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花詠  作者: 花詠 詞子
5/6

#5

 入内してから三年。

 花詠は十七歳になっていた。

 可憐な蕾は帝の寵愛と左大臣の後見。

 その二つに慈しまれ守られて。

 後宮という庭に見事な大輪の花を咲かせた。

 周囲の誰もがそう信じて疑わないほど、幸せの中にいる女性だと。

 ただ気にかかることがあるとすれば、それは一つ。

 花詠にいまだ懐妊の兆しがないことだけ。

 少しずつではあるが。

 その重圧が花詠や傍らに仕える女房たちの上へ。

 のしかかってきていた。「はぁ」

 棗は今日何度目になるかわからないため息をつく。

「相変わらずね、棗は」

 そう声をかけてきたのは、花詠が入内する際、一緒に大納言家からついてきた侍女の菖蒲だった。

「入内してから、三日と空けず、帝の夜のお渡りが途切れないことは良いことよ? それに女御様が帝を頼りにされている様子は微笑ましいわ。でも……」

 言葉を詰まらせた棗のあとを引き継ぐように。

「でも、このままではお二人とも報われないわね。女御様が帝に葵の君を重ねている限り」

 と菖蒲は言い切った。

 そうなのよね、と棗は相づちを打つ。

 このままでは何の解決の糸口も手繰(たぐ)り寄せられない。

 葵の君を思う花詠。

 その花詠を思う帝。

 すでにあの世の人となった葵の君は、今でもこの世に生きる二人を苦しめる。

 愛した男の死を受け入れられず、その姿に似た男に身を委ねる女。

 そんな女を愛してしまった男。

 誰が一番やるせない痛みに悶えているのだろう。 棗と菖蒲は難しい顔をして考え込んでいた。

 花詠が帝と葵の君は違う。

 彼らは別々の人間だと受け入れない限り。

 もしかしたら、懐妊もないような、二人はそんな気がしてならない。

 そこへ、帝が今夜お渡りになるとの知らせを告げる女房がきた。

 棗は瞳を閉じて言い聞かせるように小さく息を吐き出す。

 その姿に同調するよう菖蒲が言った。

「そうね。私たちが出来ることは帝と女御様へ心を込めて、お世話をすること。このままお二人を見守るしかないわね」

 そう話す菖蒲の言葉を聞いた棗は立ち上がった。

「今宵、帝がお渡りになることを女御様へお伝えしてくるわ」

 局をあとにした。

「棗。女御様に幼い頃より仕えている、あなたもツラい思いをしているのね」

 その遠ざかる背中を見送る菖蒲は、誰もいなくたった部屋で呟いた。




◇◆◇◆◇◆◇




 刺すような日射しから。 少しずつ穏やかな光に変わる秋の太陽。

 その光に照らされ、庭の花々が輝く。

 それらを見つめる佳人。

 その黒髪は(ろう)を波のように広がり艶めく。

 近づこうとした棗は聞こえてきた音に思わず立ち止まった。

「葵の君、あなたに会いたい……」

 か細くけれど、しっかりと紡がれた言葉。

 愁いに染まる瞳は目の前の花々を写していなかった。

 その先へ視線がさ迷う。

──姫様っ……

 その様子に棗の心の内も声が出てこない。

 しばらくの間、棗は動けずにいた。

 人の気配を感じたのか花詠から声をかけてきた。

「棗、そんなところで何をしているの?」

 焦点の定まっていなかった花詠の瞳が棗の姿を写している。

 そこには先ほどまであった愁いの色はなく。

 いつも見せる穏やかな花詠の微笑み。

 棗はホッと安堵の吐息をついて、いつもと変わらぬ笑顔を浮かべた。

「女御様。今宵は、帝がこちらへお渡りになるそうです」

「そう」

 短く応え、花詠は部屋へと戻っていった。




◇◆◇◆◇◆◇




 満ちる前の欠けた月が当たりを照らす。

 花詠はその頼りなくも遠くへと誘う光に。

 ふと庭を見たい衝動にかられ廊下へ出る。

 深い紺色の空に浮かぶ月。

 その淡い光に照らされて静かに佇む花。

 秋の冷たい夜気が花詠の頬を撫でる。

 ふいに、懐かしくも胸を締め付けられる香りがかすかにした。

 その香りにはっとした花詠は人の気配を感じた方へ視線を向ける。

 おぼつかない足どりでこちらへと近づいてくる影が見えた。

 その姿を目でとらえた花詠は手にしていた扇を思わず落とす。

 直感が訴える。

 この場から逃げ出さなければと。

 でも近づいてくる影から。

 目をそらすことも、そして動くこともできず。

 花詠の足は根がはり、花のようにその場で咲いていた。

 そして、思わずつぶやいた言葉。

「……葵の君?」

 酒のせいであろうか頬がかすかに赤く染まり、千鳥足で上機嫌な様子で近づいてきた人物は、その小さなつぶやきを聞き逃さなかった。

 暗がりの中から。

 月に照らされた廊下を歩いていた、その人物は表情を固くしたたまま。

「私は葵の君ではない」

「私は葵の君ではないのだ」

 静かな怒りが垣間見える低い声。

 花詠はその身を強ばらせた。

 そんな花詠の様子に気づかない。

 その声はなおも言葉を続ける。

