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花詠  作者: 花詠 詞子
2/6

#2

 あの日から三年。

 綾小路の屋敷の庭には、約束通り、沈丁花の木が植えられていた。

 濃紅色の蕾は少しずつ薄紅色に変わり。

 香りをほころばせていくように花を咲かせる。

 花詠は、今年で十四。

 葵の君より贈られた沈丁花を愛おしげに見つめる。

 この花が咲くたびに。

 いつも、思い出すのは同じ季節に交わした、あの約束。

 まるで、この身を包み込むように。

 漂う花の香は、あの日と同じ。

 葵の君に抱きしめられた幸せを与えてくれる。

 その心地よさに浸っていると。

 突然の稲光。

 先ほどまでの澄んだ青空は、暗いネズミ色に覆われていく。

 ぽつん、ぽつんと、一つまた一つ、空から雫が落ちてきた。

 雫は徐々に増え、大雨となった。

 なぜだろう?

 花詠はこの突然の雨に妙な胸騒ぎを覚えた。

 庭に咲き誇る沈丁花は、激しい雨にその身を落としていく。

 先ほどまで辺り一面に漂っていた香りは余韻も残さず。

 跡形もなく消えてしまった。

 大雨の夜が明けて朝。

 花詠の父親である綾小路の大納言が、神妙な面持ちで彼女の部屋を訪れた。

 それほど大きくない花詠の部屋。

 だが、葵の君から贈られた調度品が品良く並んでいる。

 それらに囲まれた花詠。

 まるで守られているかのように座っていた。

 父親の訪れに笑顔を向ける。

 たとえ扇で顔を隠したとしても。

 彼女の美しさは隠せない。

 娘の姿を見た大納言は素直に思った。

 同時に、今から伝える左大臣家よりの知らせが、彼女の心に刃となって深く突き刺さってしまうのではと胸が痛んだ。

 伝えなければと思いつつも、なかなか口を開けないでいる大納言。

 花詠はいつまでたっても、何も言わない父親に怪訝そうな視線を投げた。

「お父様。どうされたの?」

 声をかけられた大納言は、ハッとしたように決意する。

「花詠よ。どうか心を落ち着けて聞いてほしい」

 重い口を動かす。

「今朝早く、左大臣家より知らせがきた……」

 一瞬、言葉を詰まらせる。

 大納言は咳払いをして。

「葵の君は、帝のお供で参拝へ行った折りに……突然、賊が帝の一行に襲いかかってきて、葵の君は帝を庇い……命を落としたと」

 父親の発した言葉が何を言っているのか。

 花詠は理解できなかった。

 だが、彼女の頭の中では「葵の君が命を落とした」という言葉だけ。

 くるくるくると回っていた。

「うそよ。うそでしょ? 葵の君が私を一人にするなんて」

 目の前に突きつけられた。

 受け入れたくない現実に、花詠の感情は高ぶっていく。

(誰か……誰か、うそだと言って)

 心臓を鷲掴みにされ、握りつぶされたような痛みが花詠の全身を走り抜けた。

「いやぁー」

 と叫ぶと同時に気を失ってしまった。

 哀れな娘の姿に大納言はただ、膝の上で握りしめている左手に力をこめた。




◇◆◇◆◇◆◇




「ねぇ、棗。最近、葵の君から文がこないのよ。」

 葵の君が亡くなってから三月がたつ。

 ようやく起きあがれるまでに回復した花詠。

 いまだ床の住人ではあったが。

 あの日のように取り乱すことはなく、静かに葵の君の訪れを待ち続けていた。

(姫様……。あの日、意識を取り戻された後、葵の君が亡くなられたことだけを忘れてしまわれて)

 棗は葵の君の訪れを今か今かと心待ちにしている。

 その花詠の思いに切なくなった。

 ならかける言葉は一つ。

 いつものように答える。

「姫様。葵の少将は帝の覚えがめでたいお方。ご公務は多忙を極めているそうですわ。さすが姫様の夫となる方です」

 棗の言葉を聞いた花詠は柔らかい笑みを浮かべた。

「そうよね。それじゃ仕方ないわ。でも文くらい下さっても罰は当たらないと思うのよ」

 拗ねたように、口元を尖らせたが。

 すぐに愛らしく片目を閉じて笑顔を見せた。

「そうよね。いつまでもワガママを言っては葵の君に嫌われてしまうわ」

「そんなことはありませんわ」

 棗は話を合わせた。

 花詠が目覚めてから、幾度となく繰り返された会話。

(これから先、姫様はどうなるのかしら……)

