壊れた心と、残った痛み
視界を赤く染める、進藤さんの鮮血が飛び散るかと……、そう、思った。
「嫌ぁああっ!!」
進藤さんが力いっぱいに引いたナイフが、彼女の首筋を引き裂くと……、そう、思っていたのに。
廃工場内に響いた叫び声は、自分の身体を傷付けた痛みのそれではなく、抵抗の音。
進藤さんが握り締めているナイフを、丸ごと鷲掴んでそれを引き剥がそうとしているのは……。
「勝手に……っ、自己完結、してんじゃねぇよっ!!」
「征臣さん!!」
彼女がナイフで首を切ろうとした瞬間、瞼を閉じてしまった時に離れた温もりが、自ら命を断ち切ろうと足掻く進藤さんのすぐ目の前にあった。
刃を丸ごと握り込んでいるせいで、征臣さんの右手のひらは深く傷付き、溢れ出しているその血が、手首へと伝っていくのが、見える。
ほんの一瞬の出来事、躊躇いなく飛び込んで行った征臣さんの勇気が、進藤さんの命を救ってくれた。
「死なせてよっ!! 死なせてっ!!」
必死に抵抗し、ナイフを奪い返そうとしていた進藤さんも、助けに入った蒼お兄ちゃんと昴さんに取り押さえられる。
自分に嫌われたから、完全に拒絶されたから、死のうとした女性……。
胸の内で深まっているだろう苦痛の気配と共に、悠希さんが自分の顔をその片手で覆った。
「……っ」
「悠希さん……」
駆け寄って、慰めてあげるべきなのかもしれない。
けれど、私はそれをしなかった。するわけには、いかなかったから……。
冷たく無機質な音が地面に小さく響き、そこに点々と紅を散らした征臣さんの許に駆け寄り、傷付いたその右手のひらを覗き込む。
思いっきり強く握っていたからだろう……。征臣さんの手のひらには深く刃の喰い込んだ痕があり、そこから血が溢れ続けている。
とりあえず、応急処置の止血として、ハンカチできつく縛っておこう。
「征臣さんっ、すぐに病院へ行きましょうっ」
「痛っ、……平気だ。それより、……そこの、ガキに、用がある」
すぐに真っ赤な染みを作ってしまう手のひらを緩く握り締め、征臣さんは押さえられている進藤さんの前に近付いていく。
まだ「死にたい、死にたいっ」と涙を零す彼女を真剣な表情で見下ろし、小さく息を吐き出す征臣さん。
「なぁ、……お前」
「な、何よ……っ」
「月夜の事……、好きなんだよな? 周りが見えなくなるくらい」
「そうよ!! アタシにとって月夜さんは、月夜さんは……、大切な、ずっと、ずっと、見つめ続けてきた……、うぅっ」
「なら……、何で、『見て』やらねぇんだよ」
少し掠れた低い声音には、怒りの気配は感じられなかった。
ただ、寂しそうに……、切なる響きが、進藤さんに訴えかけている。
「俺には……、お前にとって都合の良い、自分の中で創り上げた月夜だけを見ているように思えてならねぇよ。本当に好きなら、現実で生きてる、今の月夜の事を見てやるべきなんじゃないか?」
「アタシの中の……、都合の良い、月夜、さん?」
征臣さんが視線を向けた先、顔を覆っていた悠希さんが、その手を下ろして立ち尽くしていた。
彼の瞳は、その意識が向いている場所は……、この現実ではなく、別の、どこか遠い場所なのかもしれない。私には、そう思えた。
限界を越えた、さらにその先……。月夜さんという光を想うあまり、彼女がやり続けてきた事が……、悠希さんの心を、壊してしまったのかも、しれない。
悲しみの涙を頬に伝わせながら立ち尽くしている悠希さんを見て、進藤さんもようやく……。
「月夜、さん……」
「お前の見たかった月夜の幸せってやつは、あれか?」
「……ち、違う、違うっ。アタシは、つ、月夜さんに……、あんな顔、させたかったわけじゃっ」
自分のやってきた事が間違いだったのだと、大好きな人の望まない事だったのだと、彼女の心が受け入れ始めているのだろう。
怯えを宿す表情で私の方を見やり、また、悠希さんの方へと心を向ける進藤さん……。
微かに震えているその唇が、「ごめん、な、さい……、ごめんな、さいっ」と、紡ぎ始める。
けれど、その言葉を向けられている悠希さんの方は……。
「鈴城の若造、その女の事はお前に任せる。そっちの方で縮こまっている犯罪者共の事もな……。悠希、怜、帰るぞ」
「ですが昴兄さん……、もうすぐ園内でのライヴがあります。流石に穴を開けるわけにはいきませんよ」
そうだった……。遊園地の方では、悠希さん達の生ライヴを楽しみにしているファンの人達が。
でも、今の悠希さんをステージに立たせたとしても、歌う事なんて……。あまりにも、酷すぎる。
彼の心は、耐えきれない苦しみの中で悲鳴を上げ、必死に助けを求めているのだから……。
けれど、心配している私達の思いとは反対に、悠希さんは予想外にも早く現実へと戻ってきた。
銀髪を掻き上げ、一言。
「歌う……」
「ステージに立って、そこで歌えない……、などという醜態を晒す事にはならないだろうな?」
「歌う。最後まで……、月夜として、ステージに、立つ」
「悠希さん……」
今の精神状態で本当に……、大丈夫なの?
