ささやきホーム2
獅雪征臣の視点で進みます。
雪島燈流……。優秀な外科医として名を馳せ、国内外を問わず、患者達に望まれ続けた名医。
それが、俺の祖父さんにとって、永遠の恋敵だった男の名だ。
楓祖母さんにとってその男はひとつ年上の、家が近い事で何かと交流のあった気の合う友人で、共に医学の道を目指し、同じ大学に通い……、同じ病院に勤める程に、目指す場所が同じだった二人。
誰から見ても、二人はお似合いの関係だったようだが……、そこに恐れ知らずな首を突っ込んじまったのが、……俺の祖父さんだ。
楓祖母さんよりひとつ下の、当時はまだ小さな会社でしかなかった獅雪家の長男として生まれた祖父さんは、少々問題のある社長子息だったらしい。
何の接点もないはずの楓祖母さんと本屋で出会い、勝手に一目惚れ……。
なんだろうな……、俺もほのかに対しては初対面で惚れちまったわけだが、これも血なんだろう。
今まで本気にならなかったという祖父さんが初めて心から惚れた相手。
祖父さんは楓祖母さんをものにする為に日夜奔走した……。
「まぁ、ぶっちゃけ……、祖父さんが二人の間に割り込んで引っ掻き回した感が強ぇんだけどな」
「ま、征臣さんっ、大事なお話の途中で脱線はちょっと」
「あ? あぁ、悪ぃ、悪ぃ。え~と、で、だな、祖父さん自身も、あの頃の自分はド級にウザかっただろうに、それでも楓祖母さんが自分を選んでくれた時には物凄く嬉しかったんだと。……雪島燈流を前にしたら、絶対に負ける勝負にしか見えなかったのに、どうして自分を選んでくれたのか……。それが今でも不思議だって、祖父さん言ってたぜ」
祖父さんも若い頃は女にモテまくってたようだが、雪島燈流の方はその上をいくからな……。
仕入れた情報と、若い頃の写真。どこをどう見ても、孫の俺にも祖父さんが恋愛勝負に勝利した勝因がまるでわからない。あれか? 年下男のあざとさ、ってやつか?
俺が楓祖母さんに視線を向けると、毛布から顔だけが覗いた。
「カグヤちゃんは……、あ、輝夜さんの事だけど、何ていうか……、放っておけなかったんですよ。子犬みたいに懐いてきたかと思えば、時々寂しそうな顔で気を引いたり、で……、気付いたら、その、気になっちゃって、ねぇ……」
つまり、頼りになる兄的な人物よりも、世話の焼ける年下、か。
まぁ、しっかり者の女に多い選択だよな。恵太の奴も、年上の梓さんに年中世話焼かれてるし。
俺も下手をしたら……、透や秋葉家の次男にほのかを奪われていた可能性もあったんだろうな。
一瞬よぎった、道を塞いだはずの万が一の未来に若干の苛つきを覚えていると、楓祖母さんが親父の顔を見つめながら言った。
「でも、ねぇ……。本当に、好きだったのよ。輝夜さんの事……。あの人の奥さんになれて、幸せだった。可愛い息子にも恵まれて、私は」
本気で愛し、愛されていた……。
祖父さんはその愛を信じて生きて行けば良かったのに……、
一度手に入れた幸せを、自分自身の弱さで手放す事になった祖父さんは……、俺以上に不器用過ぎた。今だって、楓祖母さんは祖父さんの事を恨むでもなく、懐かしそうに、愛おしさを胸に抱いているってのに……。
「……祖父さんと楓祖母さんが結婚後、雪島燈流は医学の勉強で海外に渡ったそうだ。元々将来有望な医師として注目されていた人物らしいからな。色々と、丁度良かったんだろう……」
「その後、獅雪社長が生まれ……、とても幸せな家庭を築いていたそうですよ。総合病院で小児科医を続けていた楓さんを父と子で揃って応援し、貴方はお祖母さんにねだっては病院を訪れ続けた。大好きなお母さんに会う為に」
「違う……っ。私は、私には、そんな記憶は」
「だから言っただろ。事故で記憶を失ったアンタに、祖父さんは嘘の記憶を植え付けつけた。母親でなく、自分の方を選ぶように……」
病院で働く母親の姿は俺の親父にとって、何よりも誇れるものだったそうだ。
けれど、……親父が六歳になる、その年。祖父さんにとっては歓迎出来ない人物が戻って来てしまった。かつての恋敵、楓祖母さんが心から信頼していた男……。
海外から帰国した雪島燈流は楓祖母さんと同じ病院で再び働き始め、幼かった頃の親父とも交流を持ち始めた。それが……、祖父さんにとっては気に入らない最悪の事態だったのだろう。
愛情深く一途だった祖父さんの心は、同時に激しい嫉妬心を抱く醜い面も持ち合わせていた。
「雪島燈流を酷く嫌っていた……、いや、恐れていたんだろうな。祖父さんはその男の帰国と病院で勤務し始めた事を知らされてからというもの、自分がどうしようもなく心の狭い人間だと、久しぶりに思い出したそうだ」
「父さんが……、そんな事を」
「自分の妻の生き甲斐を奪いたくなくて、必死に耐えた……、耐えようとした。祖父さんなりのプライドってやつもあったんだろうな。だが……、気になってある日病院に向かった祖父さんは、自分の妻と子供、そして、雪島燈流が仲睦まじく飯を食ってるとこを見ちまった。それが、……祖父さんの心を壊すきっかけになった」
疑ってはいけない。彼女が愛しているのは自分と息子、
そう……、俺の祖父さんは自分に言い聞かせてきた。
だが、抑え込んでいた嫉妬心は決壊した川のように氾濫し、祖父さん自身にも……、心を繕う事は出来なくなっていった。
