開かれる道
「はぁ~……、短期間の入院で済むなんて、我が父親ながら凄い強運の持ち主だわ」
深夜の病院内。その一室で安堵の息を吐きながら、征臣さんのお姉さんである琥春さんが椅子に腰を下ろした。
征臣さんのお母さんも、同じように表情を和らげて座っている。
蒼お兄ちゃんから聞かされた時にはどうなる事かと思ったけど、本当に……、良かった。
患者用のベッドで眠っている征臣さんのお父さん……。
楓さんと『ささやきホーム』で話をした後、征臣さんのお父さんは仕事を終わらせてから自分のお父さんの許に向かったそうで……、その、帰り道。
征臣さんのお父さんが自分で運転していた車が、信号無視をした別の車と衝突してしまった。
けれど、幸いな事に征臣さんのお父さんが負った怪我は軽傷。
今はまだ意識を取り戻していないけれど……、本当に、大事がなくて良かった。
「鈴城さん、わざわざご足労頂いて、本当に有難うございました。主人が、……あんなに失礼な事を言ってしまったのに、何とお礼を言っていいか」
「いえ、私共も娘の事ばかりで、その節は失礼をしました」
「獅雪社長とは、お体が良くなってから改めて、娘と征臣君の婚約について話し合わせて頂きたいと思っております」
「有難うございます……。私も、主人の要求は一方的過ぎてると思って、色々と話をしようとは思っていたんですが……」
征臣さんのお父さんが事故に遭ったと、蒼お兄ちゃんが受けた連絡を知った私の両親は、すぐに一緒に病院へと向かってくれた。
一時期は険悪な関係となってしまったいたけれど、今の、私の両親の顔はとても穏やか。
その事にほっとしながら蒼お兄ちゃんと笑みを向けあっていると、病室の扉が乱暴に開いた。
「親父!! 楓祖母さんと祖父さん連れて来たぞ!!」
「ちょっ、ま、征臣!! 病院内では静かにしなさい!! 皆さんの迷惑になるでしょうが!! ……って、え? 征臣、そのお婆さんは……、誰なわけ?」
病室に息を切らして飛び込んできた征臣さんに眉を吊り上げた琥春お姉さんが、自分の弟さんに肩を抱かれている小柄な女性を見て、きょとんと首を傾げた。
そう、征臣さんは、お父さんが事故に遭ったと聞いた直後に、楓さんとお祖父さんを迎えに車を走らせていたのだ。ちなみに、その時点ではまだ……、自分のお父さんがどんな容態かを、征臣さんは知らなかったはず。だから、こんなにも焦った顔で急いで来たのだろう。
「俺達の、もう一人の祖母さんだよ。琥春姉さん」
「もう一人……? まさか、征臣……、アンタっ」
征臣さんのお父さんが、自分の実の母親である楓さんを憎んでいる事は、琥春さんも知っている。
だから、というよりも……、この場に楓さんを連れてくる事は、今別の病院に入院しているという、もう一人のお祖母さんに悪いと思っているのか、少しだけ不服げだ。
「いいんだよ、琥春。この人は……、楓さんは、貴継の母親だ。会う権利がある」
ベッドに近づきながら優しい声音でそう言ったのは、征臣さんのお祖父さん。
この人が、征臣さんの……。気難しい人だと聞いていたけれど、普通に優しそうな気配が滲んでいて、楓さんを見る眼差しも、穏やかなものに思える。
「でも……っ、もし、お父さんの目が覚めたらどうするのよ。あの口ぶりじゃ、その人の事……、相当憎んでるみたいだったし」
「そうさせたのは、私だよ……。私が、貴継から楓さんを奪い、楓さんから貴継を奪った」
「輝夜さん……」
「貴継が確認に来た時も、ありのままに伝えた……。自分の父親が吐いた嘘を、その子は酷く戸惑いながらも受け入れてくれたよ。勿論、相当に怒鳴られたがね」
落ち込んでいる、というよりも、長年の罪を告白したお祖父さんの顔は、どこか晴れやかに見える。楓さんの手を握ってベッド側の椅子に座り、二人で大切な息子さんの顔を見つめ始めた。
「貴継の容態は? 見たところ、重症とは程遠いようだが」
「は、はい……。まだ検査は残っていますが、命に別状もなく、入院も短期間で済むと」
征臣さんのお母さんの言葉に頷き、布団の中に隠れている息子さんの手を掴み出し、お祖父さんは楓さんの温もりと重ね合わせ、愛おしげに微笑む。
