過ぎた憎悪と、これから
最初はほのかの視点。
後半は、ほのかの兄、鈴城蒼の視点で進みます。
「征臣さん、やっぱり私……、仕事のこと、諦められません」
「あのクソ親父と徹底的にやり合う決意が固まったってわけか?」
老人ホームに通りすがりのお婆さんを送り届けてから数時間後、私達はバスに乗り鈴城家へと戻っていた。どんなに考えても、征臣さんと仕事を天秤にかけられるのかと迫られても、やっぱり元の気持ちに戻って来てしまう。幼稚園の先生を続けたい。これからも、子供達と大変で楽しい日々を過ごしていきたい。我儘な願いだけど、それを押し通す覚悟を、私は定めた。
征臣さんの新しい婚約者候補が現れようと、私が征臣さんを愛している事は変わらない。
全部諦めない。自分に出来る全力で足掻いて、征臣さんのお父さんを押し返す。
ソファーに座り寛いでいる征臣さんの下で、私は正座しながらしっかりと頷いた。
「最初は、あと一年だけでも……って、思っていました。けど、それじゃ満足出来ないくらい、私は我儘です。大好きな征臣さんの事も、幼稚園の仕事も、全部勝ち取りたい」
「……」
「征臣さん?」
無言になって顔を背けた征臣さんは、その口元を押さえ、何かブツブツと言っている。
耳や横顔の頬が赤いのは……、もしかして、照れているのだろうか。
自分が、『大好きな征臣さん』と口にしてしまった事を思い出し、私も遅れて真っ赤になっていく。
「あの、それで、ですね……。もう一度、征臣さんのお父さんを、お話を」
「……クソ親父が聞くと思うか?」
「きっと、話にならないと背を向けられると思います。それでも、私はお願いし続けてみようと思います。征臣さんも仕事も、どっちも、私は望んでいますから」
強欲だと蔑まれても、人生の中で譲れない絶対欲しいもの。
征臣さんは意思を定めた私を抱き上げると、腰のあたりから抱き締めて膝の上に固定してしまう。
首筋に埋められる征臣さんの吐息、漏れ聞こえたのは、楽しそうな響き。
「親父相手に全面戦争ってのも、結婚前の良い思い出のひとつになりそうだ。ほのか、俺は何があっても親父の命令には従わない。他の女を連れて来られても、相手をする気もない。だから、お前はお前が思うように、全力で抵抗しまくれ」
「は、はい……っ」
「跡継ぎを失って困るのは親父だからな……。獅雪家が築き上げてきた基盤を、一族以外に渡すのは絶対にその矜持が許さねぇはずだ。俺達の意志、全力で貫きとおすぞ」
ぎゅぅぅっと抱き締められ、征臣さんが私以上にお父さんへの闘志を伝えてくる。
最初から、征臣さんは私を守ろうと、この胸に抱く夢ごと包み込んでくれていたのに、色々と考えすぎて遠回りをしてきたのは私一人だ。
それはきっと、自分の叶え続けている夢を、私自身が心のどこかで大切にしきれていなかったせいかもしれない。貫き通す覚悟、誰の為でもなく、自分の心に、正直に。
こんなにも心強い獅子様が一緒にいてくれるのだ。何も怖いものなどない。
……の、だけど。何故だろう。征臣さんの手の動きが微妙に変わり始めているような。
「征臣さん……、どこ触ってるんですか」
「嫁の尻」
「セクハラですよ!! それに、まだ嫁じゃありません!!」
背中を擦っていた手が、不埒な動きへと変わり、私のお尻をむにむにと揉んでいる!!
そういえば、前にも米俵で担がれていた時にお尻を揉まれたり叩かれたような記憶が!!
