俺様獅子の暴走と、ほのかの心
「征臣さんっ!! 私、自宅に帰りたいんです!! だから、あのっ、お、下ろしてくださっ、きゃああっ」
激怒し猛獣と化した征臣に連れ戻されたマンションの一室。
迷いなく向かったその先は、征臣さんの寝室だった。
ベッドの上に乱暴に放り込まれた私は、低く苛立ちの音で呻いた征臣さんに覆い被さられてしまう。本気で怒ってる……、見下ろしてくる瞳の苛烈さに、私の存在が小さくなっていく。
「親父がお前を認めないって言い張っても、俺にはお前だけだ!! 初めて会った時から……、ずっと、ずっと、俺の心にはお前だけなんだよ!!」
「征臣さんっ、い、痛いですっ。手、離し、――っ!?」
それは、赤い血肉を喰らう獣と同じ勢いに思える程の噛み付きようだった。
私の抵抗の声ごと奪った征臣さんの熱。自分がどんなに苛立っているのかをわからせるかのように、彼の呼吸が乱れを見せながら私の口内へと舌が押し入ってくる。
「んっ!! ま、征お、んんっ、や、やめてくだ、さっ」
「……お前は、俺のもんだって、何度言えばわかるんだっ。ンっ……、俺や獅雪の家に遠慮して、今度は逃げる気かっ」
「ち、ちがっ、わ、私は……、んぅっ」
『今』は、征臣さんの傍にいる事に、どうしても罪悪感を感じてしまうから……。
どうすれば二人で幸せになれるのか、自分の心の中の迷いを整理したいだけで、誰も別れるなんて言ってないんですけど!! 男性の強い力で両手をベッドに縛り付けられて、私はぶつけられてくる征臣さんの激情に、酸素を吸う事さえままならない。
幸希ちゃん!! 幸希ちゃん助けて!! ここにはいない親友に助けを求めてしまう私も色々と余裕がない。口内を嬲る熱に翻弄されながら、ようやくその感触が少しだけ離れたその時。
征臣さんが、怒りと悲しみがない交ぜになったその切ない表情で、その頬に一筋の痕を伝わせた。
「征臣……、さん?」
「俺がどれだけ苦労して……、お前の許まで辿り着いたかっ。やっと手に入れたのに、誰が逃がすかっ」
「ち、違うんですっ、征臣さんっ」
「何がだよ!! 俺の嫁になる資格がないとか、ふざけた事抜かしただろうが!!」
まさか、年上の猛獣属性の男性が泣くとは思わなかった。
征臣さんは本気で私が離れていくと、別れを切り出したのだと……、勘違いしている。
その誤解を解こうと言い訳を口にしようとする度に、また熱が重なり合って、どうにも話を聞いてもらえない。ほ、本当にどうしようっ。
確かに、暫くの間は征臣さんから離れて、どうすれば彼に相応しい女性になれるか、自分の中の迷いと向き合おうと考えてはいたけれど、永遠に離れるなんて事は……、やっぱり考えられなくて。
そう補足を入れる前に、征臣さんはこの通り。
これは不味い。どのくらい不味いかというと、この場で全部強引に奪われてしまう可能性が……。
「んんぅっ!! ……はぁ、はぁ、征臣さん!! ストップ!! ストップ!!」
「うるさい!! 俺の事を捨てようとするお前なんか、触りまくって他の奴の嫁になんかなれないようにしてやる!!」
子供の駄々捏ねですか!!
