14.違和感(クリスティアン)
クリス視点です
14.違和感
4月26日金曜日の夜。
その日はいつもよりは遅い方の21時過ぎにお兄さんの桐夜さんが楠葉ちゃんを迎えに来た。
会社の上司に付き合わされて飲んできたらしく、いつもは車で迎えに来る桐夜さんは電車を使って徒歩で迎えに来た。
以前梅乃さんが酔って帰ってきたときと同じように、桐夜さんの頬はほんのりと赤くなっていたが、しっかりとした足取りで楠葉ちゃんが座るテーブルまで来て、彼女と一緒に僕に頭を下げて帰って行った。
梅乃さんと同じで、妹想いの優しいお兄さんだということは、あの日曜日の朝から見ていれば、よく分かる。
だから、僕は言おうかどうか、迷ったんだ。
楠葉ちゃんの教科書のことを――――。
さっきストロベリーパフェを運んだときに見えてしまったそれは、どういう意味か僕にはよく分からなかったが、楠葉ちゃんのあの反応を見ても、とにかく良いものではないように思えた。それまで元気がなかったところを思い返しても、あまりよくないものではないかと感じた。
だけど、桐夜さんが極力見せないようにしている仕事の疲れを垣間見てしまうと、仕事帰りのときに良くない話は出来ないと思ってしまった。少なくともそういう話は落ち着いたときにするべきではないかと。
第一、僕は「キモイ」の意味がよく分からない。
憶測で物を言うべきではないと、改めて思ったのだ。
しかし、後から色々考えれば、楠葉ちゃんの様子には色々と違和感を感じるところがあった。
僕が喋りかけるとびくっと肩を揺らすところが結構あるけれど、おどけたサンチョに通い詰めたり、日曜日だって朝食の後片付けを手伝ってくれたり、あのぬいぐるみを付けてくれているところを見ると、別に彼女が僕に対して脅えている、というわけではなさそうだ。
だけど、今日のびくっとした反応は、どこか彼女の触れてはいけないものに触れてしまったのではないかという気にさせる。
そうだ、ぬいぐるみの話のときもだ。
昨日まで喜んで二つ下げていたのが今日はなくなっていた。
質問すれば「汚したから」と。
あのときは自分の悪癖が先行してしまってじっくり考えられずにいたが、あの彼女の反応にはいつもよりもおどおどしたものが混じってはいなかっただろうか。
これは果たして考えすぎだろうか。
その日、僕は家に帰ると、リビングで梅乃さんの帰りを待った。
今日も大学オーケストラの新入生歓迎会だそうだ。
梅乃さんは2週間前にハンスを殴ってしまったことで、当分はお酒を禁じられているみたいで、あの日以降当然酔っぱらって帰ってくることはなくなった。
それどころか。
「――ああ! もう本当にあんたむかつく!」
と言って帰ってくることが多くなった。
今日もそう言って今帰ってきた。
「ふん、梅ちゃんは自分が言ったことも守れないんだね。使えないしもべで参っちゃうな」
「ハイハイ、早くお部屋に戻られたらいかがですか、ご主人サマ?」
そして二人がこのように言い合いながら帰ってくることも通例になってきている。
梅乃さんはハンスを嫌っているようだけど、僕からすると二人とも結構仲が良く見える。
いつもは大きな足音を立てて玄関からリビングに向かってくるのだが、何故か今日に限ってなかなかリビングに来なかった。というか、途中で足音が止んだ気がする。
その様子を興味本位からだろう、アサドさんがリビングの扉を薄く開けて伺った。
僕も梅乃さんがなかなか入ってこないのが気になって、一緒になって見てしまった。
梅乃さんは玄関横の壁に背を付け、その顎をハンスに取られていた。
見てはいけないとは思いつつも、僕はごくりと唾を飲む。
薄い笑みを浮かべたハンスが、梅乃さんに顔を近づけて言う。
「へぇ? 俺のことを嫌っておきながら、俺の部屋に入りたいんだ?」
「どうしてそうなるの?」
「だって部屋に戻るよう促すじゃないか」
こ、これは危険だ。
彼はあんな風にして女性を誘い込むのか、と少し勉強になる。
しかし、それに返した梅乃さんの言葉は良くないものだった。
いや、おそらく良くない言葉を選んだのだろう。
「それがそう聞こえるのならあんたは病院に行った方が良いわよ、あんたの大嫌いな精神科にね!」
その言葉にハンスは一気に笑みを引っ込め、彼女の顎を横へと放った。
その反動で梅乃さんは少しよろけるが、ハンスがそれを気にする様子もない。
「ふん、興醒めだ。俺は戻る」
と、ハンスは2階に上がっていく。
残された梅乃さんは、踏みとどまった状態で階段を上っていくハンスを睨んでいた。
ハンスが見えなくなると、だんだんと大きな音をさせてリビングに向かってきた。
「あぁっもう本当に腹が立つ!」
