#3
左大臣との対面をした翌日。
綾小路大納言家は慌ただしくも活気づいていた。
花詠が左大臣の養女として、入内するからだ。
時の権力者が後見する。
彼女の後宮での栄華は約束されたも同然。
北の方が先頭に立ち。
入内の準備が滞りなく進められていく。
それを横目で見る大納言はあの日以来、ため息ばかりついていた。
そして、屋敷内で唯一、その慌ただしさの意味を知らされていない。
花詠は、部屋で琴をつま弾いていた。
その姿はまるで絵物語から抜け出してきたかぐや姫のようで。
部屋に差し込む日差しに照らされて。
ますます美しく輝いていた。
(やはり、この方以上に美しい姫は都中を探しても、見つけることはできないだろう)
傍らに侍る棗は思った。
(帝が姫様を求めるのも頷ける。だけど姫様のお心はいまだに葵の君の死を受け入れられず、暗い海原の中をさ迷っているというのに)
棗にはどうしても、この入内が間違っているように思えてならなかった。
(葵の君様を思い続けたまま、入内されても姫様は幸せになれない。でも、亡くなられた葵の君様を待ち続けるよりはこれで良かったのかもしれない)
主人思いの棗は、そう思う反面。
それで本当に幸せといって良いのか、正直わからない。
そんな複雑な表情で花詠を見つめていた。
「どうしたの、棗? そんなに見つめられては恥ずかしいわ」
花詠は棗に穏やかな笑みを向けて言った。
主人に対して、あまりにも不躾な視線を投げていたことに、今さらながら気づいた棗。
「姫様。申し訳ございません」
消え入りそうな声で答えた。
「いいのよ。棗」
優しく声をかける花詠。
そして、棗に向けていた視線を部屋の外へ移した。
まるで空の向こうよりも。
さらに遠くを見つめるように。
「葵の君。もう少しであなたに会えるのね」
その声音は聞く者の胸を締め付けるように切なく響いた。
◇◆◇◆◇◆◇
その日の空は、まるで静かに流された涙のような。
弱すぎず、激しすぎない。
渇いた大地を癒すような雨が降っていた。
「姫様。もう少しで出立の時刻でございます。殿と北の方様のもとへご挨拶に参りましょう」
「えぇ、そうね」
声とともに振り返った花詠。
その姿を見た棗は、ハッと息を飲んだ。
もしも心地よさを運ぶ、秋の風に姿があるなら。
きっと目の前にいる美しい女性の姿をしていることだろう。
結い上げられた髪は黒曜石のように輝き。
薄くではあるが面にほどこされた化粧。
まるで、小さな花びらを思わせる紅がひかれる。
扇で顔を隠しながら。
両親の部屋へと続く廊下を歩く花詠。
その姿は、まるで空より舞い降りた天女のように軽やかで優雅な足取りだった。
花詠がそばを通り過ぎると。
屋敷の者たちはその姿に皆見惚れて、感嘆の声をもらしていた。
着飾った娘の姿を大納言は心配そうに見送る。
隣にいる北の方は嬉々とした様子で娘の晴れ姿を誇らしげに見つめていた。
(はぁ……)
心の内では、ため息しか出てこない大納言。
その表情も渋いものになっていた。
北の方は、そんな夫の様子を横目で見ながら。
「殿。もう少し笑顔で花詠を見送ってあげてくださいな。私も入内することが女として生まれた最高の幸せだとは思っていませんよ」
と話し出した。
妻がぽろりとこぼした思わぬ本音に、大納言は驚きの表情を向けて。「おまえはこの入内をとても喜んでいると私は思っていたぞ?」
北の方はふふっと笑った。
「あなたが苦い表情ばかりするんですもの。兄上の手前、私だけでも大げさに喜んだ様子を見せなければ、大納言家への心象が悪くなりますわ」
そこには今までの騒いでいた北の方の姿はなく。
娘を心配する一人の母親がいた。
「殿。私、入内したからといって花詠が幸せになれるか正直わからないけれど、葵の君を思い泣き暮らす毎日よりは良いと思うのよ」
北の方は一呼吸おいて。
「花詠はまだまだ若いのよ。触れ合うことの叶わない葵の君を思い続けて、年を重ねてゆくより、兄上の後見がある後宮で、触れ合える幸せを見つけてくれることを願うわ」