 幼少の頃より仕えてきた棗の瞳は。

 今の花詠の姿を直視することが何よりもつらかった。

 遅かれ早かれ、花詠は葵の君の死を受け入れなければならない。

 その時は、全力で姫様を支えて差し上げるのだ。

 棗は日々、心に誓った。




◇◆◇◆◇◆◇




 それから数日が立ち。

 遠くで暮れを告げる鐘の音が聞こえる時刻。

 綾小路の屋敷は慌ただしさに包まれた。

 大納言や北の方を始め、屋敷中の者たちが落ち着かない様子で。

 せわしく動き回る。

 花詠も棗に促されるように。

 正装である女房装束に着替えさせられた。

「こんな格好をさせて、今日は何かお祝い事でもあったかしら?」

 まるで、この騒ぎに興味がないというような。

 そんな声音で花詠は問いかけた。

 棗は姫を着替えさせる手の動きはとめないまま。

「本日は左大臣様が屋敷へお見えになると聞いております。その時、姫様もご挨拶されるので、そのために準備しているのですわ」

 優しく微笑み花詠に答えた。

(いくら左大臣様がお見えになるからって、まだまだ寝ていることの多い姫様に正装をさせるなんて)

 棗は心の内で、綾小路大納言に対し、とても憤慨していた。

 姫様第一の棗にとって。

 まだ体調が思わしくない花詠に無理をさせたくないというのが本音だ。

 花詠はやはりきついのだろう。

 女房装束はかなりの重さがある。

 時折、よろめき、苦しそうに息を吐く花詠の姿に。

 棗だけではなく、周りにいる他の侍女たちから見ても。

 花詠の体調を思えば、心配に思う。

「姫様。おつらそうですわ。身代わりを立ててもよろしいか、殿にご相談申し上げてきますわ」

 あとはお願いねと言いおいて。

 棗は北の対にある大納言の部屋へ向かった。

 棗は北の対へ向かう廊下の途中。

 大納言の正妻である北の方付き侍女の菖蒲(あやめ)に出会った。

「菖蒲」

「あら、棗じゃない? 姫様の支度は終わったの。もう少しで左大臣様がお見えになるから、北の対へご案内しようと迎えに行く途中だったのよ」

 菖蒲は優雅に微笑み、棗へ声をかけた。

 それとは対照的に棗の表情は冴えない。

「その事で、殿にご相談にあがろうと思っていて、姫様の今のご様子じゃ、お辛そうで身代わりを立てられないかと」

 それを聞いた菖蒲の微笑んでいた表情が険しくなった。

「それは無理かもしれないわ。左大臣様が姫様に直接会いたいと言ってきているらしいの。その事は伝わっていないの?」

「えぇ、こちらへは左大臣様がお見えになるから、挨拶をするだけだとしか聞いていないわ」

 棗と菖蒲は互いの顔を見つめ合い、何か別の目的があるのかもしれないと考えていた。




◇◆◇◆◇◆◇




「左大臣様、本当によろしいのでしょうか?」

 綾小路大納言は、不安な面もちになりながらも、娘を心配する父親として。

 目の前に座る朝廷の権力者へ問いかけた。

「大納言よ。なぜ浮かぬ顔をする? 今の姫のこともすべて、あの方はご存知の上での申し出だ。めでたいことではないか」

「そうですよ、殿。兄上がおっしゃるように、あの方から直接の申し出だなんて、身に余る光栄だわ」

 大納言は嬉々と話す妻を恨めしく思った。

 姫の気持ちを思うなら断りたいが、妻の異母兄である。

 そして、宮中の権力者でもある左大臣に逆らえるほどの気概も持ち合わせていなかった。

 そこへ菖蒲が来て、花詠の訪れを知らせた。

 待っていたとばかりに左大臣は、閉じた扇を優雅な仕草で口許へ当てる。

 花詠への品定めが始まった。

 部屋の中に張り詰めた空気が漂っていく。

 都一の美しい姫。

 そして何より、素晴らしい和歌を詠むとの評判の姫だと。

 まことしやかに囁かれている花詠に関する噂。


 扇で顔を隠し、部屋へ入ってきた花詠の立ち振る舞い。

 匂い立つような艶があるなと左大臣は正直に思った。

 手をついて挨拶を終え、顔を上げた花詠を正面から見る。

 左大臣は感嘆の声を上げ、持っていた扇を落としてしまった。

「ほぉ。噂はかわいいものだ。これほどの美しい姫だったとはな」

 左大臣は目を細めて微笑み、一人、小さく呟くと落ちた扇を拾う。

 それを口元にあてながら、花詠に問いかけた。

「今日こちらへたずねたのは、姫に会わせたい人がいる。一緒に来てもらえないだろうか? 今はあまり詳しいことを話せない。だが、一目会えばわかる。どうだろう?」

 あくまでも柔和な表情で。

 穏やかに相手の意志を確認するような口振りだが。

 そこには有無を言わせないという響きがあった。

 左大臣の「一目会えばわかる」という言葉が。


 花詠の中で甘く響いた。

 なぜだろう。

 確証はないのに、淡い期待が花詠の胸の中で膨らんでいく。

 そして、彼女は迷わずに答えた。

「左大臣様の仰せのままに」

 その瞳はいまだ、虚ろいの色が浮かぶ。

 だが、その声音だけははっきりとしたものだった。

 娘の了承の返事。

 北の方は喜んだ。

 大納言は苦い表情を浮かべ、つらそうに歪む口元と悲しい瞳で娘の姿を見つめていた。


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