信じられない……。本当に、この穏やかで優しそうな人が……。
「あの、お義父様……、先程の、嘘、とは、何の事なんでしょうか?」
「征臣……、アンタは何か知ってそうよねぇ?」
「まぁな。後で説明するから、今はそっとしておいてやってくれ。せっかくの、家族の時間だからな」
楓さんは征臣さんのお父さんの手を両手に包み込み、涙ぐみながら声をかけている。
病院に着くまでに、どんな思いでいたのか……。
無事な息子さんの姿に、彼女が心から安心して寄り添っているその姿に、私もほろりと涙が浮かぶ。
「失礼します」
戸惑っている征臣さんのお母さんと琥春さんが顔を見合わせていた、その最中。
病室へと入ってきた、一人の男性。高齢だと思われるその人は白衣を纏っている事から、お医者様である事が窺えるのだけど……。
胸元の名札に『雪島』と書かれてあるのを見て気付いた私よりも早く、征臣さんのお祖父さんが……、一瞬で機嫌を悪くした気配が伝わってきた。
「お久しぶりです……、雪島先生」
「あぁ……、こちらこそ、お久しぶりです。何十年ぶりですかね?」
「さぁ? 貴方の事など忘れ去っていましたから……。お元気そうで、何よりです。三つ子の魂百までの恩恵を受けられているようで何より」
「それはそちらの方でしょう? 長生きの秘訣を教えて頂きたいものですよ」
――こ、怖い!! お二人とも笑顔で向き合っているのに、怖い!!
深夜の病室に溢れる、恐ろしく冷たい暗黒のオーラ。
征臣さんのお母さんと琥春さんが蒼白となり、私と征臣さん、そして、楓さんも逃げ場を探すように視線を彷徨わせてしまう。心からの笑顔でいるのは……、蒼お兄ちゃんだけだ。
「楓、お前も来ていたのか」
「は、はい……。貴継の事が心配だったから」
「そうか。……安心しろ。大した怪我じゃない。検査の結果も、恐らく問題ないだろう」
「痛っ!!」
あ、今、雪島先生が征臣さんのお祖父さんの足を踏んで、楓さんの傍を陣取ってしまった。
一方は、楓さんの元ご主人。一方は、今のご主人……。何て気まずい関係性。
「ま、征臣さん……、お二人の背後に何だか恐ろしいものが見える気がするんですけど」
「俺もだ……。あの二人、本気で仲悪いんだな。今にも殺し合いを始めそうな空気がするぜ」
「ふふ、若々しくていいじゃないか。……だけど、本当に良かったよ、軽傷で済んで」
こんな恐ろしい空間の中にいて微笑んでいられるのは、本当に蒼お兄ちゃんだけだろう。
極寒零度の悪環境におかれた私達は、息をするのも居た堪れないというのに。
でも……、本当に良かった。征臣さんのお父さんが無事で。
命の心配もだけど、楓さんと和解出来る機会を失わずに済んで良かった。
全てを知って、まだまだ戸惑う時間も多いとは思う。
それでも、いつかは、きっと……。
「そういえば、病院で返されたこの鞄……。なんか、変な物が入ってたのよねぇ」
「琥春さん?」
そろそろ私達家族がお暇しようかと思っていたその時、琥春さんがベッドの脇に置いておいた黒の鞄を持ち上げ、その中から丸められた白の画用紙らしき物を取り出した。
しっかりと黄色いリボンで結ばれたくすんだ色の画用紙、幼稚園で先生をしている私にとっては、もう見慣れた物だ。けれど、その画用紙の表面には……。
「勝手に開けていいか迷ったんだけど、これ……、お父さんの、よねぇ? ちょっと血が付いてるんだけど……、曰くつき、だったりして?」
「貸しなさい、琥春」
「ん? あぁ、はいはい。お祖父ちゃん、その中身知ってるの?」
琥春さんから画用紙を手渡され、征臣さんのお祖父さんがそれを楓さんに渡した。
「輝夜さん?」
「あの日、貴女の手に渡るはずだったものだ」
楓さんが、はっとした表情をして、クルクルと巻かれてある画用紙を広げる。
あの日、それはきっと、事故が起きた日の事を指しているのだろう。
そして、あの画用紙の中に描かれてあるのは、きっと……。
「――っ!! ……貴、継っ。……貴継っ」
