Solitude
「織田ちゃん、」
アルコールが回って、視界が悪い。ゆらゆらとする意識の中、耳元で聴き慣れた声が私を呼んだ。それにどうにかこうにか目線をやれば、見知った男がこちらを見ていた。にこり、と、人好きのする笑みを浮かべて。でも表情の割に、目の色は笑っていなかった。否、笑って、いたけれど。
「そんな風に寝てると、食われるよ…?」
頬に伸びてくる、手。体温の高い大きな手のひらが、頬をゆるりと撫でる。その感触が気持ちよくて、思わず擦り寄れば、ふ、と目の前の男は笑った。
「…本当、落としにくいよねえ。」
ゆっくりと男の唇が、額に降ってくる。ちゅ、と触れた唇の、意外に柔らかい感触。思わず男の顔を見やれば、今はこれで勘弁してあげる、なんて、意図を問いたくなるようなセリフのあとで視界を手のひらで塞がれた。眠っていいよ、と促されて、近くにあるその体温に何故か安堵して、意識を手放した。
「織田ちゃん、織田ちゃんってば。いい加減起きなよ。」
「…んー…んん。」
視界に入る日差しが眩しい。体を緩く揺さぶられて、重い瞼を開ける。逆光で誰かわからない人影が、呆れたように笑いながら私を起こそうとまた体を揺さぶった。無意識に布団に縋れば、ダメ、と柔らかい口調で怒られる。そんなやりとりをやっているうちに瞼はまた落ちてきそうになるのだけれど、不意に相手が誰なのかを認識して、一気に意識は覚醒した。
「っ甲斐さん!?」
「うん。おはよ、織田ちゃん。」
「…あ…おはよう、ございます…。」
私をずっと起こしてくれていたのは、甲斐久秀さん。職場の上司で、昨日一緒に飲みに行っていた相手だ。そう、飲みに行っていた。ということは私は多分潰れたんだろう。ここが何処だか、は、あまり考えたくない。どう見てもラブホテルだ。どうして、何があった。目が覚めた途端に青くなっている私を見て笑う甲斐さんは私が起き上がったベッドの端に腰掛ける。そして、いつも通り、私の髪を撫でた。
「大丈夫だよ、何もないから。」
「!」
「あのね、俺だって流石に寝落ちして意識ない女の子を抱くような趣味ないから。終電なかったから仕方なくラブホに入ったの。」
「あ…えっと、」
「ソファーで寝るのは辛いから、一緒のベッドで寝たことは寝たけど。そこはごめんね?」
「いや、あの、」
「…ん?どうかした?」
髪を撫でながら昨日、私が覚えていない部分を教えてくれる甲斐さん。その言葉に私はだんだんと意識が遠ざかっていきそうになるのを感じていた。上司と飲みに行って、潰れて、挙句に介抱させて。何をやっているんだろう。自分が情けなくて涙が出そうだ。
「すみませんでした!!!」
「え、何。」
「とんだ失態を…申し訳ないです…。」
とりあえずベッドの上に正座して、土下座線ばかりの勢いで頭を下げる。その勢いに気圧されたのか、甲斐さんの若干引いたような声が聞こえたけれどそこはスルーだ。一体全体何をやっているんだか。半泣きで頭を下げていれば、ぽんぽん、と頭を撫でてくれる優しい手のひら。それに顔を上げれば、甲斐さんが微笑んでいた。
「そもそも織田ちゃんが潰れたのは、俺に合わせて飲んじゃったからでしょ?だとしたら俺のせいじゃん。」
「ですが、」
「あーもう!織田ちゃん真面目すぎるって。俺がいいって言ってるんだから、いいの。謝らない!」
「う…はい…。」
よし、と頷いて髪を梳く甲斐さんの指先。その体温が優しい。
「じゃあ織田ちゃんも起きたし、出よっか。夜からシフトだよね?」
「あ、はい!」
「ん、じゃあ、身支度しておいで。」
「急ぎます。」
ベッドから降りて、毛足の長いふわふわなカーペットの敷かれた床に足を下ろす。きょろ、と室内を一瞬見回して、お目当ての洗面所に飛び込んだ。寝癖を直して、顔を洗う。カバンから化粧ポーチを持ってきて、それで軽く化粧をした。寝癖はあまりなかったし、化粧もぱぱっと済ませたから、そこまで時間はかからなかった。けれどさっき見た甲斐さんは、髭が剃ってあったあたり、身支度は終わっているんだろう。だとしたら急がなければならない。
