幼稚園にて
獅雪さんがようやく風邪から解放されたのは、それから三日ぐらい後のことだった。
一日目は、夕方まで獅雪さんの傍で簡単な看病をしていた私だったけど、迎えにきた蒼お兄ちゃんと共に帰る事になった。
帰り際、やっぱり残って傍にいたほうが……と心配する私に、獅雪さんは平気だからと微笑んだ。
本当はまだ身体もきついのに、我慢して玄関まで見送りに来てくれた。
玄関の扉が閉まる寸前、隙間から、獅雪さんの表情が苦しそうに歪んだのを、私は覚えている……。
「ほ~の~か~先生~!」
「え?」
ぼーっと獅雪さんのことを考えていた私の目の前に、兎のお面をつけた顔が現れた。
手には、造花の薔薇を持ち、ふりふりと振って見せてくる。
こんなことをするのは……。
「ふふっ、透先生、何やってるんですか?」
「だって、何度声をかけても返事してくれないんだもん!
ここはひとつ、度肝を抜く方法を! って思って」
兎のお面を頭の上に上げると、そこには爽やかな好青年の笑顔があった。
愛橋たっぷりにウインクされて、私はまた小さな笑いを漏らした。
咲坂透先生、私より一つ下の二十三歳。
産休をとっている年配の先生の代わりに、一ヶ月ほど前からこの幼稚園の先生をやっているのだ。
性格は素直で可愛く、誰からのウケも良い。子供からも好かれているので、園長先生にもよく褒められている。
ただ、たまーにちょっとドジなところがあるのがまたチャームポイントかもしれない。
「ごめんなさい。仕事中に考え事なんて駄目ですよね。
気をつけます」
「あぁっ、責めてるわけじゃないんだよ! ただ、反応して貰えないのが寂しくって……。
だから、はい! これ上げるから元気出して!!」
ズイッと私に差し出されたのは、綺麗な造花の薔薇。
香りはしないけれど、透先生の気遣いが嬉しくて、素直にその花を受け取った。
まるで弟みたいだな~と微笑ましく思いながら、私は透先生に笑いかける。
「ありがとうございます。透先生」
「あ、あぁっ、いやっ、そんなお礼を言われることでもないし!!
えっと、あのっ」
「透先生?」
どうしたんだろう?
急に頬を染めて、手を左右に振り回しながら必死になっている……。
もしかして、
「透先生も風邪ですか?」
「は?」
ピタリ。透先生が私の発言に動きを止め、目をぱちくりとさせた。
何か変なことを言っただろうか?
もしかしたら、獅雪さんの時ほどでもないにしろ、そんなに顔を赤くさせてしまうということは熱でもあるのかもしれない。
そう思って、手を伸ばし額の温度を測ってあげようとすると、さらに不思議な顔をされてしまった。
「ほのか先生、……何やってんの?」
「顔が赤いから、熱があるのかなって……」
「……えーと、あの、……これはこれで嬉しいんだけど、ごめん。熱とかじゃないんだよ」
「そうなんですか? でも、最近は性質の悪い風邪も流行ってますから、
早めの対処が大事だと思うんですが」
「いや、本当、大丈夫だから……。
はぁ……、無自覚って怖い……」
「え?」
「い、いや、なんでもないよ!!
と、そろそろ自分の組に戻らないとな~! じゃ、じゃあね~!!」
私の手から逃れるように、透先生は勢いよく立ち上がり桃組の教室を出ていってしまった。
本当に大丈夫かな? あんなに真っ赤になるなんて、やっぱり風邪なんじゃ……。
「せんせー、できたよ~」
「あかりちゃん、早いね。……うん、良く描けてるね~」
隣の組に帰っていった透先生を若干心配しつつ、自分の組の子供達に視線を戻すと、
園児の一人、あかりちゃんが自信満々に画用紙を持って前に出て来た。
真っ白だった画用紙いっぱいに、赤で大きく描かれた林檎の絵。
今日のお絵描きのテーマは皆の好きなもの、だ。
こうやって自分の好きなものを自信をもって、これ以上ないくらいに大きく主張できるというのは良い事だ。
大人になってくると、色々しがらみも多くなってくるし、子供達のように自由に表現できない事も多々ある。
私は、あかりちゃんの頭を撫でてあげた。「よく描けてるね。すごいすごい」と。
あかりちゃんは、嬉しそうに満面の笑顔を浮かべると、「もっと描く~!」と大声ではしゃいで行ってしまった。
本当に、子供は可愛いなぁ。
そこでふと、今はどこまでも自信満々、俺様主義な獅雪さんにもこんな頃があったのだろうかと思い浮かべてしまった。
きっと幼い頃はガキ大将かな~とか、小さいながらも女の子にモテモテだったんだろうな~とか。
色々想像してみると、クスっと自然に笑いが零れてしまった。
「せんせい、わらってる~。なにかうれしいこと、あったの~?」
「ふふ、なんでもないの。ちょっと、思い出し笑いしてただけなのよ」
「せんせ~、ぼくもおえかきできた~、みてみて~」
「はい、うん、よく描けてる! 良い子良い子!!」
「わぁ~い!!」
次々に自分の好きなものを画用紙に描き終わった子供達が私の元にやってくる。
皆、どれも自信をもって好きだと言えるものばかりが描かれている。
子供らしくのびのびと、その表現に果てはない。
一人ひとりの頭を撫でて褒めてあげながら、その時間はゆっくりと過ぎていった。