身を引こうとする私をがっちりと押さえ、征臣さんはその綺麗過ぎる美貌を私の顔面に据えてくる。久しぶりに見たような気がする……、俺様獅子の自信満々の微笑。
幻覚だろうか。征臣さんの口から牙が生えているような錯覚まで覚えてしまう。
「も、もうっ、悪ふざけはやめてください!!」
「これでも我慢し続けてるんだぞ? 味見ぐらいさせろ」
「い~や~で~す~!!」
私の抱き心地が気に入っているのか、征臣さんは自分の腕に抱いたまま、寝室へと乗り込んでいく。大きなベッドに私を放り込み、……聞こえたのは、部屋の鍵が閉まる不吉な音。
あ、猛獣の檻に放り込まれたんだ、私……。気付いても所詮逃げられる方法などなかった。
逃げようと起き上がりかけた私を勢いをつけて押し倒し、征臣さんがのしかかってくる。
「補充出来る時に味わっとかなきゃな?」
「わ、私は餌じゃないんですよ……っ」
「俺にとっては、唯一の、極上の餌だな。早く喰っちまいたいが、味見だけにしといてやるって言ってるんだ……。少しはお前も俺を労われ」
「意味がわかりませんからああああ!! ンゥッ!?」
さらに重みが増し、私は征臣さんの極上の餌と銘打たれ、柔らかなそれを押し付けられた。
本当に、野生の獣が獲物の味見をするみたいに、ぺろりと、唇の表面をなぞられる。
瞳を閉じる事だえ許されず、征臣さんの飢えた双眸が私を捕らえ続け……。
「んっ……、ま、征臣、さ、……ふっ、んっ」
「自業自得……。お前は無自覚に俺を煽ってくるから性質が悪い。……ほら、我慢し続けて暴走しそうな俺を抑え込んでみろ。お前の頑張り次第で、手懐けられてやってもいいんだぜ?」
「な、何を言って……、んんっ、……はぁ、征臣さん、の、馬鹿っ」
次第に荒くなってくる征臣さんの熱に翻弄されながら唇を委ねていると、彼のズボンのポケットから着信音らしきメロディが聞こえてきた。
けれど、征臣さんはそれを無視して、もう少し先まで味見をしてみたいと私の服に手をかけようとする。しかし……。
鳴り止まない携帯の着信音……、征臣さんの眉間に皺が寄り、小さな舌打ちがひとつ。
「くそっ!! またアイツか!! どんだけ俺の邪魔したいんだよ!!」
「ま、征臣……、さん?」
扉の向こうへと消えた征臣さんが、誰かと言い合う大きな声が聞こえてくる。
物凄く怒っているのはわかるのだけど……、相手は誰?
助かった、そう安堵する気持ちもあったけれど、何故だか、少しだけ残念な気持ちも。
征臣さんは、本当に猛獣のようでその猛攻ぶりにタジタジとなる事もある。
けれど、同時に……、食べられてしまってもいいかなと、征臣さんが私を求める力強い目を向けて来た時に感じる得体の知れない心地良い感覚。
それを甘い痺れのような感覚を抱きながら、私はごろんとベッドにまた身を預けた。
逃げたくて堪らない程に恥ずかしくて、でも、征臣さんに食べられたら、凄く幸せな気持ちになれるんじゃないかと、流されそうになってしまう自分。
いつか訪れるその時を予感しながら、少しだけ音量の落ちた怒声を子守歌に、私は瞼を閉じたのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「特に異常はないな……。ほのか、家に入ったらもう外には出るなよ。いつまたパパラッチが出てくるかわからねぇからな」
「はい」
冴え冴えとした星の煌めく夜空の下、征臣さんの車で送って来た貰った私は、彼に見送られながら家の中に入ろうとした。けれど……、あれ? ポストの中に何か郵便物が。
手を触れるのも躊躇われるそれは、とても分厚い茶封筒。
こんな分厚いもの……、ポストの投函口に入るわけがない。
一度こちら側にまわって置いて行ったとしか思えない不気味な郵便物。
茶封筒の表面には、真っ赤な色で私の名前が綴られている……。
「どうした? ほのか」
「いえ、あの……、ちょっと」
人の悪意が込められているとしか思えない分厚い茶封筒。
それに手にしゃがみ込んだ私の許へ、征臣さんが駆け付けてくれる。
「まさか……、またなのか」
茶封筒の封を切り、中身を確認した征臣さんが吐き捨てるように怒声を上げた。
「ふざけんなよ!! こんなモン……、今すぐに焼き捨ててやる!!」
「ストップ、征臣。大事な証拠品だからこっちに渡してくれるかな?」
征臣さんの車の傍に停められたシルバーの車。
その中から、帰宅してきた蒼お兄ちゃんが足早に征臣さんの所まで走ってくると、茶封筒を奪い取った。その時に、ひらりと地面に落ちた……、私と征臣さんが一緒に映っている写真。
それを埋め尽くす……、呪いの怨嗟にも似た、恐ろしい言葉の数々。
茶封筒の表面と同じ、真っ赤な血文字を思わせる……。
猛烈な吐き気を繰り返し膝を折った私は、征臣さんの腕に抱きかかえられた。
「征臣……、さん」
「蒼、ほのかを部屋に運ぶ。それの始末は任せる」
