俺様獅子と鍋屋・勝!
安全運転は大事です……。
獅雪さんの八つ当たりのような運転のせいで、私の意識は遥か夢の彼方へと飛ばされていた。
一ヶ月ほどしか獅雪さんという人と関わっていないけれど、
とんでもなく自分の機嫌を行動で示す人だな~というのは、よぉーくわかりました。
「少し歩くぞ」
「……うーん、安全……う……ん……てん、むにゃ、むにゃ……」
「少し飛ばしすぎたか……。おい、ほのか。起きろ。降りるぞ」
むにっと頬を摘まれ、それでも目を覚まさない私を起こすべく、
獅雪さんは耳元で大声を出した。
そりゃあもう、鼓膜が破壊されるんじゃないかってくらいの容赦のない一喝起床ボイスでございました。
思わず飛び起きて、その反動で車内の一部にまた額をぶつけて涙目になってしまったほど。
でも、仕方ないと思う。獅雪さんのあの運転は私には刺激が強すぎたんだもの。
車を降りて、すっかり暗くなった夜道を五分ほど歩くと、居酒屋さんや飲食店が立ち並ぶ通りの明かりが見えた。
「ほのか、あそこの店に入るぞ」
ある店舗の前で立ち止まった獅雪さんが、私の手を引いて和風の作りをしたお店の暖簾を潜ろうとした。
――『鍋屋・勝』。お店の上の看板には、大きく太い達筆でそう書かれている。
迫力のある店構えと看板だな~と一瞬見惚れていた私の手が、獅雪さんに強く引っ張られていく。
「いらっしゃいませ~! 柾臣君、待ってたわよ!」
「こんばんは。梓さん。今日はお世話になります」
髪を上の方でアップにし品良く纏めた女性が愛想たっぷりに出迎えてくれた。
このお店の名前でもある「勝」の文字が刺繍されたエプロンを、着込んだ和服の上に纏っている。
多分、年齢は獅雪さんより少し上くらい、かな。
明るくて勝気な姐さんのような雰囲気がする。
梓さん、そう呼ばれた女性が、私達を店の奥へと案内してくれた。
「恵太は後で挨拶に来るだろうから、先に料理の方運んでくるわね」
「すみません。よろしくお願いします」
畳みの並ぶ和室に通されると、梓さんが『恵太』という名前を口にして、早々に料理場の方に戻ってしまった。
恵太……さん? 獅雪さんがその名前に口元を和ませたのが見えた。
「獅雪さん、恵太さんって、どなたですか?
それに、さっきの梓さんって人とも顔見知りみたいでしたし……」
「ん? あぁ、恵太は俺の大学時代の友人だ。歳も一緒でな。
梓さんの方は、その恵太の三歳上の姐さん女房ってとこだな」
「ご結婚されてるんですか……。
じゃあ、ここはそのお友達の勤めているお店ってことですか?」
「そうだな。正しく言えば、恵太が親父さんから引き継いだ店。
確か……、三代目、だっけか」
「はわぁ……、すごいんですね。恵太さん……」
獅雪さんと同じ歳で、もう一国一城の主……。
お父さんから受け継いだということは、きっとたくさんのプレッシャーやお客さんの期待に立ち向かっているんだろうな。
獅雪さんと梓さんの話では、後でその恵太さんが挨拶に来てくれるというし、少し会うのが楽しみになってきた。
「ほのか、なにぽけーっとしてるんだ?