と、勢いよくリビングの扉を開けて入ってきた。
ちなみに彼女たちの様子をのぞき見していた僕とアサドさんは、既にソファで待機していた。
「おかえりー梅乃ちゃん」
「梅乃さん、お帰りなさい」
「ただいま! クリス、お茶ちょーだい!」
と、どかっと一人掛けソファに座った。
僕は言われたとおりにキッチンにお茶を淹れに行く。
気を落ち着かせるためにも、ハーブティがいいかな。
戻ると、梅乃さんはひたすら今日の新歓でのハンスの様子について愚痴をこぼしていた。
内容は一昨日の水曜日と同じような気もするけれど、とにかくハンスが彼女に対して同じ手口で嫌がらせをしているのは分かった。
ハンスもハンスで素直じゃないと僕は思うけれど。
「はぁーっだいぶ愚痴ったから気が済んだ! それで? クリスは私に用があったんでしょ? 何?」
と、帰ってきたときに比べるとだいぶ清々しい表情になった梅乃さんが僕に尋ねてきた。
そう、僕は彼女に「キモイ」の意味と今日おどけたサンチョで楠葉ちゃんに感じた違和感について梅乃さんに聞こうと思っていた。
しかし、ハンスに対するいらいらを洗い流したところに、少なくとも良くはない話を梅乃さんにするには気が引けてしまい、桐夜さん同様後日相談することに決めた。
ただ一つだけ、「キモイ」の意味だけこのときに聞いた。
「『キモイ』? 『キモイ』とはあんなヤツのことを言うのよ!」
と、実はまだいらいらが残っていた梅乃さんは、2階のハンスの部屋の方角を指差して言った。
それはえーと、つまり。
「キモイ」っていうのは、「いらいらして腹が立つけど、お互いに仲が良いのを自覚していない」状態のこと?
それを楠葉ちゃんの教科書に置き換えてみたけれど、あの反応と今の梅乃さんの反応に大きく違いがあるような気がして、違和感は違和感のままはっきりしなかった。
しかし、その違和感は3日後、4月29日月曜日に再び感じることとなった。
その日はこの世界の日本は祝日で、バイトもなかったので、電車に乗って少し先にある駅まで僕は出かけた。
研究で使う本を何冊か買いたかったのだが、近くに専門書が多く置かれている大きな本屋さんは少なく、その駅の周辺には大きな本屋さんがあるため、僕はそこに向かった。
せっかくの祝日だというのに、この日は朝から雨が降っていた。
目的の本屋さんは最寄りの駅から外の時計塔を通って信号を渡って少し歩いた先にある。
当然そこまではアーケードなどもないため、外を歩かなくてはいけない。
駅構内は人でごった返ししていたし、色んな人に呼び止められるため、急いで本屋さんに向かおうと思った。
駅の屋根から出ると、雨のせいか人の数はまばらで、いつもなら時計塔で待っている人たちも、今日は少なかった。
だからだろう、時計塔の下で若草色の傘を差して立っている一人の少女に気がついたのは。
「――楠葉ちゃん」
近くまで寄って呼びかけると、俯き加減だった彼女は傘ごと僕を見上げてきた。
彼女の目が見開かれる。
「クリスさん…こんなところでどうして……」
そう尋ねてきた彼女の大きな目は、金曜の夜の教科書のときと同じ色を示していた。
まるで、今日は僕に会うつもりじゃなかったかのような――――。
「ちょっとそこの本屋に買いたいものがあってね。……そういう楠葉ちゃんはここで誰か待っているの?」
その質問を出すかどうかは少し躊躇した。
なんとなく、彼女が言いたくないことなんだと思っていたから。
予想通り、楠葉ちゃんは気まずげな表情を浮かべた。
「はい、友達と遊ぶ約束をしてたんですけど……来なくて……」
「どれくらい待ってるの?」
楠葉ちゃんは視線をさまよわせながら、あまり大きくはない声で答えた。
「いち……いや、三十分くらい……」
と考え込むような素振りをしながら言った。
その様子にも僕は違和感を覚える。
今、彼女は誤魔化したからだ。
本当は一時間近く待ってると言おうとしたんじゃないかな。
何故それを三十分と誤魔化すのだろう。
そんな違和感に内心で疑問を感じていたら、楠葉ちゃんは力なく笑って僕を見上げてきた。
「あ、でも、さっきケータイにもうすぐ着くってメールがあったので、きっとすぐに来ます!」
と、言ってきた。
僕はまたもや違和感。
楠葉ちゃんはこんな笑い方をする子だったかと、そんなに大して知っているわけでもないのに思ってしまった。
「そっか。早く来るといいね」
しかし、彼女があまり触れて欲しくないという雰囲気を放っているので、僕もあまり深く追究しないようにして、僕は本屋さんに向かった。
そして1時間後。
思いの外ゆっくりと本を選んでしまっていた僕は、ふと本屋の窓から駅の方を見た。
先ほどから雨脚が強くなってきている。
