24.存在しない
ハンスの話です
24.存在しない
「ふふふ。顔真っ赤にしちゃって、可愛いね」
夏海が去っていった方向を眺めながら、ハンスさんがくすくす笑う。
「…………なんだか余裕ですね」
「そう見える? まぁ俺も、自分が女の子からどう見られてるかくらい分かるからね」
「うわぁ余裕発言」
とぼとぼと家に向かって歩き出す。
確かにこんなに美青年でいると、女の子の視線には嫌でも気がついてしまうのだろう。さすがに自分が女の子たちにとってどんな存在かは自覚はあるらしい。
「そういう梅ちゃんも俺を見て動じないよね」
などと、考えていたら、横から髪を掬い上げられる。
見上げればプラチナブロンドの下で眼を柔らかく細めたハンスさん。
その後ろには、高すぎて学校の校壁からこぼれた満開の桜が映る。
本当に、おとぎの国から来た王子様たち(プラス魔神ども)は何故こんなに無駄にフェロモンまき散らしているのでしょうかね?
にっこり笑ったら周りにキラキラが映るような、柔らかく微笑んだら後ろに薔薇を背負っているような。性格の善し悪しは置いといて、こんな人に笑いかけられたら、下心も丸出しにしてしまうだろう。私も例外ではない。きっと夏海も。
だけど、彼を見たときは一瞬そうは思ったが、この人の中にどこか得体の知れない部分を感じた。
柔らかく細められた切れ長の若草色だけれども、それはまったく笑っていなかった。
「――――で、あなたは『人魚姫』の人?」
ハンスさんはあからさまに残念といったように息を吐くと、私の質問に答えてくれる。
「こっちではそう言われてるのかな? ちゃんと自己紹介すると、俺はハンス・ルドヴィ・ド・オルセン。おとぎの国ではアンデルセン地方マーメイド領に住んでる」
やっぱり。海洋系の研究とか船の話とかしていたから、なんとなくそうではないかと思っていた。名前も、「白雪姫」の王子だったらドイツ名なんだろうけど、どことなくフランス名というか………あ、アンデルセンだからデンマーク名か。
彼は続けて話す。
「"マーメイド領"なんて言うけど、実際に人魚がいるわけじゃなくて、ただの逸話らしいけどね」
「………え?」
逸話? 「人魚姫」の話は、おとぎの国では本当にあったことじゃないの?
ハンスさんは少し口元を歪めて話す。どこか人を見下したような話し方だった。
「梅ちゃんは人魚が本当にいるなんて思う?」
「え…………それは……」
人魚なんてものは、おとぎ話の話だ。だからこっちの世界では普通ありえないけど、おとぎの国にはいるのだろうと思う。
だけどそんなことは口に出来なかった。
なぜなら目の前にいるこの人が、おとぎの国から来た人だから。
「俺の周りではそんなこと言う人もいるけれど、俺はそうは思わない。いくらおとぎの国がここと様相が違うって言ったって、そんなもの、俺は迷信だと思う」
その言葉を聞いて、私は今朝の会話を思い出す。
「人魚姫」の王子は、人魚姫のことなんか知らないってことを――――。
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<人魚姫>
深い深い海の底に、人魚の王様と6人の姫がいました。その中でも一番末の人魚姫は特に綺麗で、その上美しい声を持っていました。
人魚姫は15歳になると、それまで見たくて見たくてうずうずしていた海の上の人間の世界を見に行きました。すると最初に見えたのは大きな船でした。
その船の上では賑やかな音楽を鳴らしながら煌びやかな人たちがパーティをしていました。その中でも一際美しい青年がおり、彼こそパーティの主役の王子様で、このパーティは彼の誕生日パーティだったのです。
人魚姫は彼を見て一目で好きになりました。
しかし、突然嵐がやってきて、海は大荒れ。波も高くなり、船は見る間に横倒しになってしまいます。乗っていた人たちは皆海に放り出されてしまいます。
人魚姫はすかさず王子様を助けに行きます。大急ぎで彼の姿を探し出すと、ぐったりしている王子様の体を抱いて浜辺へと運びました。
人魚姫は彼を一生懸命看病しましたが、気がつくともう朝になっていました。するとそこへ一人の娘が走ってきます。姿を見られてはいけない人魚姫は急いで海に身を隠しました。
娘が王子様に気づき、慌てて人を呼ぶと、ちょうどそのとき王子様が息を吹き返して目を覚ましました。そして目に映った娘こそが、自分の命の恩人だと思ってしまいました。
人魚姫は自分が王子様を救ったことをどうしても伝えたくて、海の魔女のところへ行って人間にしてほしいと頼みました。
魔女は人魚姫の美しい声と引き替えに彼女の願いを聞きました。それから一つ忠告をしました。もし彼女が王子様と結婚できなかったら、彼女は海の泡となってしまうのです。
そうして、人魚姫は声の聞けない人間となり、王子様の城を訪ねました。
王子様は人魚姫を一目見て気に入り、妹のように可愛がりました。
しかし、彼の心は命の恩人と思いこんでいる娘に奪われたままで、やがて王子様と娘は結婚式を挙げることになりました。
二人は船に乗り新婚旅行に向かいますが、人魚姫は次の日の朝には海の泡になってしまいます。彼女は船の上でうなだれるばかりでした。
