#4
御所へ着いた花詠一行。
清涼殿へと続く廊下を歩いていく。
周囲の反応は屋敷の者たちと変わらなかった。
──あれが新しい女御様。なんとお美しい方なんでしょう。
──きっと帝の寵愛を一身に受けるんでしょうね。
しかも左大臣様が後見されていて。
──何の憂いもないなんて、羨ましいですわ。
御簾内より交わされる後宮の女たちの会話。
さらには、値踏みするような不躾な視線。
あちこちから聞こえてくるひそひそ話。
棗は心の中で辟易し、毒づいていた。
そして、そっと花詠を気遣うように目を向けてみる。
周囲の雑音が気にならないのか花詠は涼しい顔をしていた。 その瞳は前を見つめ、頬は朱に染まっていた。
口元は心なしか微笑んでいるようにすら見える。
(もしかして、姫様は……)
一瞬、嫌な想像が棗の頭をよぎった。
だがすぐに、そんな思いを打ち消すように棗は頭を振る。
(それは考え過ぎだわ)
清涼殿に着いた花詠たち。
主のいない御簾の前に座す。
色とりどりの重ねが美しい女房装束を身につけた女たち。
彼女らは左右に座し、優雅に扇をゆらす姿が目の端に写った。
しばらくして。
御簾内に気配を感じたと同時に帝の訪れが告げられた。
花詠一行は頭を下げる。
彼からの言葉を待った。
なかなか声をかけられないと思ったら。
御簾内を揺らし、突然、帝が出てきた。
「待っていたよ、私の花詠」
愛おしそうな瞳を向けて。
耳をくすぐる心地の良い低い声が甘く響いた。
許しを得ていなかったが花詠はたまらず面をあげる。
その姿、その声、その微笑み、そのすべてが、記憶の中にある愛しい恋人。
目の前には恋しくてたまらなかった葵の君がいる。
そう思いこんでしまうには十分だった。いまだ葵の君の死を現実のものと理解できずにいる彼女にとって。
帝は甘い毒でしかないと棗は思った。
そっと主である花詠の様子を伺う。
彼女の頬は牡丹の花のように赤く染まり。
その瞳は嬉しそうに潤んでいた。
(なんて悲しい現実なのだろう。これでは花詠様は……)
棗は引き結んでいた唇を噛みしめていた。
すると、いつの間にか花詠の傍らに立っていた帝が一言。
「下がって良い」
と退出を促した。
するすると衣音をたてながら、左右に座していた女房たちは一斉に退出していく。
棗たち侍女も、それにならうよう花詠を残し退出した。
「やっと会えたね。私はずっとこの日を待っていたんだ」
花詠の瞳を見つめ、ゆっくりと言い聞かせるように帝は話す。
「葵の君」
花詠は焦がれ過ぎた愛しい恋人の名を、細い声で呼ぶ。
それを聞いた帝は少し寂しそうに微笑んだ。
一瞬だけ目を伏せたが、何かを決意したように花詠を自らの胸に抱き寄せた。
すっぽりとその存在を包み込む。
急に抱きしめられた花詠は少し困惑した表情を浮かべた。
久しぶりに感じる葵の君のぬくもりを確かめるように。
その胸に耳を当て、規則正しく動く心音に安らぎを覚えた。
「会いたかった」
震える声で花詠は葵の君だと勘違いした帝に言った。
胸からわき上がる切なさは喉を渇かすような感覚を与える。
帝は次の言葉を紡ぐことをためらってしまった。
『帝、あなたは花詠を以前からほしがっていた。なら、ためらわないことだ。葵として、彼女に接すればいいだけ。それで彼女が手に入るのだから』、帝の脳裏に左大臣の言葉が過ぎた。
そして、揺れる心を奮い立たせるように改めて誓った。
(これから先、葵の君として花詠のそばにいることが、彼女を手に入れる唯一の方法なのだ)
悲しい選択をした。
◇◆◇◆◇◆◇
満月になる前の欠けた月。 まるで今の帝と花詠の関係を表すような小望月の浮かぶ。
帝と花詠が初めて過ごす夜。
帝の訪れを告げる女房の声。
単衣に身を包み、正面を静かに見つめる花読の姿があった。
緊張からか白い肌はさらに白く見える。
そのため、口元にひかれた紅がとても目を引く。
部屋に入り、花詠の姿を見た帝は思わず、心の中で呻いてしまった。
月の佳人、かぐや姫を思わせる。
宵闇を照らす気高き姿。
まだ誰も触れたことのない清らかさが。
単衣の袖からこぼれ落ちていた。
やっと、彼女を手に入れることができる。 そう思うだけで帝は身震いが止まらない。
──たとえ、その心が誰に向いていようとも構わない。今生きて彼女に触れることが叶うのは私だ。
帝は緊張してきた気持ちを鎮めるように。
花詠の元へ静かに歩み寄る。
近づく気配に気づいた花詠がそっと視線を帝へ合わせ。
花がほころぶような笑みを向けた。
その笑みを見た帝は思わず息を飲む。
雷に撃たれたような衝撃が全身を駆け巡り。
その先への一歩を踏み出すことができない。
どれくらいの間そうしていただろう。
もしかしたら、それほど時は過ぎていないのかもしれない。 二人は、どちらからも言葉を紡ぐことなく。
だが視線は逸らさず絡め合っていた。
ふいに、帝の手から扇子がすべり落ち、畳にポトンっと。
まるで、それが合図かのように。
帝と花詠は磁石が引き寄せられるように唇を合わせた。
触れるだけの軽い口づけ。
それだけでも、二人の体に火を灯すには十分だった。
一度離れた唇は、求め合うようにまた引き寄せられていく。
何度も何度も重ねられていく口づけ。
その行為と比例するように洩れる熱く切ない吐息。
花詠は体のすべてを帝に委ねた。
瞳を閉じた花詠は、早まっていく鼓動に戸惑いと。 もっと欲しいという望みに支配されていく。
そして、さらに熱くなっていく自らの体とその望みは。
帝を受け入れ、まどろみの中に沈んでいった。
まるで、心に生まれた寂しさを埋め尽くすように激しく求め合う。
二つの魂が一つに溶けていくように。
◇◆◇◆◇◆◇
まだ暗さの残る中。
一筋の月の光が花詠の眠りを妨げた。
けだるさを引きずる体をゆっくりと起こす。
花詠は、傍らに眠る男の顔を眺めた。
ふと、その頬へ触れたくて左手を伸ばす。
だが、たどり着く直前、空を握りしめる。
そして、その手を花詠は胸元へ引き寄せて。 右手でそっと包み込むように抱きしめ瞼を閉じた。
──あなたは、誰なの?姿も声も葵の君と同じなのに。私の心はあなたを葵の君ではないというの。
彼に感じた違和感。
それは、花詠の心に小さな棘となって突きささる。 その痛みは、いつか夢から覚めるきっかけを与えるような気がした。
そんな思いを振り切るように花詠は頭を左右に振る。
──手を伸ばせ、ぬくもりをくれる、あなたが葵の君であっても、そうじゃなくても……お願い、もう少しだけ夢を見させて……
瞳に溢れてきた涙をそっと袖で拭った。