婚約に向けて……
秋葉家の方々と『友人』になって早一ヶ月。
時々、幼稚園を訪れる三兄弟の皆さんと、他愛のない世間話を交わす日もあれば、
園の行事を手伝って貰ったりと、退屈しない日々が続いています。
最初は獅雪さんの手前、あまり交流を持つわけには……と考えていたけれど、
本当に普通の友人のように世間話をして去っていく皆さんを見ていると、
心配するような事は何もないのでは……と油断してしまう自分を感じる事がたまにある。
昴さんは、穏やかで大人の貫録があって、お兄さんのようにも感じられる人。
怜さんは、言葉が冷たい時もあるけれど、気遣ってくれる優しさをちゃんと感じられる人。
悠希さんは、子供のようにも見えて、なんだか弟のようにも思える人。
そんな彼らと過ごすうちに、私もすっかり……この友人関係に慣れてしまった。
良いのか悪いのか、ちょっと悩むところだけれど……。
個人的には、こんな日常も悪くはないと感じている。
――ホテル・『QUEEN』
獅雪さんと私が望んでいた正式な婚約に関する話をする為の、
両家の家族が集まる日がやって来た。
思ったよりも、時間がかかってしまったと獅雪さんが不満そうに言っていたけれど、
私達の両親は、どちらも大企業の社長。
ただ顔を合わせるというだけなら、少しの時間を使って出来そうだけれど、
正式な婚約に関する話し合いをもつとなると、きちんとした日程を組まないとならない。
そんなわけで、伸びに伸びて、一か月後の今日。
やっと正式な婚約を交わす為の話し合いの場をもつ事が出来たというわけだ。
獅雪さんによく似た面差しの五十代前半ほどに見える男性と、
その奥さんである獅雪さんのお母さん、それから琥春さんと獅雪さん本人が目の前の席に座っている。
「ようやく話を本格的に纏められるようで何よりですよ。
ずっと仮のままでは、両家の為にもよくありませんからね」
穏やかに笑みを浮かべた獅雪さんのお父さんに、私のお父さんも頷きを返してワインを手にとった。
「鈴城さん、婚約式も兼ねたお披露目には、大勢の方々を招いて盛大にしましょう」
「そうですね。若い二人の門出の一歩です。
結婚式の前の予行練習と思って、賑やかにしたいものですね」
基本的に、私のお父さんと獅雪さんのお父さんが和やかに言葉を交わし、
他の皆はディナーを食べながらその流れに笑みを返すといった感じになっている。
私達の婚約を、心から喜んでくれる家族の皆。
やっと、獅雪さんと結婚への道を歩き出せる。
――コトン。
「ところで、鈴城さん」
「はい、なんでしょう?」
婚約式の日程をこれから決めていくというその時、ふと真顔になった獅雪さんのお父さんが、
ワイングラスをテーブルの上において、私の方へと視線を向けた。
一瞬びくりとしたものの、姿勢を正し、その眼差しを真っ直ぐに受け止める。
獅雪さんのお父さんの様子を見る限り、きっと大事なお話があるのかもしれない。
「征臣と、そちらのほのかさんを結婚させた後の話になるのですが……。
確か、ほのかさんは、幼稚園の教諭をされていましたね?」
「ええ。この子の夢だった職業でして、最近では子供達と仲良く有意義とした生活を送れているようです。
……それが何か?」
「それはとても素敵な事ですね。ほのかさんにもよく似合っている職業だと思いますよ。
ですが……、獅雪家に入るなら、そのお仕事は諦めて頂きたいのです」
「親父!?」
射抜くように私を見つめる獅雪さんのお父さんの言葉に、暫し言葉を忘れる。
今……、何て……。
席を立ちあがった獅雪さんが、怒った様子で自分のお父さんに詰め寄るのが見える。
「俺は、ほのかに仕事を辞めさせる気なんかないぞ!