「あぁ。……ほのか、今見た物は忘れるんだ。いいね?」
「う、うん……。……あ」
家の中へと運び込まれる寸前、真っ暗な外の景色の中に、きらりと光る何かが見えた気がする。
車道の向こう側……、征臣さんと蒼お兄ちゃんの車が停めてある方からは離れている電柱の近くに、車が一台。そこから、堪え切れない憎悪のような視線を感じた私は、あまりの恐ろしさに征臣さんの胸に縋り付いてしまった。
今のは……、何? 誰かが、私を見ていた気がする。過去形ではなく、今も……。
玄関口から階段を駆け上がってくれた征臣さんが、私を自室の中へと運び込む。
ベッドに身体を横たえ、どこかへと行こうとしてしまう。
それがどうしようもなく嫌で、怖くて……、征臣さんのコートの裾を掴んでしまった。
「征臣……、さん、お願い……です。傍に、いて……ください」
「ほのか……」
茶封筒から落ちたあの一枚も怖かった。けれど、それよりも恐ろしいと思えたのは……、得体の知れないあの視線。誰かが、私を凝り固まった悪意で脅かそうと、徐々に近づいて来ている気がした。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
――Side 鈴城蒼
「ルージュの次は、血に見立てた絵具か……。どこまで歪んでるんだか」
ほのかと征臣、それ以外の組み合わせの写真も多い。
秋葉家兄弟、幼稚園の透君……。男といる事を咎めているというか、俺の大切な妹を節操のない娼婦のように見ている……、『女』が存在している。
現段階で調べが終わっているのは、まず、獅雪家の跡継ぎである征臣の妻の座を狙う女達の素行調査と、秋葉家の長男の周囲の女達。
どれも、小さな害にしか過ぎない雑魚ばかりだが、一番ありそうで敵が多すぎるのは……。
「蒼、入るぞ」
「どうぞ」
ほのかを寝かしつけたのか、征臣が苛立ちを抑えた表情で俺の部屋へと入ってきた。
ずっと見せないように隠し続けていたのに、さらに悪化した汚物をほのかの目に見せる事になろうとは……。ポストのチェックが遅れた俺のミスだ。
一応母さんや父さんにも頼んであったが、二人ともまだ帰宅していない。
憎悪と悪意のオンパレードなんて、ほのかには毒過ぎるというのに……。
「まだ動かない気か?」
「いや、動く時は選ぶつもりなんだけどね……。征臣、これ、見てごらん」
ノートパソコンの液晶に映り込んでいるのは、ある人物の裏ファンサイトだ。
表向きには行儀の良い振りをしているが、探りを入れてやれば凶悪極まりない行き過ぎた狂愛の温床が潜んでいる。まぁ、崇められている彼も、こんなものを見たら吐くレベルだろうけどね。
そのサイトの掲示板に投稿されている、ほのかと彼の写真。
匿名で投稿されているのは当たり前と言えば当たり前だが、どれも人間性を疑うような罵詈雑言の嵐。嫉妬もここまでくると害悪だ。
「これは発見した時に俺が削除しておいたページの複製だけど、今頃裏ファンサイトはウイルス塗れで機能出来てないだろうね……。管理者のパソコンも、行儀のなってないファンのパソコンも、ね」
俺の妹を晒し、勝手な嫉妬と憎悪で穢した罰としては生温い。
征臣もそう思ったのだろう。液晶に映っている心無い言葉の羅列と、殺意さえ感じさせるその狂気の世界に、奥歯を噛み締め殴りつけたいのを必死で堪えている。
彼女達に崇められている彼……、秋葉悠希に罪はない。
けれど、彼がほのかに好意を抱き近づいたせいで、パパラッチよりも性質の悪い蠅が湧いて出た。
パパラッチが送り付けてきた最初の写真と、次に主犯と思われる女が送り付けてきた憎悪塗れの写真。そして……、典型的な嫌がらせの手紙なども、俺の手元に集められている。
そんな小細工と憎悪を生産している自分がどれ程醜いか、彼女達には是非鏡を見て考えてほしいものだ。まぁ、自覚した時の絶望は相当のものだろうけどね。
「お話してわかってくれる子じゃないだろうけどね……。とりあえず、金に物を言わせて自分の身元を隠している悪い子には、そろそろお灸を据えるとしようか。一応、警告はしてあげたんだけどねぇ……。自分が敵にまわしてる存在の恐ろしさに、まだ気付いてないんだ」
「容赦なんかいるかっ!! 徹底的にぶちのめせ!! 女だろうが……、ほのかを苦しめた罪は償わせる。絶対にっ」
馬鹿に権力と財を持たせるとろくな事にならない。
命までは取らないけど、あの子は少々、いや、かなりやり過ぎた。
人の部屋の壁を殴り付けた征臣に苦笑を零し、俺はノートパソコンを閉じる。
幸せを掴もうとしている妹のそれを壊す者は、それ相応の報いを受けるといい。
幸いな事に、悪戯の過ぎた元凶はつい三日前に大人の罰を受けられる年齢に達している。
子供だからと、許されて見逃される時期は終わったよ……。
当然、俺の小さな心の声もまた、その子に伝わる事はない。