そろそろ僕も帰った方が良いかと、選び抜いた本をレジで精算して本屋さんを出た。
駅へと戻る途中、信号で止まったときに、時計塔が視界に入る。
少し気になって、その場で首を動かして時計塔を観察した。
案の定、さっき見た若草色の傘がまだそこにいた。
信号が青になると、僕はまっすぐにそこへ向かう。
さっきよりも猫背気味に小さく俯いて、楠葉ちゃんは立っていた。
強くなった雨に、外で待つ人も外を歩く人も少なくなり、時計塔の下でずっと立ち続ける楠葉ちゃんは、一人目立っていた。
僕は再び、彼女の前に出て呼びかける。
「楠葉ちゃん」
すると、傘ごとびくっと肩を揺らした。その反動で傘から雫が落ちる。
彼女はおそるおそるといった様子で、僕を見上げてきた。
その顔は、さっき見た驚愕の眼差しではなく、今にも泣きそうな悲しそうな顔だった。
この顔を僕は見たことがある。
それは先週の土曜日、彼女がおどけたサンチョの前で雨に打たれながら立っていたときだ。
何かを僕に訴えかけてくるような、切実な何か――――。
僕は空いている手で彼女の髪を撫でた。
涙に濡れた瞳は、僕を見続けていた。
そして頼りなげな声で言ってきた。
「……今、連絡が来たんですけど……友達……突然急用が出来たみたいで……」
「うん」
「……だ……だから、予定がなくなっちゃって……どうしようかと考えて……」
「うん」
言いながら悲しみが襲ってきたのか、涙が溢れ出ていた。
眉と目尻を下げた悲しそうだった顔は涙のせいか、だんだん眉間にしわを寄せて顔を歪ませる。
鼻水も出てきたのか、鼻を啜りながら、目に手を当てて泣いていた。
僕は彼女を自分の胸に抱き寄せる。
こうすると女の人が落ち着くのを知っていたから。
楠葉ちゃんはそれにビクッと肩を揺らしたけど、僕が背中をぽんぽんと叩いていたら、色んな悲しみが溢れてきたのか、その腕の中でずっと泣き続けていた。
無理もない、こんな雨の日に少なくとも2時間近くも外で待ち続けていたのだ。
連絡もなく、不安を感じながらも待ち続けていたこんな優しい子に、その友達がどうしてこんな事をするのか、僕の違和感はいっそう濃くなるばかりだった。
その友達に悪気はないにしても、少しそれは無責任ではないだろうか。
20分ほどそうしていただろうか、だんだん落ち着いてきた楠葉ちゃんは、まだ赤い鼻先をこすりつつ、僕に謝った。
「すみません、クリスさんの洋服、汚しちゃいました」
と、申し訳なさそうな表情をする。
自分が悲しい思いをしていたのに、そんな些細なことを気にするのは優しい証拠だ。
こういう子を見ると、僕はついつい甘やかしたくなってしまう。
「気にしないで。こんなの洗えば平気だから。それよりこの後予定がないなら、僕と遊ばない?」
目に溜まっていた涙を指で拭いつつ、僕は彼女に提案してみた。
すると楠葉ちゃんは少し赤くなった目をきょとんとさせた。
「遊ぶって……でもどこに?」
その質問に、提案した僕は少ししまったと思った。
提案しておいて実は僕、未だにこっちの世界での遊び方をよく知らない。
何て愚かなんだ、と思ったがそこで一つ考えが浮かんだ。
僕は楠葉ちゃんを安心させるように笑って言った。
「楠葉ちゃんが行きたいところでかまわないよ」
すると、涙で下がっていた目尻が、徐々に上がるのが伺えた。
同時に涙で濡れた彼女の瞳は、きらきらと輝きを灯し始めた。
少し頬を赤く染めて控えめに僕を見上げて確認してくる。
「本当にどこでもいいんですか?」
「うん」
僕の肯定の声を聞くと、少し視線をさまよわせながら小さな声で言った。
「……じゃあ、映画が見たいです」
それを聞くと、僕は楠葉ちゃんの手を引いて駅の中へと向かい、隣駅の映画館に向かった。
観た映画は『ドナウのほとりで』。
18世紀のオーストリア帝国を舞台にしたしがない音楽家と貴族の令嬢の悲恋の話。違う世界に住む二人は運命的な出会いをし、最後には二人でドナウ川に身を投げてしまう。
観た後、楠葉ちゃんはボロボロと涙を流していたけれど、さっきの悲しみの涙ではなく、映画を楽しんだ証だったので、安心した。
その後もカフェでお茶をして、彼女の家まで送り届けた。
お兄さんと一緒に住むマンションに上がっていく楠葉ちゃんは、すっかり元気を取り戻していた。
だけど同時に、その後ろ姿は儚くも見えた。
僕の脳裏に焼き付いた、あの三文字の言葉と楠葉ちゃんの泣きそうな顔。
違和感の正体はまだつかめないままだけど、きっと良くないことが起こっているに違いない。
なんか前半と後半で、クリスのかっこよさが全然違う……(笑)
前半はただののぞき見。
もちろん遊びに行くお金はすべてクリスのおごり