私の服を無理やり剥ぎ取ろうと暴走し始めた征臣さんの顔を両手で押し返しながら、私は全力で抵抗の意志を示す。だけど、男性に私の力が通じるわけもなく、早々に上着が奪われてしまった。
「わ、私っ、征臣さんの事を捨てるなんて言ってません!! ただ、暫くの間距離をおきたいというか、一人で考えたい事が色々と!!」
「そんな事許したら、お前は絶対俺から離れる結果を出しそうで怖いんだよ!! もうずっと俺の傍にいろ!! 悩む暇なんか全部俺が奪ってやる!!」
「そういう問題じゃありませぇええん!! 本当、落ち着いてください!! 征臣さんの馬鹿~!!」
そんな事を言ったら、ますます猛獣様が激怒するだけなのに、私は無我夢中で暴れ続けた。
そして、黙らせようと唇を割って入り込んできた彼の舌に、思い切って歯を立ててしまう。
征臣さんの柔らかな舌が、突然の痛みに呻きを漏らしながら口内を出ていく。
「……お前」
「はぁ、はぁ……、落ち着いて、ください」
きっと、凄く痛かったに違いない。だけど、そうしないと征臣さんは止まってくれない。
だから、私はこれ以上の無理矢理の行為は嫌だと静かに訴えて、その唇の端から伝う痛みの証を拭う彼の瞳をしっかりと見据えた。
「心の……、整理がしたいんです。どうすれば貴方と一緒に幸せになれるのか。どうすれば、甘えてばかりの情けない自分から抜け出す事が出来るのか」
「何が情けないんだよ……。お前は、一度だって俺に縋った事なんかないだろうが」
「いいえ。私は、いつも征臣さんの優しさに救われていました。沢山愛してもらって、仕事の事も、本当はすっぱりと諦めるべきなのに、続けてもいい、って……、譲ってもらってばかり」
「それの何が悪いんだよっ。甘えてる内にも入らねーだろ!」
今の私の問題点は、征臣さんと幼稚園の仕事を天秤にかけた時、どうしても仕事の方に、子供達の方に傾いてしまう事。彼の為に、全てを捨てる覚悟を持てず中途半端な事しか出来ない自分。
きっと、征臣さんのお父さんは、彼がどんなに抵抗しようと、三か月後には海外に行かせてしまう事だろう。その傍に……、私以外の女性を。
そんなのは絶対に嫌……っ、征臣さんが手の届かない所に行ってしまうなんて。
彼の事を瞬時に選ぶ事の出来ない自分を再確認したからこそ、距離をおいて一人で考えたくなったのだ。
征臣さんが、普通の会社員で、次期社長という立場でなければ、普通に共働きの選択肢もあったかもしれない。子供が出来るまでは頑張って、子供の手が離れた頃にまた復帰する事も……。
(征臣さんのお嫁さんになる為には、中途半端な覚悟を捨てないといけない。次期社長夫人として、彼を全身全霊で支えて、その後継者を育てる、絶対の覚悟を)
だから私は、自分の気持ちを整理したいのだ。
征臣さんが孤独な道を歩まないように、誰が去ったとしても、私だけは彼の傍に寄り添い続けられるように。私自身が、守られるだけではなく、征臣さんを守るべき存在にならなくてはいけない。
「結婚してもどうにかなるかなって……、軽く考えていたんだと思います。征臣さんの妻になる責任の重さも、結婚後に変わる生活の事も」
「俺と結婚したって、お前が変わる必要なんかないだろうっ。俺が守る、お前が不自由しないように、面倒な事は全部遠ざける。だからっ」
「それじゃ駄目なんです。征臣さんに守られてばかりの私じゃ、何も意味もありません」
「ほのか……っ」
もう征臣さんのお父さんがどうという問題じゃない。私の心の問題だ。
だから、私に時間をくださいとお願いしているのに、征臣さんは青筋をぴくりぴくりと浮かべて「駄目だ!」の一点張り。これは絶対に、私の事を信用していない。
私がネガティブに悩み考えた末に、ひっそりと姿を消すという悪い想像をしているのだろう。
確かに私は悪い意味で真面目に悩みやすいところはあるけれど、そんな事はしない。
もし別れるとしたら、ちゃんと顔を見て最後の言葉を伝えるだろう。
「大丈夫です。自分の中の迷いを整理して、これからの事を真剣に考え直したいだけなんです。征臣さんの傍に、ちゃんと戻ってきますから」
「駄目だ、写真の件もあるし、お前を鈴城家に帰すわけにはいかない」
「征臣さん……」
「真剣に考えるって言ったな? 別に俺の傍でそれをしたっていいだろ。いや、むしろ、俺と一緒に考えろ。お前が俺の心臓を止めるような真似をしないように、すぐ傍で見張っててやる」