まだ謝り続けている進藤さんに、視線も、言葉も、何一つ向けず、悠希さんは昴さん達と一緒に出口へと歩みを向けた。
とても深く、この場にいる誰よりも酷く傷付いているのに……。
あの時、私に迫りながら、バンドを辞めてもいいと言った彼とは違う。
悠希さんは、何かを決意しているかのような真剣な表情をしていた……。
「さてと、それじゃあ、俺達も解散しようか。ほのかは征臣と病院。こっちの子と、あっちの人達の事に関しては、俺が全部やっておくから」
「でも……」
蒼お兄ちゃんを一人でこの場に残す事も心配なのだけど……、進藤さんの事は、どうする気なんだろう。もう何の言葉も出てこない彼女は、魂が抜け去ってしまったかのようにぐったりとしてしまっている。
「進藤さん……、あの」
「ほのか」
「征臣さん……」
踏み出そうとしった一歩を、征臣さんの声に引き止められる。
今は何も言うな、放っておけ、と……。
言葉には出していないけれど、きっと、征臣さんはそう言い含めようとしているのだろう。
犯した罪の重さも、その傷も、癒すのは私の仕事じゃない、と。
「わかりました……。じゃあ、蒼お兄ちゃん、後は、お願いします」
「うん。征臣の事、頼んだよ」
深く頭を下げた私は、征臣さんと一緒に廃工場を後にした。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
――Side 獅雪征臣。
「征臣さん、珈琲でいいですか?」
「ん? あぁ、頼む」
進藤夏実絡みの騒動に一応の決着が付いたその夜。
タクシーを拾って病院に直行した俺は相当に面倒な目に遭って、右手を包帯でぐるぐる巻きにされてしまった。
傷の原因を誤魔化すのも大変だったが、天使の笑顔とやらの奥に般若の形相を漂わせた看護師にガミガミと説教をされながらの治療……。あぁ、本当に面倒だった。
そんなこんなで、俺の別宅にあたるマンションに帰ってきたわけだが……。
キッチンの方で珈琲を淹れているほのかの様子は、案の定、これだ。
沈んだ表情でヤカンに水を入れ、火にかけている。
自分がどんな目に遭ったか、それを忘れているわけじゃない、とは思うが……。
ほのかの頭の中にあるのは、自分の事よりも、進藤夏実と秋葉悠希に関するこれからの事に関しての事だろう。
罪を犯した進藤夏実のこれから。傷付き、それでもステージに立つ事を選んだ秋葉悠希のこれから。放っておけばいい、それが本心だが……、ほのかの立場では無理な話だ。
「ふぅ……」
ソファーに背を預けながら、自分の包帯だらけの右手を見る。
(……俺が、ほのかの傷の全てを背負ってやれれば、いいのにな)
進藤夏実に灸を据える為の計画が、同時に、ほのかの心までも深く傷付けた……。
別のやり方なんか幾らでもあったはずだ。だが、今回の計画を押し通したのは、蒼だ。
ほのかは、兄である蒼と違う。その心根が……、大きく、違う。
誰にでも優しく、受け入れて傷付きやすい妹と……、自分にとっての『大切』な存在を選び、それを傷付ける者に対して容赦のない、兄。
蒼は自分にとっての敵をすぐに認識出来るし、誰と関われば自分にとって利になるか、あらゆる事を考えて人間関係を築く。
人間の良い部分も、悪い部分も、全部見通す目……。あんな奴が鈴城の次期社長なんだ、将来安泰だろう。アイツがいる限り、鈴城という大会社も、妹のほのかも、守られ続ける。
(知らねぇんだろうな……。蒼が灸を据えたかったのは、進藤夏実だけじゃなく)
――秋葉悠希、アイツもまた、蒼からの罰を受ける立場だった、と。
元々、自分の妹を大切に守りながら生きてきた蒼だ。
友人である俺相手にも容赦なく悪趣味な試練の数々をぶつけまくり、それに耐えたからこその今がある。秋葉悠希にしろ、他の二人にしろ、恐らく、本気でほのかに手を出してくると感じれば、それ相応の対応で悪逆非道な鬼の所業を仕掛け、試した事だろう。
それもまだ済んでいないのに、中途半端に自分の妹に近付いた秋葉悠希のせいで、今回の件が起きた。ファンによる、度を越えた嫌がらせという形で。