「祖父さんは親父に病院通いを禁じ、楓祖母さんには仕事を辞めるように迫った……。雪島燈流の事を口には出さず、ただ、家の中に楓祖母さんを閉じ込めようと怒るばかりで、……結局、夫婦仲は悪くなり」
「私は……、担当していた子供達の中に心配な子が何人かいて、すぐに辞めるのは難しかったんです……。だから、どうにかわかってもらおうと輝夜さんにお願いしたんですけど……」
嫉妬心に凝り固まった祖父さんは楓祖母さんの話を聞かず、自分の要求だけを突き付け続けた。
勿論、それで言いなりになった楓祖母さんではなく、彼女は譲れないものを守る為に仕事を続け……、そして。
「親父、幼い頃のアンタは、母親の勤める病院に行きたいと主張し続けたものの聞き入れられず、……楓祖母さんの誕生日、無断で家を抜け出し、事故に遭った」
「――っ!」
本来であれば、祖母の付き添いなしには行けなかった病院。
だが、幼かった親父は自分の父親からの理不尽な仕打ちに耐えきれなくなった事もあり、また、その日が大好きな母親の誕生日であった事から、プレゼントを持って病院に向かった。
子供の足でも、十五分もあれば辿り着ける場所にあった病院。
何度も通っていたせいか、親父は道を間違えずに目的地へと向かっていたらしい。
そして、その道の途中で……、信号無視をした車に接触し、事故に遭った。
「助かったのが奇跡と言われるぐらいに酷い状態だったらしい……。だが、そんなアンタを救ったのが、――雪島燈流だ」
「雪島先生は若くして名医と謳われるような人物で、必死に獅雪社長を助けようと尽力してくれたそうです。ただ……、大切な息子が事故に遭った事を知った征臣のお祖父さんは、その事故の責任を楓さんと雪島先生に押し付け、自分から離婚を言い出した」
「限界だったんだろうな……。楓祖母さんが病院を辞めないのは、雪島燈流の事が好きだからで、傍にいたいから、とか……。そんな誤解をして、自分の中で悪い想像ばかりを巡らせて、これ以上苦しむぐらいならと、祖父さんは自分から全てを捨てたわけだ。血を分けた息子以外を」
俺が事実を確認しに会いに行った際の祖父さんは、まるで黒歴史を垣間見るような居た堪れない目をしていた。さっさと下らないプライドなんか捨てて、当時の楓祖母さんに何もかも心の内を明かしときゃ面倒な事にはならなかっただろうに……。
やれやれ、と、俺が重苦しい息を吐きだしていると、ほのかが楓祖母さんを包んでいる毛布を剥がしながら、そっと小さく囁いた。
「楓さんは、ご自分の仕事も、家族も、心から愛していたんですね」
「……でも、結局は輝夜さんも、貴継も、不幸にしてしまいました。仕事を辞めろと、そう言われた時に、大人しく引き下がっていれば……、貴継を事故に遭わせる事も、なかった、のに……っ」
「そうだ……、結局この女は、私や父さん、家族よりも、仕事を取った。愛しているなどと、今更取り繕ったところで、私は何も感じない……っ」
「貴継……」
受け入れ難い事実なのはわかってるさ……。
楓祖母さんから視線を逸らした親父が、両手をきつく握り締める。
事故に遭った過去。失った記憶の上から塗り潰された大切な想い。
祖父さんの嫉妬で振り回された親父は、誰が見ても被害者だ。
だが、ここで何も感じない、過去の真実を受け入れないと拒まれても、引くわけにはいかない。
「否定し、嫌っていた自分の母親について、アンタはその近況を探るほど暇なのかよ」
「……ッ」
「事故に遭う前の事は知らなかったみたいだが、楓祖母さんの事は色々と知ってたんだろ? でなけりゃ、病室の前で気後れする事なんかなかったはずだ」
「獅雪社長、貴方は……、父親から嘘を吹き込まれても、楓さんを信じる気持ちが残っていたんじゃありませんか? だから……、進路のひとつに、医大に進む事も考えていた。けれど、その当時はまだ征臣のお祖父さんが頑なで、強制的に別の大学に入るように言い含められてしまった」
「祖父さんは、アンタの部屋で医大の資料を見つけた時に思ったらしいぜ。もしかしたら……、母親に関する記憶が戻ってしまって、……自分から離れようと、父親を捨てようと考えてるんじゃないか、ってな。ホント、臆病すぎるぜ……、祖父さんは」
しかも、その当時の医大の資料の中に、雪島燈流絡みの記載もあったらしく、祖父さんからすれば、最低最悪だった事は確実だ。最愛の妻だけでなく、大切な息子まで奪われてしまう。
「なぁ、親父……。嘘だと思うのは構わない。けどな、祖父さんとちゃんと話をしてみろよ。事故に遭う前のアンタが、この人に……、自分の母親にどんな想いを抱いていたか」
「貴継……、いいのよ。無理に受け入れてくれなくても……、私が、私が、貴方を危険な目に遭わせて、母親として至らなかったのは本当の事だもの。離婚した後だって、私は何も出来なかった」
「……失礼する」
我が子を抱き締める事さえ許されなくなった母親の言葉に、親父が何を感じたのか……。
今は心の整理が必要だと思っているのか、親父は蒼を押しのけて、逃げるように帰ってしまった。
まぁ、予想通りだが……、祖父さんのとこで『アレ』を見れば、少しは頭も柔らかくなるだろ。