そして、改めて再確認した事がひとつ。
征臣さんは……、私に対して過保護過ぎる。
それは溺愛と言っていいほどの……、私を堕落させる甘い毒。
傍にいれば、きっと私は甘えてしまうから……。
「一人で、考えたいんです。お願いします、征臣さん」
「……くそっ、この頑固者がっ」
私の決意が変わらない事を知った征臣さんは、上体を起こして頭を掻いた。
それが、私の我儘を許してくれた事を示しているのだと、感じ取る。
私はゆっくりと身体を起こし、恨みがましそうに睨んでくる征臣さんに頭を下げた。
自分の勝手で、彼を暫く一人にしてしまう事。けれど、必ず戻ってくると約束を交わす。
不満そうなのは変わらなかったけれど、征臣さんは私の事を許してくれた。
「そのかわり……、二週間だ。だらだらと何か月も悩む余裕があると、答えも先延ばしになるからな。二週間で、お前自身がどうしたいのか、心の整理をつけてこい」
「征臣さん……、ありがとうございます」
「けどな。まずは蒼に連絡して、鈴城家に戻ってもいいかどうか、現状を全部把握してからにしろ。秋葉家の次男は注意を受けてるから接触はしてこないだろうが、慎重に動かねぇとな」
「はい」
「つーわけで、今日はこの部屋に泊まっていけ。二週間もお前に会えなくなるんだ。そのくらいの我儘は許してくれるよな?」
私は征臣さんの優しさに涙ぐみながら頷くと、両手を広げてくれたその腕の中に飛び込んだ。
この人の温もりに応える為にも、朧気だったこれからの人生をきちんと考え直そう。
どうにかなるとか、流されるような立場じゃなくて、ちゃんと自分でこれからの事を決めて、征臣さんを支えられるような奥さんになる為に、この心の中で淀んでいる迷いや中途半端な部分を綺麗にしてくる。そうする事で、新しい自分になれる気がするから……。
「はい……。今日は、一緒にいます」
「ほのか……」
その日、私は征臣さんのマンションに泊まって、翌朝、また幼稚園へと送ってもらう事になった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
――Side 鈴城蒼
妹のほのかが征臣のマンションに移ったその晩、真夜中にかかってきた征臣からの連絡。
秋葉家絡みで集めた報告書を読みながら通話に出ると、――妹が鈴城家に戻りたいという意志を示したから、戻っても大丈夫かどうか、征臣はそれを聞きたかったらしい。
俺の机の上には、今日の朝、新たに鈴城家に投函された写真が数枚……。
最初は金をたかってきたくせに、今度は……。
『ほのかに対する誹謗中傷の言葉?』
「うん、ほのかと透君が一緒に映っているものや、秋葉家の昴さんに怜君、とにかく、男と一緒にいるところを狙って撮ったみたいだね。その写真の一枚一枚に……、罵倒の言葉が書き殴られているんだよ。――見ているだけでも吐き気がするね」
『今度は、金については……、何も?』
「ないね。まるで……、『別人』の意思が働いているかのように、違和感を感じるよ」
俺の大切な妹を、悪意の籠った罵倒の言葉で責め立てている正体不明の誰か……。
一度目は、写真と金に対する要求は書かれていたものの、連絡先がなかった。
二度目は、ほのかだけを憎悪しているかのように、今すぐに寺の住職にお願いしたいくらいの代物(写真)が届いた。勿論、連絡先など書かれていない。
『別人、か……。別々の意図が働いているのか、それとも』
「誰かがパパラッチを雇い、自分の意思で動かしていたものの、勝手に動いて金を要求した事を知った黒幕が、今度は自分で写真に悪意を込めて投函させた、とかね?」
むしろ、可能性があるのは後者だと、俺にはそう思える。
恐らく、写真を撮ったのがパパラッチ本人で、罵倒の言葉を書き殴ったのが……、裏に隠れている本当の犯人。そして、この写真に書かれてある悪意の文字は、――明らかに女性のものだ。
筆跡には人格が滲み出るからね……。大方、感情を抑えきれない醜い人種の女が、それに任せて写真をこんな風にしたのだろう。筆跡を証拠にとられる、って……、思わない程の馬鹿。
「これに関しては俺の方で調べを進めておくけど……、征臣、君のお父さんから連絡があったよ。婚約の話は白紙にする、ってね。お前の婚約者候補もすでに揃えてあるって言ってたから、そっちはお前に任せるよ」
『そうか……。ちっ、あのクソ親父っ。自分の過去のトラウマ引き摺りすぎだろうがっ』