そりゃ、子供が出来たら産休や育児休暇はとらせるが……」
「征臣、ほのかさんには、期間限定ではなく、きっぱりと幼稚園の仕事を辞めて貰いたいと、私はそう考えている。
お前が多忙な責務を果たしている間、しっかりと家を守り子を育てられる存在になってほしいと……。
そう考えているんだ」
「そんなの勝手すぎるだろ!! いつの時代の話をしてんだよ!!
仕事をしてたって、二人で協力しあえばきっと……」
獅雪さんが私の為に自分のお父さんに意見してくれる事を、心の底から嬉しく感じる。
私が自分の仕事に、子供達に、どんな強い想いを抱いているのかを、ちゃんと理解してくれている……。
だけど、獅雪さんのお父さんは……。
「征臣、お前は黙っていなさい。
ほのかさん……、これは私の両親の話になるのだが、
私が幼い時、母も仕事をもっていてね。両親共働きのせいか、非常に寂しい思いをして育ったんだよ。
広い家に、子供が一人で取り残される不安と恐怖……。
結果的に、父は仕事を優先する母と離婚してしまった……。
そのせいか、夫婦の役割はきちんと分けなくてはいけないと思うようになってね」
「そ、そうだったんですか……」
「貴方には酷な選択を強いるかもしれないが、
征臣の妻になる以上、結婚後の問題を防ぐ為にも幼稚園の仕事は辞めてほしい。
勿論、ずっとというわけではない。
子供達が育ち、全員が巣立った時にでも、また復帰すればいいと考えているんだよ」
「あのな、親父。それじゃ物凄い年数がかかっちまうだろうが。
せめて、子供が出来るまで待つとかじゃ駄目なのかよ」
どうしても辞めなければならないのなら、せめて……子供が出来るまでは。
私の為に、どうにか自分のお父さんを説得しようとしてくれている獅雪さんに、
琥春さんも加勢をするように反対の声を上げる。
「今の時代、お父さんの考え方は古すぎるわよ。
征臣とほのかちゃんなら、きちんと自分達で話し合ってより良い結婚生活をしていけるはずだわ」
「琥春、お前だって母さんがずっと家庭を守ってくれていたから、
好きに生きて来れたんだろう? それをわかっているなら、征臣同様黙っていなさい」
「……もうっ」
獅雪さんのお母さんに肩を抱かれて、悔しそうに俯いた琥春さん。
家によって考え方や価値観が違うのはわかっているけれど……。
結婚後すぐに仕事を辞めるというのは……、簡単には頷く事が出来ない。
私は、結婚までの繋ぎの為に幼稚園の先生になったわけじゃないから……。
幼い頃から憧れて……、子供達の笑顔と一緒にいたくて……。
確かな想いが胸にあったから、目的をもって進んで来れた。
だから……、結婚と仕事を天秤にかけられてしまったら……。
下を向いて口を引き結んでしまった私に気付いた蒼お兄ちゃんが、そっと肩を抱いてくれた。
「獅雪さん。貴方の仰る事も尤もですが……、
私は、娘を結婚という檻に入れる気はないんですよ」
「檻……とは、随分な言い様ですね?」
「貴方のお育ちになられた環境を思えば仕方ないのかもしれませんが、
必ずしも、貴方のご両親のように悲しい結末を辿るとは限らないでしょう?
征臣君とほのかなら、お互いの気持ちを尊重し合って、良い家庭を築けると、
私はそう思うんですよ」
「今はそうでも、関係性など……、時間と共に歪んでいくものですよ」
――……。
遠い過去に置き去りにされた幼い頃の自分を見ているのか、
獅雪さんのお父さんは、悲しげに瞼を伏せた。
両親が共働きをしている場合の、子供への影響……。
それは、私だって慎重に考えなくてはならない事だと考えている。
けれど……。
「ですから、ほのかさんには、出来れば結婚後よりも、
婚約式を終えた後にでも、仕事を辞めて欲しいと思いましてね……」
「獅雪さん。それは幾らなんでも早すぎでしょう?