だから……、蒼は実行した。進藤夏実には、自分の犯した罪に相応しい終わりを。
秋葉悠希には、自身の立場の自覚と、その行動と存在によって起こる、悪夢のような現実を。
今回の事であの二人の心が壊れようと、……蒼は気にしない。
当然の報いだと、何の同情もなく、自分の人生を冷静に歩み続けてゆく。
「征臣さん、どうぞ」
「あぁ、サンキュ」
一人物思いに沈んでいると、ほのかが淹れ立ての珈琲をテーブルの上に運んで来てくれた。
俺の向かい側のソファーに座り、ふぅ、……と、物憂げな溜息を吐く。
こんな顔をさせたかったわけじゃない。出来る事なら、何も知らせずに、終わらせたかった。
ほのかの辛そうな表情を見つめながら、ティーカップを手に取る。
(蒼なら……、ほのか抜きで事を片付けられたはず、なんだがな)
口の中に広がる、ほど良い熱と、俺の心を代弁しているかのような、苦み……。
妹を大切にしている蒼が、ほのかの心までも傷付けた、今日の騒動。
基本的に、蒼は自分の妹を束縛するような事はしない。
ほのかの事を尊重し、陰から見守り、時に邪魔なものを排除する役割に徹していると、俺はそう思ってきた、ん、だが……。
(もしかしなくても……、アイツ、ほのかの事も怒ってたのか?)
お人好しな妹が、拒めずに寄せ付けてしまった秋葉家三兄弟。
アイツらと関わる事がどういう事態を招く事になるのか、それを思い知らせる為、なのか?
疑問を抱いてみるが、本当のところは誰にもわからないだろう。
蒼の考えてる事なんか、俺にはまだまだ……。
いやいやっ、全部わかったら、それはそれでかなり嫌だろうが、俺!!
「ほのか、ちょっとこっち来い」
「え?」
考える事をやめた俺は、ティーカップをソーサーに戻し、ほのかを手招いた。
きょとんと首を傾げつつも、俺の隣に腰を下ろしてくるほのか。本当にこいつは素直だな。
そっと抱き寄せ、怪我をしていない左手をほのかの黒髪に差し入れる。
「征臣さ、……んっ、く、くすぐったいです」
「……悪かったな。お前にまで怪我、させちまって」
心だけでなく、ほのかの頬にはあの女がつけた傷が絆創膏の下に隠れている。
証拠映像を押さえる為とはいえ、こいつにはかなりの無理をさせちまった……。
だが、相変わらず人の事を気遣うこの子兎は何でもない事のように笑みを浮かべ、「大丈夫ですよ、掠り傷ですから」と、無理をする。
本当は、怖かったんだろ? 痛かったんだろ? 苦しくて、辛くて、今も、それが続いてるんだろ?
「痛いなら……、痛い、って、そう言え。でないと、お前にとっての俺が何なのか……、わからなくなる」
「征臣、さん……」
「頑張れ、って、耐えろって、そう押し付けたのは俺達だ……。そのせいで負った傷を、隠そうとしなくていい」
思い切り抱き締めてやりたいのにな……。使い物にならない右手の存在が、歯がゆくて仕方がない。それでも、今の俺には、このくらいしか……、してやれる事がない。
長いその黒髪越しに背中を撫でてやりながら温もりを抱き締めていると、ほのかの身体が、微かに震えだした。
「……進藤さんは、本当に、本当に……、悠希さんの事が、大好き、だったんです」
「……」
「大好きで……、悠希さんの事を守りたくて……、とても、一途で、純粋で」
そこから先を、ほのかが口にする事はなかった。
きっと心の中では、自分自身を責めるような思いでいっぱいなんだろうが……、言えば少しは楽になるその思いを、ほのかは耐えている。
自分が秋葉悠希に出会わなければ、交流を拒んでいれば、進藤夏実を黒に染める事はなかった。
そうやって自分を責めている事を口に出さない事で、ほのかは自分自身をも罰している。
本当に、反省の一切ない蒼とは真逆だ……。
そんな事を思いながら……、俺は何を言うでもなく、震えるその温もりを静かに撫で続けた。
気の利いた言葉ひとつ言えない役立たずなこの口の代わりに、この心を寄り添わせる事で、ほのかの傷を癒せるようにと、そう……、願いながら。