「初めは葵の君の代わりでもかまわないと思っていた。でも違うんだ。それじゃ、この心の渇きは収まらない」

 怒りは切なく懇願するような響きに変わる。

「君を愛しているんだ」

 身を固めたままの花詠に近づいていく。

 自らの腕の中に閉じ込めようとした。

 今まで何の反応も示さなかった花詠は、自分を捕らえようとする男の手が急に怖くなる。

「嫌っ、触らないでっ」

 拒絶の言葉とともに、身をよじった。

 その行動に、とても傷ついた表情の男の伸ばした手は悲しく宙を舞う。

「時々、君が求めているのは葵の君ではなくて、私自身だと錯覚しそうになるんだ。違うことは初めから承知していたはずなのに……」

 男の目は悲しそうに床を見つめ、辛そうに心の内を静かに語り始めた。

「生身の君に触れているのは私だ。でも、その心に触れることができくて、こんなに苦しくなるなら、初めから君をそばに置かなければよかった……私は疲れた。もう君を自由にしてあげるよ。里下がりをするなり、出家をするなり、好きにするがよい」

 男の言葉は花詠の心に小さな波紋を描いていく。 少しずつ、確実にその波紋は激しく心の内を波立たせるように。

 混乱する思考と息をすることを忘れてしまった動かない体。

 泣いているように最後の言葉を紡いだ、男は穏やかに微笑みかけ、花詠に背を向け、その場を立ち去った。

 花詠は、その小さくなる背を見つめ続ける。

 雲が少しずつ月の姿を隠す。

 まるで花詠の中に生まれた変化すらも覆ってしまうように。

 そして、月はすべて闇にのまれた。

 花詠が浮かべていたであろう表情も今は見えない。




◇◆◇◆◇◆◇




 永い夜が明けた。

 昨夜の出来事は穏やかに揺らめく水面に。

 激しく波立たせる強い風が吹き抜けたような感覚を花詠の中に残した。

──私は葵の君ではない。 そう言い放った帝。

 はじめに葵の君だよと言って花詠に近づいてきたのは彼だったはず。

 消え入りそうな声で花詠は呟く。

「わからない。あなたが葵の君じゃないなら、彼はどこにいるの」

 帝に対して怒りよりも恐れを抱いた。

「私が愛しているのは、葵の君よ?」

 帝にぶつけられた激情は、花詠の中で戸惑いを生んだ。

 葵の君へ向いていると信じていた思いがわからなくなる。

 花詠は(かぶり)をふって壁に寄りかかっていた。

 どのくらい、そうしていたであろう。

 ふと、どこからか漂う芳香に導かれるよう、花詠は部屋からでた。

 庭へ降りて、その香りを探す。

 そして、庭の奥へ歩いていくと、その隅に沈丁花の木が一本。

 これが部屋まで届くほどの芳香をはなっていたことに。

 少なからず驚きを覚えた。

 だが、それよりも花詠は自らの瞳が捉えた人影に息が止まりそうになる。

 思わず駆け出した。

「会いたかったわ。葵の君」

 (すが)るような気持ちで。

 目の前に立つ葵の君を見つめた。

 そんな様子の花詠を、葵の君は何も答えず。

 だだ静かに微笑んでいた。

 花詠は恐る恐る彼との距離を縮めるように歩む。

 そのぬくもりを確かめたい一心で。

 でも、なかなか近づくことができない。

 花詠はたまらず両手で顔を覆い、嗚咽(おえつ)をもらした。

「お願い。葵の君、何か言って。もうダメなの。これ以上、あなたがいないことに耐えられない」

 花詠の歩みが止まる。

 操り人形の糸が切れたようによろめき、その場に膝をつく。

 そして、身の内に残る思いを絞り出すように音を紡ぐ。

「葵の君。私を一人にしないで」

 こんなに求めているのに、なぜ届かないの。

 二度と触れ合えないのなら、いっそあなたへの思いを消して。

 あまりにも強すぎる思いは、時に人の心を壊してしまう。

 花詠は顔をあげて、葵の君をまっすぐ見つめる。

 あの頃と変わらない姿が涙でにじんでぼやけた。

(もう何も感じたくない。あなたを思う、私を消して)

 そう思って瞳を閉じようとした花詠に向かって。

 葵の君が人差し指をさす。

 止まりかけた彼女の思考は一生懸命、答えを探す。 彼のさし示す先と視線を追いかける。

 それが自らの腹であることに気づき。

 葵の君へと視線を戻したと同時に。

 ぽつん、ぽつんと雨が落ちてきた。

 あたり一面に漂っていた香りが少しずつ消えていく。

 葵の君の口元が動いた。

 音にならない言葉を隠すように雨は激しさを増していった。

 薄れていく意識の中で花詠は感じた。

 まるで心がわしづかみにされて。

 握りつぶされていくような痛みを伴う切なさ。

 今初めて、彼がこの世にいないことを受け入れるようにその瞳を閉じた。

 一筋の涙が頬をつたう。

 人が抱えきれない悲しみを洗い流すように。

 滴たちが花詠に降りそそぐ。

 まるで抱きしめるように、その体を包み込んでいった。




◇◆◇◆◇◆◇




──君は生きるんだ。その命を守るために──





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