ほら、こっちに座って大人しく待ってろ」
「は、はいっ」
いつの間にか畳みのある御座敷に靴を脱いで上がっていた獅雪さんが、自分の座っている方とは反対側を目で示す。
大きな座り心地の良さそうな、ふっくらとした座布団に急いで私も靴を脱いで座った。
袋に入ったおしぼりを手にとって、ピリッと破いた。
黒いテーブルを挟んだ向こう側にいる獅雪さんも、おしぼりを手に当てて拭いている。
「そういえば、獅雪さん」
「なんだ?」
手をおしぼりで拭いながら、獅雪さんがそのままの姿勢で私の声に返事をした。
本当は車内で聞きたかったことだけど、生憎と獅雪さんの暴れ馬運転で気を失ってしまい聞けず仕舞いだったのだ。
獅雪さんとは、早一ヶ月ほどまでにお見合いで出会ったわけだけど……。
その期間の間で、彼が私の勤務先、――幼稚園まで出向いてくることは一度もなかった。
大抵が、私の家に夜乗り込んでくるか、休日を狙って朝から突撃してくるかのどちらか。
だから、今日のように事前に連絡を貰い、獅雪さんが幼稚園にまで姿を現すことはなかったから……。
どういう心境の変化なのかな、と少し気になってしまったのだ。
「獅雪さんが、私の勤務先にまで来るって珍しいですよね。
というか、初めて、ですよね?」
「別に。ちょっと気が向いただけだ。
俺も仕事が早めに終わったからな。飯のついでってとこだ」
「つまり、獅雪さんのご飯のついでに私を迎えに来たと……」
「文句があるか?」
「ない、ですけど……。
獅雪さんが突然誘うから、透先生の方断る事になっちゃいましたし、
悪いことしたなぁ~……と、ですね」
獅雪さんは、俺の誘いを受けるのは当然だろうという目線でこちらを一瞥したけれど、
多分、あの時……、透先生は私をどこかに誘ってくれようとしたんだと思う。
同じ幼稚園に勤める者同士、ある程度の親交は深めておいた方が今後のためには良い。
だから、最初はそちらを、と思っていたのだけれど……。
獅雪さんの有無を言わせぬ命令口調には逆らえなかった。
一回くらい逆らってみたいんだけど、私の今のレベルでは、獅雪さんに一矢報いることは難しそうだ。
「はぁ……」
本人が目の前にいるのに、自然とため息は防ぎようもなく漏れてしまう。
勿論、それをスルーしてくれる獅雪さんじゃないわけで……。
「俺といる時にため息とは良い度胸だな?
……あの子犬の方と飯に行きたかったわけか、お前は」
「そういうわけじゃないんですけど……。
透先生はまだ園に来て間もないですし、慣れない部分も多いと思うんです。
だから、色々相談があって私を誘って来たんじゃないかなって……」
「さぁ、どうだかな……。
相談するってなら、お前より教諭歴の長いのがいるだろ。
そっちに行かずにってのが、また面倒に思えるがな」
手を拭き終えた獅雪さんが、片腕をテーブルに着いて顎をその手に乗せた。
徐々に苛立ちを滲ませた表情を隠しもせず、私の方を睨んでくる。
私が何か悪いことをしたわけでもないのに、その怖い顔つきで見つめられると居た堪れなくなってしまう。
「透先生は、優しい人ですよ。明るくて、素直で、……誰かさんと大違いというか」
「ほのか、……目を逸らして言うな。この小動物娘が」
「う、ううっ……」
ちょっとだけ、小声で呟いた一言は獅雪さんにはバッチリ聞こえてしまったようで、
キッと鋭く威嚇するように強くなった視線が痛くてしょうがない。
ビクビクと震えて俺様獅子様の威圧を受ける私に、その時救いの手が差し伸べられた。
障子が開き、梓さんが鍋物を運んで和室に入ってきたのだ。
その後に、二人ほどスタッフさんがお皿や御箸の入ったお盆を手に続いてくる。
さすがに、梓さん達の前で悪態を吐くわけにもいかず、獅雪さんが人の良さそうな笑みをすぐさま浮かべた。
「すみません、梓さん。
……あぁ、はい、そこでいいです。後はこっちでやりますので」
さっき、このお店に入った時も思ったけど……。
獅雪さんは、梓さんという女性の前では猫を被ったように紳士的だ。
完璧すぎるほど、その言葉遣いも仕草も、彼女の前では大人しい。
年上ということも関係しているのだろうけれど、見ているこっちとしては胡乱な目を向けざるをえない。
私への態度と随分違いすぎませんか? その優しい笑みと言葉遣いを少しでもいいからぷりーずみー……。
鍋料理とその支度を終えた梓さんとスタッフさん達が障子を閉めて出ていく。
パタン……。一瞬の沈黙の後……。
「さすが恵太が仕入れてるだけあるな、美味そうだ」
「……すごい変わり身の早さ……」
「あ? なにがだ」
「私の前ではこんなに俺様仕様なのに、なんで梓さんの前では猫被ってるんですか?」
「お前相手に猫被る必要があるか?