「すみません、遅くなりました。」
全速力で身支度を終わらせて部屋に戻れば、甲斐さんはソファーでゆっくりと煙草を吸っていた。朝の日差しだけが照らす中、紫煙を燻らせる姿は、何故か色っぽく見えて。思わず動きを止めてしまう。
「お、早かったね。」
「…そう、ですか?」
「うん。珈琲飲む?それとも、出てからのほうがいい?」
「では、出てから、で。」
「了解。」
煙草を灰皿に押し付けて、甲斐さんは緩慢な動作で立ち上がる。それから軽く体を伸ばして、こちらに笑いかけた。行こう、そう言われて、背中を叩かれる。はい、と頷いて私も急いで靴を履いて彼に続いた。
駅から裏通りに抜けた居酒屋で飲んでいた昨夜。そこからもう一本路地を抜ければラブホテルが立ち並ぶ。朝日に照らされながらホテルを出れば、案の定ラブホテル街の一角に私達はいた。けばけばしい建物たちと、爽やかな朝の日差し。昨日と同じ服装の甲斐さんと私。違和感ばかりの情景に、くらりとする。
「駅前のドトールでいい?俺煙草吸いたい。」
「はい。」
迷惑をかけたのだからとホテル代を払おうとしたのに、甲斐さんはそれを許してくれなかった。だけれど昨夜の居酒屋の分も立て替えてもらっている状況だ。財布を仕舞わない私を見かねて、甲斐さんはならばと提案する。珈琲は私が奢ること。また飲みに行くこと。その程度でむしろいいのだろうか、と思いつつも二つ返事で了承して、のんびり駅前に並んで向かった。
「なんか変な感じするなー。」
「そうですね。」
「俺たち二人で朝帰り、って、なんかね。他のやつら一緒じゃないのも変だし、織田ちゃんが朝帰りも珍しいし。」
「まあ…普段だと私、まっさきに帰りますしね。」
「終電までに帰っちゃうもんね。」
駅前の狭いドトールの喫煙席。朝も早い時間、通勤前なんだろう、朝ご飯がわりに珈琲を流し込むくたびれたスーツ姿のサラリーマンを横目に、私と甲斐さんはぼんやりととりとめのない話をする。
「織田ちゃんはいつもこうなの?」
「こう、って?」
「ん?男と二人で飲みに行って、あんなに無防備なのは、いつも?」
「まさか。」
カップを傾けながら問う甲斐さんの目は意地の悪い光を灯していた。分かっているくせに。私があまり羽目を外すタイプではないこと、真面目を通り越して生真面目とまで言われてしまうようなつまらない人間だと、知っているはずなのに。
「甲斐さんとだから、多分気が緩んだんだと思います。」
「俺だから?」
「ええ。甲斐さんは特別ですから。」
私が今の職場で働き出してから、早数年。直属の上司で、新人時代からお世話になっている。段々とキャラクター的なものなのかお局みたいな立ち位置に収まりつつある私だけれど、そんな私をからかい、周りとの関係性を円滑なものにしてくれる甲斐さん。他意はないけれど、大切だし、特別な人だ。人間愛の部類ではあるけれど、大好きだと胸を張って言える。
「とはいえ、その甲斐さんと珍しく二人きりだったのに酔いつぶれてしまって、今まさに穴があったら埋まりたいくらいには凹んでますけどね。」
「…そっか。」
意味ありげに、甲斐さんは笑う。煙草に火を点けて、一つ紫煙を吸い込む。吐き出す瞬間の横顔が、ひどく色っぽく見えた。目を伏せて、煙草の灰を灰皿に落とす。灰を落とす瞬間、煙草を軽く叩く指先が好きだ。大きな手のひら、深爪寸前に切り揃えられた爪と、ゴツゴツとした指。
「俺の手になにかついてる?」
「え、いえ。」
「じっと見てたけど。」
「あー…すみません。」
思わず凝視してしまっていたらしい。気まずくなって目を逸らせば、ふっと、甲斐さんが笑う。嫌な、笑い方。そう思ったときには遅くて、気づけばさっきまで煙草を挟んでいた指先が、テーブルの上、カップに添えたままだった私の手のひらを撫でる。
「何、」
「なんとなく?」
「…そう、ですか。」