「病院で働く貴女の姿が好きだと、自分も大きくなったら、誰かを救える存在になりたいと、誕生祝の言葉と共に、貴継が貴女の事を想って描いた絵と、メッセージだ……。それを、何十年も、私が……。本当に、すまなかった」
「いい、えっ、……いいえ、有難う、輝夜さんっ。嬉しい……っ、嬉しい、わっ。貴継っ」
楓さんが胸に抱き締めて涙する、時を超えた贈り物。
それを見せてもらった私も、同じように胸の奥がじんわりと熱くなり、深い喜びの情が溢れた。
大きく描かれた、楓さんの若い頃の絵。クレヨンで一生懸命描いたのだろう。
当時の、征臣さんのお父さんがどんなに楓さんの事を大好きだったか、どんなに長い時を経ても、色褪せる事のない、お母さんへの想い。
まだ眠り続けている征臣さんのお父さんに縋り付き、楓さんは喜びの涙を流し続けた……。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ほのか先生~、お花いっぱい描けたよ~!!」
「ほのか先生~、大地君が結花ちゃんいじめてる~!!」
「は~い!! すぐ行きますからね~!!」
今日も私の組は、私の勤めている幼稚園は賑やかな声に満たされている。
子供達の明るい笑顔に向き合いながら過ごすこの日常は、私にとってかけがえのないもの。
「ほのか先生ぇええええっ!! あの二人の喧嘩も止めてぇええええっ!!」
「と、透先生……っ。またですか?」
喧嘩の仲裁で被害に遭ったのか、私の組に逃げ込んできた透先生はズタボロ状態だった。
もしかしなくても……、また、美月ちゃんと莉李ちゃんの喧嘩だろうか。
毎回毎回私が止めているけれど……、う~ん、やっぱり、そろそろ。
「透先生、もう私は手を出すのをやめようと思ってるんです。だから、今日からは自分一人の力で、頑張って下さいね」
ニッコリと励ましの笑顔で追い返す私に、透先生が首を左右に振りながら懇願してくる。
女の戦いは男には荷が重い、返り討ちにされて再起不能がオチだとか何とか……。
「ほ~の~か~せんせぃ~っ」
「だ、駄目ですよ!! 一人できちんと子供達のお世話が出来ないと、透先生の為にも良くありませんから!!」
「そんなぁああああああっ!!」
心を鬼にして、私は教室の扉に鍵を掛けて透先生を閉め出した。
ちゃんと自分で対応出来るようにしておかないと、これから先、透先生は一人前の幼稚園教諭にはなれない。どんなに泣かれても、縋られても、これが先輩教諭として出来る最善の事だ。
けれど、……透先生は窓に顔を押し付けてまだねばっている。
と、そんな困った現場に現れた救世主に、透先生が足蹴にされて自分の組へと追い返されていく。
「まぁあああったく!! いつもいつも、ほのか先生に頼って!! 透先生、いい加減にしないと、園長に言いつけますからね!!」
「うわぁああっ、た、高戸先生ぇえええええっ!! だ、だって、あの喧嘩、滅茶苦茶怖いんですよ~!!」
「問答無用です!! さっさと戻りなさい!!」
「ぎゃんっ!!」
流石は高戸先生……、容赦のない対応。
頼もしい先輩の姿に見惚れていると、高戸先生が鍵を開けるように促してきた。
「ほのか先生、貴方にお客様ですよ。子供達は私が見ておきますから、玄関の方に」
「は、はいっ」
私にお客様って……、まさか、悠希さんだったり……。ううん、流石にあんな事があった後で訪ねて来るわけがないし、それに悠希さんだったら玄関から来たりはしない。
という事は、秋葉家の……、昴さんか、怜さんの可能性が。
早足で幼稚園の玄関口に向かっていた私は、徐々に見え始めたそれらしき人の姿に目を見開いた。
「ま、征臣さんの、お、お、お父さん!! ど、どうされたんですかっ!? まだ入院中じゃ」
高級スーツを難なく着こなした美丈夫。
ズボンに入れていた手を取り出し、征臣さんのお父さんが私へと近づいてくる。
ま、まだ、入院から一週間ぐらいしか経っていないのに……。
征臣さんのお父さんは静かな眼差しで私を見下ろし、外出許可を取って出て来た事を告げた。
「貴女の……、仕事をしている姿を、一度見てみたいと思って、訪ねた」
「……え? わ、私の、仕事姿、ですか?」
まさかの訪問者に、訪問理由!!