それに、梓さんは恵太の奥さんだし、俺よりも年上だ。敬意は必要だろう」
「それは、そうですけど……」
「なんだ、俺が他の女に優しくするのは気に食わないのか?」
「いえ、そういうわけでもなく……」
一応優しくしてもらった記憶がないわけではない。
あの初めてのお出掛けの時と風邪の時は、確かに獅雪さんは優しかった。
そのどれもが、弱っていた私を気遣ってのものだっていうのもわかっている。
だけど、通常時の獅雪さんはどこまでも強引というか俺様というかなんというか……。
私が少しでも噛み付こうとすれば、その獰猛な前足でぐしゃっと動きを封じてくる肉食獣みたいに容赦がない。
それを不快に感じているわけでもないけれど、やっぱり、もうちょっと優しさ成分が欲しいと思うのはしょうがないと思う。
「獅雪さんって、私をなんでも言う事を聞くペットみたいに思ってませんか?」
「はぁ? アホかお前は。ペットにこんなに振り回されるかよ」
「振り回した記憶がありませんが……」
煮えて食べ頃になった鍋の中身を深皿に入れていた獅雪さんが、私をジトッと睨んだ。
そんな目で見られても、獅雪さんを振り回した記憶なんて私には一度もないわけで。
むしろ、お見合いの日から一ヶ月、獅雪さんに振り回されているのは私の方だ。
仮婚約までされている身としては、その行動の真意を知りたいし、そろそろハッキリさせてほしいとも思っている。
ハイスペック美形様が、なぜ一度のお見合いで私に構い続けているのか……。
個人的には、今為されている仮婚約だって、彼の気まぐれぐらいにしか思えない。
たとえるなら、『狩り』だ。逃げようとする子兎をじわじわと追い詰めて仕留めようとする獅子。
あれに似ている気がする。
だけど、獅雪さんはまるで自分が苦労でもしているかのように、うんざりとしたため息を吐き出した。
「お前、そろそろ気づいてもいいんじゃないか?
ってか、気付け。さっさと気付け。この鈍感小動物」
「はっ!? なんですか、それっ」
「蒼に覚悟しておいてね、とか言われたが……。
はぁ、なんでここまで鈍いんだよ。信じらんねぇ……」
「だから、なにがですか!」
「うるさい。この男の敵めっ。少しは俺の気持ちを考えろっ、この馬鹿」
「獅雪さんの気持ちなんてわかるわけないじゃないですか!
私は別の人間なんです、言われないとわかるわけないんです!!」
「察するとかないのか、お前は!!
天然も度を越せばただのアホだぞ!!」
お互いに、もう何を言いたいのかもわからなくなって怒りのままに言い合ってしまう。
獅雪さんが私に対して何を思ってるのかなんてわかるはずもない。
いつも自分の好き勝手に行動してるだけじゃないの!
お見合いだって断ったのに、勝手に続行して、勝手に婚約までして……!!
「人のこと、アホとか馬鹿とかっ、失礼すぎます!!
獅雪さんの馬鹿!!」
「お前が鈍いからだろうが!!」
さらにヒートアップして、今にもその場を立ち上がってしまいそうになった私の耳に、控えめな声が届いた。
いつの間に開いたのか、障子が横に開き、そこに一人の板前姿の男性が立っていた。
苦笑しながら入ってきたその人は、人好きのする笑顔で畳みの上に上がった。
「さっきから、いつ入ろうか思ってたんだけどな。まぁ、喧嘩するほどなんとやら、ってな」
「……恵太、お前、いるなら言えよ」
「入りやすい雰囲気にしといてくれると助かったんだが?」
恵太、と呼ばれた男性に笑みを向けられ、獅雪さんがうっと黙り込んでしまう。
私も、どれだけ自分が感情を荒げて獅雪さんと言い合っていたか、我に返ってシュンと背を丸めてしまった。
多分、障子の向こうの通路にまで聞こえてたよね……。
ルールとマナーは大切だってわかってたのに、ついやってしまった。
獅雪さんも同じようで、バツが悪そうにその場で座り直している。
「さて、収まったところで、改めて……。
お嬢ちゃん、初めまして。
俺は、この鍋屋・勝の三代目、勝原恵太。
今日はウチの店を利用してくれてありがとな」
獅雪さんと向き合っていた恵太さんが、私の方に視線を向けて、ニカッと豪快に笑った。
鍋屋・勝の主、勝原恵太とその妻、梓さん。
姐さん女房と仲睦まじく、毎日を充実して過ごしてます。