていた。
「ソフィア……」
そっと震える両手で痩せた頬を包み込むと、長い睫毛が震えて、ゆっくりと瞼が持ち上がった。
「……陛下?」
そのか細い声に、胸の奥から熱いものがせり上がってきて、それが涙となって溢れだした。
すまない、すまない、許してくれ。全て私が悪かった。
お前がこうなってしまったのは、私のせいだ。
せめて、お前が寂しがらないように、私がずっと傍にいる。二人一緒なら、怖くないだろう?
ソフィアの痩せ細った身体に添い寝をするように身体を横たえると、ソフィアは縋るように私の首に腕を回してきた。
……信じてください、私、髪飾りの意味を知らなかったの。
途切れ途切れにそう言うソフィアの乾いた唇を、そっと自分の唇で塞ぐ。
ああ、そうだったのか。そんなことも知らないほどソフィアは純粋だったのに、間に受けて絶望してしまった私を許してくれ。
ただ、そのせいで、ソフィアは前王を見捨てて自分だけ助かろうと色仕掛けを使った、と悪評を残すことになってしまった。
いや、それもクラウスの計算通りだったのかも知れない。
ただ、私は知っている。ソフィアはそんな女性ではないと。それだけで充分だ。
さあ、ソフィア。何もかも忘れて、自由な魂となって、二人で楽しく過ごそう。
死を怖がることはない。
……ああ、泣かないでくれ。助けてなんて言って、私を困らせないでくれ。
私にはもう、お前しかいないのだから。
ほら、最期にもう一度、笑ってくれないか……?