私の仕事をしている姿を見たい、って……、突然言われても。
それに、園長先生の許可を取らない事には、私の一存では決められない。
「ここの園長には、話を通してある。貴女が迷惑でなければ、少しの間でもいい……、子供達と一緒にいる姿を、見せてはくれないだろうか?」
「そ、それは、勿論、大丈夫、ですけど……。あの、本当によろしいんですか? お身体の方は」
「大丈夫だ。検査の結果も問題なく、明日には退院予定だからな」
「そうですか……。でも、具合が悪くなれたりしたら、すぐに仰ってくださいね?」
顔色も良いし、もう完全回復に近い状態なのだろう。
以前とは違い、どことなく優しげな声色で私に話しかけてくれる征臣さんのお父さんを嬉しく思いながら、担当の組に戻る事になった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
――Side 獅雪征臣。
「親父が……、いなくなった?」
昼の休憩中に会社を抜け出し病院に来てみれば、おい、あのおっさん、どこ行ってんだ!?
しっかりと手続きを取って出かけたみたいだが……、行き先が全然わかんねぇ。
病室で困惑している母さんを安心させる為、とりあえずは会社の方にかけてみたが……。
「くそっ、会社には行ってないみたいだな……。となると……、う~ん、あの親父の行きそうな場所なんて、会社以外には」
「征臣、あの……、お義母様の所じゃないかしら? 本当の」
「楓祖母さんのとこか……。電話してみるか」
母さんの提案で『ささやきホーム』にも連絡してみたが……、それもハズレだった。
まぁ、別に外出して死ぬような状態でもないし、心配はいらないはず、なんだが……。
心配してる母さんを安心させる為にも、父さんの居場所を突き止めねぇと。
だが、仕事一筋で生きてきたような親父の行きそうな場所なんか、それ関連ぐらいしか心当たりがない。それを全部しらみつぶしに探すってのも、なぁ……。
空になった患者用のベッドに座り、さて、どこに繋げるかと悩んでいると。
「ん? 透から……?」
俺の友達である恵太の嫁さん、梓さんの弟。ほのかと同じ幼稚園で教諭をしているアイツからの着信に、通話部分をタップして電話に出た。
『征臣さ~ん!! た、大変なんですよ~!!』
「……お前のテンションの方が大変仕様だろうが。で、何だよ」
まさかまた、ほのかに関する面倒事でも起こったんじゃないだろうな?
母さんが差し出してくれた珈琲の缶を受け取り、それを口に含んだ俺は……。
『ま、征臣さんのお父さんがぁああああああっ!!』
「ぶっ!! お、親父!?」
『そうなんですよ~!! 征臣さんのお父さんが突然幼稚園に来て、それで、それで――」
珈琲を噴き出した俺に目を丸くしている母さんに「すまん」と小さく謝罪し、俺は本気で目の前が真っ暗になりそうな心地を味わった。
病院抜け出して何をしてやがるかと思えば……。
「何やってんだ、あの馬鹿親父はぁあああああああああああっ!!」
「ま、征臣っ!?」
通話終了の部分をタップした俺は、――非常に残念極まりない絶叫をあげたのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「は~い、じゃあ、もう一回さっきのところから踊ってみましょうね~」
「「「はぁ~い!!」」」
相変わらず子供の楽しそうな声で満たされている園に着いてすぐ、俺と母さんはほのかの担当している組へと急いだ。
「征臣さんっ、こっち! こっち!! こっちですよ~!!」
自分の担当している組から顔を出した透が俺達を隣の教室に案内し、窓の向こうを指差した。
ピアノを弾いているほのか。全身で大きく表現しながら踊っている子供達。
そして、……その微笑ましい光景の中に、あり得ないものを見た。
「うわぁ~い! おじちゃん、上手~!!」
「さっきより上手くなったね~!!」
「ははっ、最初カクカクだったもんなぁ~! おじちゃん、すげぇよ~!!」
「そうか……? 君達が私に教えてくれたお蔭だ」
教室の中で……、スーツ姿のおっさんが子供達と一緒に同じ動作をしながら踊っている。
それも、やけに気合の入った動きで音色に耳を澄ませ、恥ずかしげもなく、ふり、ふり、と。
俺の隣でそれを見ていた母さんが、その光景に我慢出来なくなったのか、ぷっと噴き出して口元を押さえ始めた。
「征臣さんのお父さんって……、あぁいうノリの良いキャラでしたっけ?」
