23.婚約者(テオデリック)
23.婚約者
最後の車が出て行ってからどれくらい経っただろうか。
あまり車が通らない時間帯に、ちらほらとしか出入りのない駐車場の警備を7時間。
これといってやることもなく、暇をもてあましてしまうのは仕方のないことだろう。
思えば、城の警備をしている兵士たちも、ずっと立っているだけで今の俺と同じ気持ちのはずだ。
とは言え、奴らには一応休息時間があるが、今の俺は休む時間もほとんどない。
平日は朝から授業だのゼミだので学校に行かねばならないし、夕方から夜まではあのストレスの溜まる電話を受けるだけのアルバイト。そしてその後は今の駐車場警備だ。
その疲労感は、城の一兵士とは比べものにならないに違いない。
一応王時代も、公務だの戦だので不眠続きになることは幾度かあったが、都落ちしてからはそんなことも一切なく、久々の寝ずの仕事にさすがに身体が辛くなってきた。
「ニールセン君、今日はもういいよ。お疲れさま」
凝ってきた肩をほぐすように回していたら、同じ駐車場で仕事をしていたチーフが声をかけてきた。
時間を見れば、4時45分。いつもより若干早いが、その言葉に甘えさせてもらおう。
外に出れば、先ほどよりも随分空が明るくなっている。
同時に若干肌寒い気もするが、相変わらず空気はむしむししている。
この国特有の季節だそうだ。
「はぁー……2、3時間の仮眠だけで一週間って言うのはなかなかきついな」
力尽きて、俺は駐車場近くの公園のベンチに腰を下ろす。
もう帰れるというのに、なかなか身体が思うように動かない。困ったものだ。
俺はその場で先ほどもらった茶封筒の中を覗く。
「……8千400円か……」
7時間労働で8千400円。
この額では大衆向けの洋服を一、二着くらいしか買えないと、ハインが言っていた。
おおよそ城の兵士達の給金の何十分の一とからしいが。
「――どうしてあなたがこんな時間まで働いているんですか?」
突然声が聞こえてきた。
その方向を見れば、公園の入り口からソラが現れた。
普段なら人の気配くらいすぐに察知するのだが、今はまったく気がつかなかった。それほど疲れていたということだろうか。
ソラがこちらに近寄ってきた。
よく見れば、どことなく機嫌が悪そうだ。
「梅乃から聞きました。でも、こんなこと、あなたがする必要ない」
ソラはそう言うと、俺の方に茶封筒を差し出してきた。
それは今朝――もはや昨日の朝か――に俺がソラに渡したものだ。
「こんなことのために、私生活を犠牲にする必要なんか全くない」
俺に受け取れと催促するようかのように、もう一度俺の方に突き出してくる。
「そういうお前こそ、どうしてこんな時間にこんなところを歩いているんだ。まだ、やっているのか? あの、エンコウってやつ」
俺は茶封筒からソラの方へ視線を戻して言ってやる。
何としても俺に茶封筒を受け取らせようという強い目をしていたが、「エンコウ」って言葉を言った瞬間、その黒い瞳が揺れた。
「だ、だってこれはうちの問題だもの。あなたには関係ないんです!」
とは言え、ソラは頑なに茶封筒を返そうとしていた。
その言葉が、俺と距離を取ろうとしているかのような、拒絶のようにも思えた。
俺はそのままベンチに背中を倒しながら、一つ息を吐いた。
「……ソラ、俺、今まで生活に苦労したことがなかった」
「え……?」
「金に困ることなど、一切無かったんだ」
唐突に何を話し出すのか、きっとソラは不思議そうな目をしているだろう。
俺自身、どうしていきなりこんな話を始めたのか分からないくらいだ。
「当然俺にも視察や外交などの仕事があった。だが、衣食住は十分すぎるほどに充実していた。俺が望めば、いくらでも物が手に入った。だから、知らなかった。服を一、二着買うだけの金を稼ぐのが、こんなにも大変なことだったのだと」
王だった頃も王位剥奪後も、それなりに生活は守られていた。
住処だった王都の城も田舎の屋敷も平民のそれよりはるかに豪華なものだったし、衣服も数えられないくらいあった。飯などは言うまでもない。
ただでさえそんな生活であったというのに、かつて俺はエリサへいくつか贈り物をしていた。おそらくあの金も国庫から出ていたのだろう。
そう、俺の生活は民が稼いだ金で守られていたのだ。
それを稼ぐのが、こんなにも大変なことなど、俺は知るよしもなかったのだ。
「そんな俺が初めて稼いだ金だ。ソラ、お前に使って欲しい。それがお前の抱えているものの比にならないとしても、お前に使って欲しいんだ」
俺はソラの方に顔を向け、差し出してきた茶封筒を押し戻した。
ソラは眉根を寄せて、まっすぐにこちらを見ていた。
戸惑いの瞳だ。
「どうして……」
「ソラ、俺は健気なお前を愛おしく想っている。そんなお前を支えたいと、強く思っているんだ」
俺はそのままソラの手を取り引き寄せる。
よくよく見れば、今にも泣き出しそうな顔だ。
「わ……私にそんな資格は――」
「――その手を放してくれないか」
突然聞こえてきた声に急いで上体を起こせば、公園の入り口の方からひとりの男が歩いてきた。