カップから手を離し、なんとなく、と答えられたからこちらもなんとなくその指先に自分のそれを絡めてみる。一瞬驚いたように、ぴくり、と反応を示すけれど、その後なんともなかったように指先を絡め合ったり、ついと撫でられたり、撫で返したり、を繰り返す。無意味な応酬だとはわかっているけれど、こういうぼんやりとした時間が好きだからあえて何も言わなかった。甲斐さんも、そうなのだろうか。いつの間にか煙草は燃え尽きていたけれど、それを気にする風もなく、私の指先を弄ぶのに集中しているようにも見える。
「織田ちゃんは多分一日じゃ落ないんだろうなあ。」
「何の話ですか?」
「ん?こっちの話。だってそうでしょ?」
ふ、と悪戯っぽく笑う甲斐さん。話が見えない。だから曖昧に肯けば、そうだよねえ、とまた一つ、笑う。落ない、とは。それは何に。話の流れ的にはもしかしたら恋とかそういう類のものなのだろうか。けれど私と甲斐さんの関係性的には、それはひどく不釣り合いな単語に思えた。
甲斐さんは上司、それも直属の。私は部下、それもまだ下っ端もいいところ。年だって十近く離れている。まあ、老け顔な私のこと、別に並べばそこまで年齢差があるようには見えないけれど。そもそも私は甲斐さんをそういう目で見たことはないし、甲斐さんだってそうだろう。そうでなければ、おかしい。いつもあからさまに、俺のお気に入り、なんて周りに茶化して言い触らしたりしないだろう。だってそうして茶化せば茶化すほど、真剣に色恋の話から離れて行くから。ああでも、甲斐さんが私のことをそうやって周りに言い出したのは、私が昔、職場の先輩に恋をして、手酷く振られたあとからだ。それから、職場内で私に近づいて来る男性は、減った、気がする。元々近付きがたいキャラクターだったらしいけれども。
そこまで考えてから、私は一つの事実に気がついて唖然とする。嫌、ではないのだ。もし仮に甲斐さんが恋愛感情を私に向けていたとして、それが、嫌ではない。むしろ、戸惑いは大きいけれど嬉しく思ってしまう自分がいることに、気づいてしまった。
考えてみれば、甲斐さんと私の距離感はいつも上司と部下のそれよりもいつの日からかすごく近かった。あれはそう、私が先輩に振られて泣いていた日、甲斐さんが泣きじゃくる私をあやすように抱きしめてくれた時から。事あるごとに飲み会では肩を抱かれて、仕事中も手が空けば、何が気に入ったのか私の髪を梳く指先。触れる自分より高い体温はいつだって心地よくて、からかい混じりの言葉に、呆れから棘のある言葉ばかり吐くけれどそれを笑って許容する態度も。
全部そうだ、嫌じゃなかった。むしろ好ましかった。行き着いた結論に、くらりとする。多分、いつの間にかほだされていた。気づくより前から、きっと、好きになっていた。元々持っていた好意は、知らぬ間に色恋の好きに、変わっていたらしい。
「でもさ、難攻不落の方が燃えるよね。織田ちゃんは?」
「…さあ、どうなんでしょう。」
「まあ織田ちゃんは真面目だもんね。難攻不落、云々よりも自分が好きかどうか、か。」
「そうですね。」
テーブルの上で、絡まったままのお互いの指先。絡めたのとは別の手だけで、甲斐さんは器用に煙草を吸う。煙が私にかからないように、そっと顔を逸らす。その横顔が、睫毛のラインが、好きだと思った。気付いた途端に、訳のわからない愛おしさが胸の内に溢れる。触れている指先が熱を持ったようになる。熱い。そう思いながら何故か、指先に力を入れていた。解けないように、ぎゅ、と。
「どうしたの?」
「甲斐さん、」
「ん?」
「さっきの話ですが。」
「うん。」
「多分私は、一日じゃ落ないんじゃないかと自分でも思います。」
そもそも鈍感だ。相手の好意はおろか自分の気持ちにすら気づかない。前に同僚から、恋愛フラグクラッシャーとのキャッチコピーをもらったのもそういうことなんだろう。言われた時には失礼な、と思ったけれど、ひどく的を射ている一言だと思う。それに、落とそうと思って落とせるタイプではないんじゃなかろうかと自分で予想する。けれど、だ。
「だけど、それって相手によります。」
「ふうん…例えば?」
甲斐さんの目が、楽しそうに細められる。切れ長の目が、じっとこちらを見つめた。小さなテーブルの上、少しだけ甲斐さんが身を乗り出して、距離が近くなる。近づいた距離に心臓がはねて、自分の周りの酸素が急に、薄くなった気がした。
