俺様獅子の看病④
お粥を食べ終わり、薬を服用した獅雪さんは、ようやくひとときの眠りへと堕ちてくれた。
薬が効くまで、まだ時間はかかるだろう。時折小さく咳き込んでいる。
早く薬が効きますようにと祈りながら、私は一旦、一階へと下りて洗面器のお湯を交換するのを終えると、
極力足音を立てないように獅雪さんの部屋へと戻った。
せっかく眠ってくれたんだもの。起こさないように、そーっと……。
健やかな寝息を立てる獅雪さんのベッドの傍に座ると、私はタオルを浸してぎゅっと絞った。
さっきは首まで終わったんだよね。じゃあ、次は、鎖骨のあたりを拭いていかないと……。
「獅雪さんが眠ってくれて本当に良かった……。
さすがに見られながらだと緊張して上手くできないもんね」
プチプチ……。
シャツのボタンを外して左右に開くと、そっとその肌にタオルを這わせた。
さすがに、男の人の逞しい肉付きをした肌を目にしながらというのは、
思わず瞼を閉じたくなるくらいに恥ずかしい気持ちになるものだ。
自然と緊張で手が小さく震えてしまうのを宥めながら、私はタオルを動かし続けた。
「(獅雪さん、起きないでくださいねっ。お願いですから!)」
「うっ……」
――ビクッ!!!!!!!
もしかして、起きた?
小さく漏れ聞こえたのは苦しそうな獅雪さんの声。
呼吸が徐々に乱れ、獅雪さんが魘されるように言葉を吐いた。
「ほ……のか……けほっ、ごほっ」
「獅雪さん、大丈夫ですかっ」
咳が酷くなっているような気がした。薬を呑んでいるのに……。
どうしよう。やっぱり蒼お兄ちゃんに連絡してまた病院に行った方がいいんだろうか?
一緒に持ってきた鞄からスマホを取り出そうとすると、獅雪さんが何かを探すようにその手を上げた。
「ほのか……どこだ……」
瞼が閉じていることを考えると、まだ意識的には覚醒していないのだろう。
手だけが宙を彷徨い、私の名を途切れ途切れに呼んでいる。
その手をしっかりと握ると、大きな手がぎゅっと包みこんできた。
「獅雪さん!大丈夫ですか!!」
「んっ……ほのか……」
「私ならここにいます!
獅雪さん、一回起きましょう。ね?」
「……っ」
頬をぺちぺちと叩くと、獅雪さんがうっすらと瞼を押し上げた。
熱で意識が定まらないのか、少しの間ぼーっと前だけを見つめていたけれど、
やがてはっきりと像を結んだ視線が、私へと向けられた。
「ほのか……?」
「はい、ちゃんとここにいますよ。
さっき眠ったばかりでしたけど、魘されてたから……。
悪いとは思いましたけど、起こしちゃいました」
「そうか……。悪かったな……。
ちょっと居心地の悪い夢を見たようでな……」
「病気だとそういうこともありますよ。
どうします?少し起きてますか?」
「あぁ、そうする。……あと、タオル寄こせ」
「え?」
ベッドの脇に一度置いたはずのタオルを目で示され、私はフルフルと首を振った。
動くのもきついと言っていた病人が急に何を言っているのか……。
さっとタオルを手元に奪う。
「駄目です!さっきも言いましたけど、獅雪さんは病人なんです。
大人しく看病されててください!」
「俺もさっきは任せるとは言ったが……、
今考えると、色々無理があるんだよ」
「何がですか?」
「お前、このまま全部拭く気だったのか?」
「……は?」
言われた言葉の意味がわからず、ぽかーんと間抜けな表情を浮かべてしまった。
全部って……、えーと……。
首まで終えて、それで次は胸のあたりを拭いていたわけで……。
そこが終わったら、えーと……。
最初は深く考えていなかったけど……、汗を掻いてるのって上半身だけじゃないんだった。
それを自覚した瞬間、やかんがピーッと沸騰したかのごとく顔に熱が登ってきた私はタオルを獅雪さんに差し出してしまった。
ちゃんと考えればわかる話だったのに、なんで気付かなかったのか。
たとえある程度身体の汗を拭う作業が終わっても、次に待ち構えているのは着替えだ。