「その件に関してなんだけどね……。お前のお父さんのお母さん、つまり、征臣の祖母にあたる人について、どれくらい知ってる?」
『どれくらいって言われても……、親父が幼い頃に離婚しちまって、その後は何年かして祖父さんが後妻をとって、俺にとってはその人が祖母みたいなもんだ。本当の祖母に関しては、子供よりも仕事をとって家庭を疎かにした人ってぐらいしか、情報はないな』
征臣自身、本当の祖母に関しては、鈴城家と獅雪家の婚約を目前とした食事会の時に自分の父親が初めて祖母に関して口にしたと、そう言っている。
別に仕事を大切にする事は悪いことじゃない。普通の家庭であれば、仕事と家庭を両立出来る女性だっている。けれど、征臣のお祖母さんがどうだったとしても、ほのか達の事は当人同士の問題だ。お互いに納得し合って結婚後の事も考えていたというのに、勝手に嫁に相応しくないと冷たく切り捨てた征臣の父親を、正直俺は気に入らない。
確かに獅雪家の次期社長夫人となる女性が負う責任は重いだろう。
社長の職は孤独とも言える凍えるような道……。
その心が休まるのは、唯ひとつの場所だけ。家庭という温もりのある自身の巣。
最愛の妻と子が待つその家は、孤独を癒せる憩いの場所となるだろう。
けれど、征臣はまだ社長じゃない。その地位に就くのは、今の社長がその力を失った時。
まぁ、あの様子じゃ二十年以上は安泰だと思うんだけどね。
それまでは、征臣もほのかの夢を許してやれる時間がある。
それなのに、幼稚園を辞める事を条件に婚約を認める、っていうのは……、やっぱり、征臣のお父さんが抱くトラウマが根強いせいだろう。
ほのかと征臣の間に生まれる子供が、俺の甥か姪になる子が、孤独になるわけなんかないのに。
「お前のお父さんは、……自分の母親が恋しいのかもしれないね」
『……あの強面の顔でか?』
「ははっ、顔は関係ないよ。ただ、お前のお父さんは、置き去りにされた自分の過去を、幼かった当時の自分を、救いたがっているように……、そう思えるんだ」
それは、自分と征臣のお母さんの結婚によって救われたかのように見えた事だろう。
けれど、娘と息子が大きくなり、今度は、まだ生まれてもいない自分の孫へと向けられた。
病気のようなもの、かもしれないね……。
孤独と共に置き去りにされる子供は全て、征臣のお父さん自身なのだろう。
その根本にある、実母との辛い過去が救われなければ、征臣とほのかの結婚は実現しない。
だから、出来れば征臣からお祖母さんに関する情報を得て、何か突破口を見つけたかったんだけど……。ふぅ……、追加で情報収集をしておく必要があるね。
『で? ほのかは鈴城家に戻しても大丈夫なのか?』
「そうだね……。あまりあの子に余計な物は見せたくないんだけど」
『無理なのか?』
「いや、いいよ。送り迎えは俺がするから、ほのかを鈴城家に戻そう」
狼の巣に放り込んでおくよりも、俺も安心出来るしね?
声には出さずに、ほのかの帰宅を許可すると、征臣はほっとしたように通話口の向こうで息を吐くのが聞こえた。残念だったね? ほのかとの同棲生活が一日で終わって。
『じゃあ、ほのかの事、よろしく頼む』
「で? お前はどこで寝るつもりなのかな?」
『あぁ、ほのかが俺のベッドで寝てるから、一緒に』
「一緒に? 俺の可愛い妹と同じベッドで眠って、お前……、堪えきれるの?」
『……に、二週間も会えないんだぞ? 抱き締めて寝るぐらいっ』
誰が許すか……。俺はソファーで寝るように征臣を脅すと、通話を切った。
携帯を机に置き、深く椅子の背へと身体を預けて瞼を閉じる。
……ほのかの為に、征臣がどれだけ努力し続けてきたか、よくわかっている。
ずっと隠してきた、俺の可愛い妹。本当は、あの子に相応しい男を俺が選んであげようと思っていたのに、――征臣はあの子を見つけてしまった。
嫌がらせのように与えた『試練』さえも、征臣は死ぬ気で乗り越えてきた男だ。
少し短気で完璧とは言えないけど、それでも、アイツならほのかを幸せにしてくれる。
そう確信出来たからこそ、俺は征臣をほのかの相手として認めた。
だけどねぇ……。
「結婚するまでは、おあずけだよ? 征臣」
大切な妹をやるんだから、それくらいは我慢して貰わないとね。
俺は机のライトを消すと、今頃ソファーのある部屋に移り一人寂しく耐えている猛獣の姿を想像しながら笑いを零し、ベッドに入ったのだった。