「例えば、甲斐さんだったら。落とそうとなんてしなくても、いいと思うんです。」
遠まわしな、今の私には精一杯の言葉。勘違いだったら怖いから。自分の感情にも気づいたばかりでまだ持て余している状態だから。
「なんで?」
「…それは、」
それは。上手く続く言葉が生まれてこない。どうしたらいいのだろう。思考がごちゃごちゃに絡まって、解けなくなる。分からない、と助けを求めるように近くにある甲斐さんの目を見つめた。こんなに近くで見つめ合ったのは、初めてかも知れない。なんて、どうでもいいことを考える。
「織田ちゃん、…いや、優樹ちゃん。優樹。」
「は、い。」
「…出ようか。」
「はい。」
初めて聴く、低い声。腹部に響く、独特の甘さを纏った声音に、思考が奪われる。散り散りになった思考を集めようとする意識なんてとっくに奪われていた。絡め合った指先はそのままに、甲斐さんと二人、店を出る。
ドトールを出て、そのまま駅の改札に向かうのかと思っていたのに、意外にも甲斐さんの足は別の方向へ進む。線路脇の路地を抜けて、朝だからと寝静まった居酒屋ばかりが軒を連ねる通りへ。ああ、もう一つ交差点を進めば、さっきまでいたラブホテル街にたどり着いてしまう。そんなふうに思いながら、手を引かれるまま、甲斐さんについて行く。
不意に、腕を引かれた。
「甲斐、さ…、」
「うん。」
嫌なら抵抗してね、と耳元で囁かれる。その声を聞いて気づく。甲斐さんに強く抱きしめられている、今の自分の状況に。
「ねえ、織田ちゃん。」
「…はい、」
「あの言い方は、狡くない?」
「え…?」
「俺に。自惚れろって言いたいの?」
ぎゅう、と抱きしめる腕の力が強くなった。包まれる体温が心地よい。少し痛いくらいに巻き付いた腕の力にどうしようもなくドキドキして、それが嬉しくて、きゅ、とこちらからも抱きしめ返してみる。
「甲斐さん、だって。」
「ん?」
「私が勘違いしそうなセリフ、言ったじゃないですか。」
確かに、と甲斐さんは喉の奥でくつりと笑った。胸に埋めていた顔を上げさせられて、無理やり目を合わせられる。意地悪な色を灯した、甲斐さんの目。意地悪で、ずるくて、時にこちらの胃が冷えるような腹黒い部分も、私には隠すことなく見せる、目。織田ちゃんなら、わかってくれるでしょ?なんて薄く笑う、食えない表情も。わかり易く見えて何一つこちらには手の内を見せてくれない甲斐さんが、わからないからこそ欲しくなる。触れてみたい、傷つけて欲しい。そんな風に思わせる、人。多分魔性って言葉は、この人のためにある。
「甲斐さん、」
「何ー?」
「触っても、いいです、か。」
「…うん、いいよ?」
織田ちゃんならね。彼が嗤う。その薄い笑みを象る唇に、そっと指先を寄せた。薄い唇。爪の先でゆるく撫でれば、喉で笑われる。別に甲斐さんは、特別格好いいわけではない。多分格好悪い部類に入る。けれどいつも、女性に不自由したことがないだとか、モテる、みたいな浮ついた話ばかり耳にしていた。多分、こういうことだ。彼は毒だ。甘い毒。いつの間にか、身の内を蝕んで、恋に落とす、麻薬。
見た目も中身も、別に色恋としてはタイプじゃないはずだったのに。恋に落ちる対象ではないと思ってばかりいたのに。ああ、自覚してしまった今は、彼が欲しくてたまらない。傷ついてもいいから、彼がほしい。違う。傷つけて欲しい、彼のものにして欲しい。
「甲斐、さん…。」
「うん。…まだ、時間、あるよね?」
「…はい、」
「じゃあ、さっきのところ、戻ろうか。ね…?」
耳に触れるくらいのところで囁かれる声は、狡い。狡くてたまらないのに、それを心地よく思ってしまうから重症だ。腕を引かれて向かう先は、さっき出てきたばかりのラブホテル。けばけばしいエントランスを抜けて部屋に入る頃にはきっと。
もう、戻れない。愛の言葉が欲しかった。それでも、愛の言葉を私すら、口にはしなかった。
そうして歪な恋が始まる。