自分より大きい身体の男性をどうやって着替えさせろというのか……。
あのバタバタしていた事態で、基本的なことを失念していたようだ。
「ごめんなさい……うう。
でも、まだきついでしょう?自分でやるのは無理があるんじゃ……」
「いや、思ったよりも薬が効いてるみたいでな。
さっきよりは動ける。すぐ済むから、一階のリビングで待っててくれるか?」
「でも……」
「大丈夫だ。三十分くらいしたら様子を見に来てくれればいい」
ベッドの上から安心させるように伸ばされた手が、私の頭を撫でる。
だけど、その手つきがどうにも弱々しくて……。
薬が効いているといっても、そんなにすぐに身体が軽くなるわけもなく……、
大人しく部屋を出た私の背後、扉の向こうでは獅雪さんのきつそうな咳込む音がこもって聞こえた。
やっぱり、私の事を気遣って無理をしているんだ……。
蒼お兄ちゃんがいれば、そんな無理はさせないで済んだのに……。
肝心な時に役に立てなかった自分に情けなさを感じながら、私は階段に足を向けた。
――コンコン。
「獅雪さん、そろそろいいですか?」
「あぁ、いいぞ」
獅雪さんに言われた通り、時間を見計らって扉をノックし許可を貰うと部屋へと足を踏み入れた。
黒のシンプルなパジャマを着込んだ獅雪さんが、上半身だけをクッションを立て掛けた部分に預けている。
そこに至るまでの動作が彼にどれほどの負担をかけたのか、考えるまでもない。
「すみません。看病するって言ったのに……獅雪さんに手間をかけてしまって」
「気にするなって言ってるだろ。俺は男で、お前は女だ。
着替えまでやらせるのは最初から無理があったんだ」
「……はぁ、私が蒼お兄ちゃんみたいに力があるか、男の人だったら良かったんですけど……」
「いや、それはやめてくれ。考えただけで色々辛くなるだろう……」
「はい?」
「わからなくていい。とりあえず、お前が女で良かったって話だ。
けほっ……とにかく、お前がどう思ってようと、俺はお前に感謝してる。蒼にもな」
やっぱり、まだ咳が治まってない……。
ここでもまた、獅雪さんに気を遣わせたのかと思うと、気分はますます落ち込んでいくばかりだ。
何か私に出来ることはないんだろうか。このまま見ているしか出来ないんだろうか。
しゅんと項垂れた私は、小さく吐息を零した。
「ほのか……、落ち込むな」
「すみません……。獅雪さん、私、前回は獅雪さんにいっぱいお世話になりました。
でも、その恩返しがまるで出来ていません。
何か……、私に出来ることはないんでしょうか?」
「はぁ……。お前は本当に義理堅いな。
じゃあ……その言葉に少し甘えさせてもらうとするか」
見上げた先には、今は林檎のように赤みの差している肌の色と、苦笑の表情。
すっと布団から左手を出してくると、それを私に向かって差し出した。
「手、握っててくれるか?
どうにもさっき面倒な夢を見てな……。
魔除けみたいなもんだ。お前に握っていてほしい」
「獅雪さん……。そんなことでいいんですか?」
「そんなことじゃないぞ?
俺が眠っている間、ずっとだ。
きついぞー?ずっと離せないし、トイレにも行けない」
「そ、それはさすがに……」
「ははっ、冗談だ。だけど、お前に傍にいてもらえたら、俺が助かる。
病人てのは、意外と心細いもんなんだよ。わかるだろ?」
身体が弱ると、心も弱る。
前回、そのせいで酷く辛い思いをした私にはよくわかる言葉だった。
でも、獅雪さんが心を弱らせている状態なんて、想像も出来ないというか……。
今も自分のため、というよりは、私を安心させるために言ってくれているんだと思う。
その優しい想いに、私はひとつ頷くと両手で獅雪さんの手を包んだ。
早く良くなりますように……。
この触れ合った温もりから、どうかこの想いが届きますように。
私は強く祈りを込めて、その手を握り締めたのだった。