見た感じかなり上質のスーツに身を包んだ、それなりに顔が整っている若い男だ。
いや、この男、どこかで見たことがある気がする。
「空、どこに行ったかと思えばこんなところにいたんだね。探したよ」
「司兄……」
ソラはそれとなく俺の手を外すと、少し顎を引きながらその男に向き合う。
男は口元に笑みを湛えながらソラの方に近づいてくるが、ソラの身体は何故か全体的に引き気味だ。顔色もあまりよくない。
「ソラ、その男は一体……?」
ソラにだけ聞こえる音量で尋ねれば、ソラははっとしてこちらを向くが、戸惑った表情のまま、何も答えなかった。というより、何と答えればいいのか、という表情だ。
「それはこちらの台詞だと思うんだけどね」
男はそのままの表情で俺の方に向き言ってくる。
口元は笑っているものの、よく見れば目はまったく笑っていないし、柔らかそうな口調ではあるが、その中に険が混ざっているのが感じられる。
そうは言うものの、相手の言うことも最もだったので、俺はベンチから立ち上がって男に右手を差し出し挨拶をする。
「それはすまない。俺はスワ……デンマークから留学してきたソラの大学の4年生だ」
しかし、男は俺の手を見ると握手するでもなく、ただ鼻で笑うだけだった。
「なるほど。最近空につきまとい、空に得体の知れない金を渡す輩というのは君のことだったのか」
男はソラの手にある茶封筒をちらと見て言う。
ソラは気まずそうにそれを自分の後ろに隠そうとするが。
「ふん……まさかそれが、こんな美丈夫な留学生だとは思ってもみなかったけれど」
そして再び俺の方に視線を戻す。
やはり言葉の端々に棘が感じられる。
「でも、折角用意してもらったけれど、悪いね。こんな金、何にもならない。こいつに渡すくらいなら、自分に使った方がだいぶ利口だというものだよ」
男はソラの手から無理矢理茶封筒を奪い取ると、それを俺の手に押しつけてきた。
ソラは男を制止しようとするがそれは声にならないままに空気をかすった。
「君が6、7時間働いて得る金はせいぜい一万円程度。しかし、空が2時間働いて得るものは一千万円レベル。そもそもケタが違うんだ。君もわざわざ留学してきている身なら、こんな下らないことせずに、自分のことを考えた方がいいんじゃないのか?」
男は嘲笑混じりにそう言い、これ見よがしにソラを引き寄せ肩を抱く。
その瞬間、ソラの身体が少し固まるのが分かった。顔もどことなく硬い。というか、脅えているような表情だ。
言っていることももっともだが、良いように言っているようにしか聞こえない。
この男はソラがエンコウをしていることを知っているようだし、それに賛成している節もある。
そもそもこの男は一体ソラの何なんだ。
「あぁそう。こちらの自己紹介が遅れたね。僕は羽山司。空の――」
「――私の従兄なんですっ」
男が顎をしゃくりながら名を名乗るが、途中でソラが急いでかぶせて言ってくる。
「従兄……?」
ソラの従兄と言えば、確かソラの兄と一緒に会社を立ち上げたとか何とかで、ソラの兄が倒れた今、その会社を切り盛りしているのだと先日言っていなかったか。
それどころか、ソラが今、世話になっているところだとか。
目の前の、この男が?
男はソラの乱入に少し目を見開いていたが、それを細めると再び嘲笑を浮かべて言った。
「そして、空の婚約者だ」
「司兄!」
「こ……んやくしゃ……?」
婚約者……だと?
待て、俺の頭が追いつかない。
目の前の男、ハヤマツカサはソラの従兄と先ほど名乗ったはず。
その上、婚約者だというのか?
というか、婚約者がいたのか……?
俺は信じられない気持ちのまま、ソラの方を見る。
ソラは俺と目を合わせたが、それはほんの一瞬で、すぐにそらされた。
眉根を寄せて、苦しげな表情で。
無言のそれが、まるで肯定を表しているかのようだった。
「そう、空は恥ずかしがり屋だからあんまりそういうの言わなかったかもしれないけど、空が大学を卒業したら結婚する予定なんだ。だからもう、彼女につきまとわないでくれるかな?」
ツカサは笑みを浮かべたままソラの頬に口づける。
あたかも自分の物だと主張しているようだ。
それすらも俺は回らない頭のまま眺めていた。
「それじゃあ僕たちはもう行くよ。ほら空、行くよ」
ツカサは公園の入り口の方へ踵を返す。
ツカサに肩を抱かれたままの空もそれに引きずられるようにその場を離れるが、こちらをちらちらと伺っていた。
何かを言いたげな顔、だが、一体この状況で何を言おうというのか。
――いや、それよりも。
「ま……待て。従兄だろうが婚約者だろうが、お前はソラにエンコウを強いているのか?」
去り際の背中に言葉をぶつける。
するとツカサは立ち止まって俺の方に再び顔を向ける。
とてもいい笑みを浮かべて。
「こいつは俺のもの。だから俺のために働いてもらうまでだ」
それだけ言い残すと、二人は公園から消えていった。
俺はそれを何とも言えない気持ちのまま見送った。
おかしいことはよく考えればいくつかある。
だかそれよりも、ソラに婚約者がいたことが、ひどく俺を打ちのめしていた。




