名家
今日は奏子と小麦は補講に出ないといけないから、部活には遅れてくる。
その言葉を残して、葉加瀬さんもどこかへ行ってしまった。
「珍しいですね、部長と俺だけの部室ってのも」
祝が本から目を離さずに呟く。
「変な気を起こすなよ」
「誰がですか」
「……」
ノートパソコンをいじくる手を止めずに、部長は押し黙る。少し怒ったのかもしれない。
「まあ、私に手を出せば専属SPがすぐ駆けつけて、速やかに証拠を残さずこの世からお前を抹消するがな」
「そんなのいるんですか」
「嘘だ」
他愛も無い応酬。生産性皆無のやりとり。実に平和。
ふと部長が思い出したように言う。
「あー、だが漁にはいるかもな」
「またまた」
「ほんとだぞ」
「……」
今度は祝が押し黙る番だった。
「冗談きついですよ」
「本当だって言ってるだろ」
部長はちょっとムッとして、ノートパソコンにかざしていた手を引っ込める。
「漁って名字で気付くもんだと思ってたが」
気付くも何も、珍しい名字だなと思うぐらいで、それ以外は特に。
部長は呆れを二乗したような顔をして、溜息混じりに説明しだした。
「漁といえば、ここら一帯を共同管理してる名家のひとつだ」
「共同管理……?」
「そこからか」
部長が頭に手を当て、思考を巡らせる。どう説明しようか悩んでいるようだ。
「ええと、簡単に言うとだな」
部長はどこに隠していたのか、小さなホワイトボードを手に取って、大きな円を描く。そして円にひび割れのような模様を付け足す。円は部長の手によって、三つの領域に分けられた。
「この丸い円はこの大学を含む一地域だと思え」
部長が円の外に「ここらへん」と書き足す。大雑把すぎる気もするが、かえってその方がわかりやすいのかもしれない。
「で、この右下のトコが、漁家の管理区分」
ふむふむ、なるほど。
「この地域は大きく三つの家が管理してるってことですか」
「話が早くて助かるぞ。本当はもう二つほど領域があるが、面倒臭いので端折った」
「で、漁さんがその家の息女だと」
「そういうことになるな」
歌が上手くて、天真爛漫、純真無垢、豊満な体躯に長い髪のお姉さん。そんな漁さんの印象がガラリと変わった気がした。
部長はにやにやと楽しそうな顔を浮かべる。
「あいつは普段はあんなんだが、実は結構頭の切れるヤツだからな。芸術センスの高さがそのまま思考にも影響していると、私は考えてる」
「芸術センス、高いんですか? 漁さん」
漁さんの歌が上手いことは知っているが、アーティスティックな人だとは知らなかった。そう言われると、確かに漁さんは感性で生きているように思えなくも無い。
「あいつ、日本最高の芸術大学の必死の勧誘を蹴って、この大学に入ったんだぞ」
「……まじですか」
「おお、まじだ」
予想以上にすごかった。
漁さんは確かに、素直そうで裏の読めない人だ。
今までは裏が無いからだと思っていたが、実はそうではないのかもしれない。
「補講疲れたー!」
扉が猛烈な勢いで開かれて、漁さん、続いて栗花落さんが顔を出す。
「お疲れ様です」
「大変でしたー」
でも、自分の家のことをおくびにも出さない漁さんは、少なくとも悪い人では無いと再確認できたから、良しとしよう。
漁家:春秋大学を含む一地域を共同管理する三名家、五旧家のひとつ。
漁小麦の兄、漁嘉英が継いでいるが、小麦も時折手伝う。