#Ⅰ
外は穏やかな雨が降っている。
まるで蜘蛛の糸が垂れたように細長く。
悲しみを絡め取る優しい雨。
登花殿を居所とする花詠女御の局。
心地よい音が響く。
子守歌のように眠りへと誘う雨音。
花詠女御は脇息にもたれ、その音色に身をゆだねていた。
冷たい空気にのって、ほのかな香りが届く。
その香りに女御の胸は締め付けられるように震えた。
そっと瞳を閉じてつぶやく。
「此の花の 残り香に涙する 君が幻を 消す雨憎し」
香りの正体は庭の片隅にある沈丁花。
女御の座っている位置からは見えない。
だが、花の咲く季節、風のいたずらが運ぶ香りは、都一美しいと讃えられる女御の表情を切なくさせる。
誰もいない庭に降り続く雨を見つめる。
「ねぇ、私。あなたとの約束を守れているかしら?」
女御は一人、問いかける。
過ぎ去りし日の哀しくも愛しい思いに沈んでいると。
「お母様」
女御を呼ぶ、幼子の声が聞こえた。
女御は声がしたほうへ振り向き、駆け寄ってくる幼子の愛らしい姿を見つけると目を細めた。
「こちらへいらっしゃい、二の宮」
優しく手招く。
先ほどの切ない表情は、穏やかな母親の微笑みに変わっていた。
◇◆◇◆◇◆◇
「歩くのが早いわ。葵の君」
前を行く水干姿の少年に追いつこうと小走りになり、少女は苦しくなって立ち止まる。
花葉色の風が吹き、腰まで伸びた黒髪が揺れる。
名を呼ばれて、先を歩いていた少年は振り返る。
「大丈夫かい。花詠? 少し休もうか」
「えぇ、ちっとも大丈夫じゃないわ」
花詠と呼ばれた少女は、色の白い面に赤みがさした頬をぷくっと膨らませた。
不機嫌な空気を全身にまとい、口元をとがらせる。
その様子を見た葵の君は、やれやれと肩をすくめて苦笑いをし、花詠のもとへ戻った。
「これで機嫌を直してもらえませんか? 花詠」
彼女の顔を覗き込みながら、飛びっきりの笑顔で、自らの左手を差し出す。
(この笑顔……本当に厄介だわ)
なんだか、いつもこの手でしぶしぶ許してしまう。
そんな自分を情けなく思いつつも、不思議と嫌な気分はしなかった。
「もう、葵の君はズルいわ」
その手をとる。
「あと、どのくらいで着くの?」
「あそこを曲がれば、すぐだよ」
左前方を指差し、山の中をさらに奥へ進んでいく。
(さすが、今を時めく、左大臣家の所領だわ)
葵の君に手をひかれながら、感心して周囲を見渡す。
進んでいくうちに、沈香のような匂いが空気に混じって、花詠の鼻をくすぐる。
そして、曲がってみると葵の君が言ったとおり、そこには一面、淡紅色の景色が広がっていた。
よく見ると、一メートルくらいの高さの木に、枝の先は二十ほどの小さな花が手鞠のように固まってついている。
その花を囲むように、月桂樹に似た葉が四方に伸びていた。
そして何より、あたり一面を漂う優しい香り。
花詠は大きく息を吸い込み、その香りを楽しんだ。
「ステキな香りね。葵の君」
先ほどまでの不機嫌さはどこ吹く風のようで、疲れが一気に吹き飛んだ様子の花詠は瞳を輝かせ、淡紅色の景色に魅入った。
それを傍らの葵の君は、慈しむような眼差しで、その横顔を見つめていた。
「喜んでもらえたようで、良かったよ。この花はね、沈丁花というんだ」
「沈丁花? とても可愛らしい花ね。家の庭にもほしいわ」
花詠は無邪気にねだった。
「いいよ。今度、届けさせよう。綾小路の大納言や叔母君にも久々に会いたいしね」
と笑顔で応えた。
二人の間を強い風が通り抜ける。
花詠は顔にかかった横髪を払いのけた。
すると葵の君の声が降りてくる。
「花詠。僕は来年、元服する。そして、出仕することになる。大人の仲間入りをするんだ。だから、君が裳着を済ませたら、妻に迎えたい」
今まで沈丁花を見つめていた花詠は、弾かれたように葵の君を見た。
ハッと息を飲み込む。
緊張した面持ちの葵の君。
二人の視線が交わる。
彼の瞳はどこまでも真剣な色を宿していた。
絡み合う二人の視線。
花詠の瞳は驚きの色を浮かべていたが、すぐに不安な色に変わった。
「私は今、十一よ。裳着まで、あと二、三年はあるわ。それまで待っていてくれるの?」
互いの姿しか映していない二人の瞳。
葵の君は触れるか触れないかくらいに軽く唇重ねた。
一瞬の出来事。
瞳を開けたままで受け入れた花詠は、何が起こったかのか理解するにはまだ少し幼かった。
唇を離した葵の君は照れくさそうに言った。
「今のは約束のしるしだよ。花詠は僕のものだっていう」
そして彼女を抱きしめた。
葵の君の胸は華奢な体型から想像していたよりも。
広くて、暖かくて、とても居心地がよくて。
ずっと抱きしめられていたいと思った。
花詠は瞳を閉じて、葵の君から伝わる不規則な心音に耳を傾ける。
「待っていてね。私、今よりも和歌も上手くなる。都一の美しい姫になって、葵の君の妻になるわ」
沈丁花の香りに包まれた幼い二人の約束。
二人で紡ぐ未来を夢見て。
それは、すぐ来ると信じて疑わなかった。
めぐる四季を繰り返し、時を重ねても。
二人のこの想いは「永遠」なのだと。