せめて結婚後、子供が出来るまでは二人を見守ってやる事が、
親としての在り方だと思いますよ、私は」
毅然とした態度で、獅雪さんのお父さんに向き合うお父さん。
せめて子供が出来るその時までは、私から仕事を奪わないで欲しいと盾になってくれている。
皆に庇って貰うばかりなんて駄目……、私も、獅雪さんのお父さんにはっきり言わないと!
「あ、あのっ……、わ、私……、まだ、この仕事を辞めたくないんです!
獅雪さんのお父さんのお気持ちも凄くよくわかりますけど、
私にとってこの仕事は……かけがえのない大切なもので……、
それを、すぐに捨て去る事は……、私には出来ませんっ」
「つまり、征臣よりも、仕事をとると……、そういう事だね?」
「そ、それは!!」
決してそういう事ではないと、私は首を振って獅雪さんのお父さんに言葉を続ける。
獅雪さんと仕事を比べる事など出来ない。
どちらも大事で……、これからも一緒に歩んで行きたい存在だから……。
そう言い募っても、獅雪さんのお父さんは落胆したように溜息を吐き出し、
やがて、その席を立った。
「鈴城さん、婚約の件は一度保留にしましょう。
お宅のお嬢さんは、結婚というものを甘く考えているようだ。
真剣に考える時間を与えましょう」
「ほのかは、決してそのように甘い考えで、貴方に自分の気持ちを言ったわけではありませんよ。
この子にとって、幼稚園の仕事がどんなに重要で愛すべきものか……。
征臣君とほのかの幸せを想うなら、貴方の方が真剣に考える時間をもつべきだ」
「お父さんっ」
険しい表情で一歩も引くものかと、獅雪さんのお父さんを見上げる私のお父さん……。
その場にいる誰もが、もう口を挟む事も出来ずに黙ったまま……。
二人が睨み合うのを暫くの間見守り続ける。
「……春乃、琥春、征臣、帰る支度をしなさい」
「アナタ……」
「本当に頑固なんだから……」
「俺は行かない」
バッグを持って仕方なく立ち上がった獅雪さんのお母さんと琥春さんの横で、
獅雪さんが自分のお父さんを怒りに満ちた眼差しで見遣ってそう言った。
もう一度促しの言葉を向けられるけれど、彼は動かない。
獅雪さんのお父さんは重たい溜息と共に、扉の向こうに歩き去っていった。
琥春さんと獅雪さんのお母さんも、私達に小さく会釈して謝罪と共にその後を追いかけていく。
途中の料理が、虚しくテーブルの上に残り……、暫くの間、誰も声を発する事が出来ない。
――カタン。
「ほのか、私達も帰ろう。
このままここにいても仕方がないからな」
「お父さん……」
私達に部屋を出るように促していたお父さんが、ふと、目の前に獅雪さんが立った事に気付いた。
痛みを堪えたような悔しそうな表情で、その頭を深く下げる。
「し、獅雪さん!?」
「征臣君……」
「父が……、失礼な真似をしてしまい、大変申し訳ありませんでした……」
「征臣君、貴方が謝る事はないのよ?
獅雪さんだって、色々複雑なお気持ちのようだから……。
きっと何度か話し合って説得すればわかってくれるわよ」
「そうだよ、征臣。人間話せばわかってくれるさ」
励ますように皆で声をかけるけれど、顔を上げた獅雪さんの表情が晴れる事はなかった。
「あの人は……、一度決めた事に関しては、岩のように頭が固いんです。
俺も諦めずに説得しようと思いますが……」
首を縦に振る可能性は限りなく低い……。
彼の苦しそうな声音と、グッと握り締められた拳が小さく震えるのを視界に映した私は、
そう悟ってしまった……。
獅雪さんと結婚する為には、幼稚園の教諭を辞める事が条件なのだと突き付けられているかのように……。