その夜、波の上に人魚姫の姉たちが姿を見せ、人魚姫にナイフを渡します。そのナイフは姉たちの髪と引き替えに魔女が作ったもので、それで王子の心臓を差し、その血を足に塗れば再び人魚に戻れるというものでした。
人魚姫は王子様の寝室に忍び込み、ナイフを突き立てようとしました。
しかし、それをするには彼女は彼を愛しすぎてしまっていました。
人魚姫はナイフと共に海に身を投げました。そしてだんだんと海の泡になった人魚姫は空気の精となって天国へと上っていきました。
(アンデルセン童話より)
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「じゃあ、どうしてハンスさんはこっちの世界に来たと思うんですか?」
そもそも人魚姫を知らず、「人魚姫」の物語も知らないままなら、きっとこの人は命の恩人だと勘違いした方の娘と結婚生活を満喫しているはずだ。
ここに来る理由はない。
ハンスさんは3本指を立てた。
「理由は3つある」
「3つ?」
「そう、まず一つは妻の精神病」
精神病? 精神病だとしたら、心優しい王子様はこんなところにいるべきじゃないのではないか。
「夜な夜なね、起きて俺に言うんだ。"夢の中で人魚が溺れさせようとしてくる"と。人魚なんて現実には存在しないのだからそんなこと気にするなと言っていたんだけど、毎日のように言ってくるんだ」
夢の中で人魚が溺れさせようとしてくる?でも、人魚姫のヒロインは天国に上っていったんだよね? ということは、他の人魚が悪さしているってこと?
「いくら言っても聞かなくって、そうするうちに彼女は昼間もおかしなことを言い出してね。医者に診てもらったんだ。そうしたら何らかの精神病だろうと診断された。」
それは、本当に精神病だったの?
夢の中でっていうのは、おとぎの国なら普通にありそうなもんだし、「人魚姫」のエピソードならなおさらありそうだ。
「そしてどこかで静養した方が良いと思い、海から離れた離宮に彼女を住まわせた。だけど状況は更に悪化。人魚だけじゃなく、海や川の生物たちが自分に襲いかかるなどと言っては使用人たちを困らせた。とうとう頭がおかしくなってしまって、俺は耐えられなくなってしまった。その二つめが離婚」
「三つ目は……?」
奥さんに悪さをした他の人魚というのは、もしかしてヒロインの姉たちと言うことだろうか。ヒロイン自体は王子様を愛しすぎてしまっていたから彼を殺すことなど出来なかったけれど、王子様や他の者たちは人魚姫の末路を知らない。そしてのうのうと幸せを満喫しているから、姉たちや他の海の動物たちの怒りを買ってしまったのではないだろうか。
「妻と離婚すると、俺の周りのでも同じようなことが起きた。側近から下働きの者まで、妻と同じようなことを言うんだ。みんなして俺をからかっているんだと思っていたけれど、最近俺も寝付きが悪くなってね」
「……それを人魚の仕業と思わないんですか?」
そこまで露骨に人魚の呪いのようなものが周りで起きているのなら、人魚の存在自体を信じざるを得なくなるのではないだろうか。
だが彼はあっけらかんと答える。
「まさか。仮に人魚がいたとして、こんな呪いのようなことが出来るわけがないだろう。きっとこれは魔女が悪さしているに違いないんだ。おとぎの国には魔女が沢山いるからね」
どこまでも人魚の存在を否定する。
確かに実際に見たことがなくて、みんなの夢の中にだけ現れるのなら、それは人魚ではなくて別の魔女の仕業だと考えるのも分からなくはない。だけど、それがどうして人魚に関わる怖い夢なのかを、この人は考えたことでもあるのだろうか?
いや、この口ぶりからするとないんだろうな。
「それで寝付きが悪くなって数ヶ月したところにこっちの世界へのお誘いが来てね。いい機会だからそれに乗ったってわけさ」
「それで、こっちに来てからハンスさんの寝心地はどうなったんですか?」
「アサドくんのお陰かな? 彼から良い薬をもらってるから、そのお陰でぐっすり眠れるようになった」
アサドの薬というと、魔神が作るものだから万能薬というイメージがあるけれど、つまり人魚の呪いが効かなくなるためのものなのだろうか?
「…………それ、ハンスさんはお薬あるし、こっちに来たから良いのかもしれませんけど、お城に残してきた人たちは大丈夫なんですか?」
もしかするとその呪いというのはハンスさん自身にまとわりついているのかもしれないが、さっきの奥さんの話からすると、どこへ逃げようと王子様の周りの人なら徹底的に追い込んでいるような気がする。
そのことに気がついているのだろうか……?
だけど、この人はその質問に対して、眉根を寄せて苦しそうな表情をするでもなく、眉毛を下げて安心した表情をするでもなく、左右の眉毛を非対称に歪ませて呆れたような表情を作る。
「そもそも、俺がこっちに来るときには、城の人間の半分が、それでおかしくなっていたんだ。あんな人たちと一緒にいるなんて、俺には耐えられないよ」
つまりこの人はお城の人を見捨ててこっちに来たということなのだろうか――――。