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花詠  作者: 花詠 詞子
1/6

#Ⅰ

 外は穏やかな雨が降っている。

 まるで蜘蛛(くも)の糸が垂れたように細長く。

 悲しみを絡め取る優しい雨。

 登花殿(とうかでん)を居所とする花詠女御(はなよみのにょうご)の局。

 心地よい音が響く。

 子守歌のように眠りへと誘う雨音。

 花詠女御は脇息(きゅうそく)にもたれ、その音色に身をゆだねていた。

 冷たい空気にのって、ほのかな香りが届く。

 その香りに女御の胸は締め付けられるように震えた。

 そっと瞳を閉じてつぶやく。

「此の花の 残り香に涙する 君が(まほろ)を 消す雨憎し」

 香りの正体は庭の片隅にある沈丁花(じんちょうげ)

 女御の座っている位置からは見えない。

 だが、花の咲く季節、風のいたずらが運ぶ香りは、都一美しいと讃えられる女御の表情を切なくさせる。

 誰もいない庭に降り続く雨を見つめる。

「ねぇ、私。あなたとの約束を守れているかしら?」

 女御は一人、問いかける。

 過ぎ去りし日の哀しくも愛しい思いに沈んでいると。

「お母様」

 女御を呼ぶ、幼子の声が聞こえた。

 女御は声がしたほうへ振り向き、駆け寄ってくる幼子の愛らしい姿を見つけると目を細めた。

「こちらへいらっしゃい、二の宮」

 優しく手招く。

 先ほどの切ない表情は、穏やかな母親の微笑みに変わっていた。




◇◆◇◆◇◆◇




「歩くのが早いわ。葵の君」

 前を行く水干姿の少年に追いつこうと小走りになり、少女は苦しくなって立ち止まる。

 花葉色の風が吹き、腰まで伸びた黒髪が揺れる。

 名を呼ばれて、先を歩いていた少年は振り返る。

「大丈夫かい。花詠? 少し休もうか」

「えぇ、ちっとも大丈夫じゃないわ」

 花詠と呼ばれた少女は、色の白い面に赤みがさした頬をぷくっと膨らませた。

 不機嫌な空気を全身にまとい、口元をとがらせる。

 その様子を見た葵の君は、やれやれと肩をすくめて苦笑いをし、花詠のもとへ戻った。

「これで機嫌を直してもらえませんか? 花詠」

 彼女の顔を覗き込みながら、飛びっきりの笑顔で、自らの左手を差し出す。

(この笑顔……本当に厄介だわ)

 なんだか、いつもこの手でしぶしぶ許してしまう。

 そんな自分を情けなく思いつつも、不思議と嫌な気分はしなかった。

「もう、葵の君はズルいわ」

 その手をとる。

「あと、どのくらいで着くの?」

「あそこを曲がれば、すぐだよ」

 左前方を指差し、山の中をさらに奥へ進んでいく。

(さすが、今を時めく、左大臣家の所領だわ)

 葵の君に手をひかれながら、感心して周囲を見渡す。

 進んでいくうちに、沈香のような匂いが空気に混じって、花詠の鼻をくすぐる。

 そして、曲がってみると葵の君が言ったとおり、そこには一面、淡紅色の景色が広がっていた。

 よく見ると、一メートルくらいの高さの木に、枝の先は二十ほどの小さな花が手鞠のように固まってついている。

 その花を囲むように、月桂樹に似た葉が四方に伸びていた。

 そして何より、あたり一面を漂う優しい香り。

 花詠は大きく息を吸い込み、その香りを楽しんだ。

「ステキな香りね。葵の君」

 先ほどまでの不機嫌さはどこ吹く風のようで、疲れが一気に吹き飛んだ様子の花詠は瞳を輝かせ、淡紅色の景色に魅入った。

 それを傍らの葵の君は、慈しむような眼差しで、その横顔を見つめていた。

「喜んでもらえたようで、良かったよ。この花はね、沈丁花というんだ」

「沈丁花? とても可愛らしい花ね。家の庭にもほしいわ」

 花詠は無邪気にねだった。

「いいよ。今度、届けさせよう。綾小路の大納言や叔母君にも久々に会いたいしね」

 と笑顔で応えた。

 二人の間を強い風が通り抜ける。

 花詠は顔にかかった横髪を払いのけた。

 すると葵の君の声が降りてくる。

「花詠。僕は来年、元服する。そして、出仕することになる。大人の仲間入りをするんだ。だから、君が裳着を済ませたら、妻に迎えたい」

 今まで沈丁花を見つめていた花詠は、弾かれたように葵の君を見た。

 ハッと息を飲み込む。

 緊張した面持ちの葵の君。

 二人の視線が交わる。

 彼の瞳はどこまでも真剣な色を宿していた。

 絡み合う二人の視線。

 花詠の瞳は驚きの色を浮かべていたが、すぐに不安な色に変わった。

「私は今、十一よ。裳着まで、あと二、三年はあるわ。それまで待っていてくれるの?」

 互いの姿しか映していない二人の瞳。

 葵の君は触れるか触れないかくらいに軽く唇重ねた。

 一瞬の出来事。

 瞳を開けたままで受け入れた花詠は、何が起こったかのか理解するにはまだ少し幼かった。

 唇を離した葵の君は照れくさそうに言った。

「今のは約束のしるしだよ。花詠は僕のものだっていう」

 そして彼女を抱きしめた。

 葵の君の胸は華奢な体型から想像していたよりも。

 広くて、暖かくて、とても居心地がよくて。

 ずっと抱きしめられていたいと思った。

 花詠は瞳を閉じて、葵の君から伝わる不規則な心音に耳を傾ける。

「待っていてね。私、今よりも和歌も上手くなる。都一の美しい姫になって、葵の君の妻になるわ」

 沈丁花の香りに包まれた幼い二人の約束。

 二人で紡ぐ未来を夢見て。

 それは、すぐ来ると信じて疑わなかった。

 めぐる四季を繰り返し、時を重ねても。

 二人のこの想いは「永遠」なのだと。

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