「いや……、俺も二十年以上あれと家族をやってるが、……これ、夢か?」
「ふっ、ふふふ、っ、ふふふふふ、あ、あの人が、貴継さんが、ぷっ、ふふふふふっ」
「母さん、思いっきりツボに入ったろ? 大丈夫か?」
はぁ、俺だって信じられねぇよ。あの仕事一筋、冗談の類も言わないような父親が、子供と思いっきり楽しんでるなんてな。まぁ、表情はいつも通り真顔なんだが。
その場に膝を折って屈み込んで小さく笑う母さんの背中を擦りながら、俺もそろそろ……。
「――ぷっ、くくっ、……ははっ、ぶっ、ぶはははははははははっ!!」
「ま、征臣さんまでツボに入ったんですかぁあっ!?」
「だ、だってよぉっ、ははっ、アレだぜ? あの、堅物な親父がっ、ははははっ、俺がガキの時にだってあんな事しなかったんだぜ!? それが、それが、……っ」
真剣に踊っている親父には悪いが、イメージぶち壊しにもほどがある。
しかも、教室の外で笑いまくっている俺と母さんにその視線が向いた瞬間、親父の顔が最高に面白く真っ赤な色に染まりやがったのがまたっ。
「な、何故……、お前達がここにいる?」
「ははっ、あぁ……、俺達の事は気にせず、続きをやってくれ。ぷっ、……ははっ、親父、最高っ」
「貴継さんにもこんな一面があったのね。ふふ、……ふふふふっ、可愛いっ」
「――っ。こ、これは、子供達と同じ視野に立つ為に、し、仕方なく、だな」
ピアノの音が止み、ほのかが顔を上げて俺達の方を向いた。
突然俺の親父に突撃されてビクついてないか心配だったが、気後れした様子もなく、俺の好きな笑顔を浮かべている。
「すみません、征臣さん。お義父さんに、子供達の相手をして貰っていたんです」
「くくっ……、強面の親父に、ガキ共は泣かなかったか?」
「はい! 突然来られたので吃驚したんですけど、子供達も征臣さんのお父さんに、すぐに懐いてくれたんです」
「ごめんんさいね、ほのかさん。ウチの人がお邪魔して」
「いえっ、とても楽しい時間を過ごさせて頂いてますっ」
バツが悪そうに頭を抱えてしゃがみ込んでしまった親父を、子供達が取り囲んで慰めている。
あれは相当にショックを受けたようだなぁ……。滅多に感情を乱さない親父の、本当に珍しい姿だ。
だが、ほのかの勤めている幼稚園に押しかけて、遊戯に参加してたって事は……。
「なぁ、親父。俺の惚れた女の働く姿はどうだ?」
「…………」
頭から手を外し、親父がゆっくりと立ち上がった。
その背中には以前のような拒絶の気配はなく、むしろ、以前にはなかった、柔らかな気配が宿っているような気がする。
女は結婚すれば、家庭に入り、夫と子供に尽くすもの……。
それを頑なに言い張っていた親父にとって予想外だったのは、自分自身の失われた過去だ。
楓祖母さんと再会し、真実を知った親父……。病室で見た、幼い頃に描いた贈り物。
親父が、まだ赤みの残る頬を見せながら、俺に振り返った。
「……私にとって、母の働く姿は、何よりも尊く、誇らしいものだった」
「親父?」
その口ぶりは、まるで、当時の事を想いだしているかのような……。
俺と母さんが顔を見合わせる姿に、親父が苦笑を零す。
「この前の事故のせい、だとは思うが……、私は、とても大事なものを、思い出す事が出来た」
大切な記憶を奪ったのも事故で、それを取り返したのも、事故がきっかけ、か。
なるほどな。ただの情報としてじゃなくて、当時の、楓祖母さんを慕う心を思い出したからこそ、アンタはほのかに会いに来たんだな。
「ほのかさん……、貴女にとって、征臣も、この子供達も、心から大切なものなんだな」
「はい。どちらも大切で、どちらも切り捨てられない、かけがえのない存在です」
「私の母も、職は違えど同じように、病に苦しむ子供達を愛していた。勿論、息子である私の事も……」
「はい」
「そんな母を、私は心から愛していた……。貴女の目は、あの頃の母と同じだ」
ほのかと子供達を微笑ましそうに眺めながら、親父が俺の方を向き、言った。
「まだまだ未熟な息子だが、どうか、征臣の事を頼む」
仕事でもないのに、親父は深々とほのかに頭を下げた。
ほのかが口元を手で覆い、信じられない表情で俺を振り仰ぐ。
「これで、正式に婚約出来るな」
「征臣さん……っ」
閉ざされていた未来は、凍り付いていた親父の心が溶けていくのと一緒に、ようやく俺達に道を開けたのだった。誰も不幸にならない、誰もが心に温かなものを抱いて歩いていける、その道へ。




