23.夏海の恋
梅乃の横で春が来ています
23.夏海の恋
「ファースト*の一番後ろ、音程ずれてるからとなりの部屋行ってくれる?」
「セカンド3表*、ちょっと一人で弾いてくれる?」
「ヴィオラ、そこもう一回やって。揃ってないから。チェロも後でやってもらうから」
「バス*、音程」
弦分奏の代指揮はコンミスがやることになっている。だから美麗の気に食わないところがあれば、そこから徹底的に直される。
実際、美麗の指揮は分かりやすくてとてもいいし、指摘するところもその通りなので、それだけであれば問題がない。言うとおりにやれば、かなりレベルの高いものにもなるだろう。
だが、彼女の物言いは敵を作る言い方だ。同じ物言いでも、もう少し柔らかく言えばいいものを、ツンツン言うから練習室の空気も良くない。
ファーストバイオリンの子、可哀想だな……。
そんなこんなで分奏が終了。
美麗は鼻で息を吐きつつ自分のバイオリンを出して、サークル会館の閉館時間まで練習する。
他の団員もそのまま練習する人もいれば、少し飲み物を飲む人、となりの部屋に行く人、片付ける人など、様々だ。
私はそのまま少し練習しようと思ったが、夏海に呼び止められる。
「ねぇ梅、ちょっと大練習室行かない?」
その誘いが意図しているところは、フルート吹きの彼だ。
私も少し気になるし、夏海がそわそわしているものだからそれに付き合うことにした。
弦部屋から廊下を挟んだ向こうの大練習室を先ほどと同じように覗く。
管分奏も終わっているようで、片付ける人やまだ練習する人など様々だが、その中でも指揮台の左手側の席に人が集まっていた。
フルートの席だ。
ドアの窓から覗いていると、それに気がついた柳さんがドアを開けてくる。
「おーどうしたお前ら」
「あ、いや、ちょっと」
ただのイケメンであれば普通に「目の保養」なんて言ってのける夏海だけど、それをせずに眼を泳がせる様子を見れば、いつもと違うのが分かる。
だが、柳さんはそれにはあまり言及せずに、至って普通に言ってくる。
「あぁ、あの留学生な。環境科学院のM1だってよ。めちゃくちゃ上手かったぞ」
「おまけにかっこいいしね」
と、曜子さんが柳さんの後ろから話に混じる。
長谷部曜子さんは経済学部の4年生でオーボエ吹き。
「今年の留学生はどこもすごいって噂だね。経済学部の留学生も、かなりの美青年がやってきたよ」
と、オーボエの上から布を通している。
経済学部の留学生と言えばテオデリックのことか。
何か変なことやらかしてないと良いけどな。誰かのヒモになっていたりとか。
「そういや、今日弦分奏大丈夫だったか? 美麗が始まる前からつんけんしてたけど」
「あぁー……もういつもの調子ですよ。でも金子さんファーストの一番後ろだったんですけど、音程合ってないってとなりの部屋に行かされてました」
「あぁ相変わらずだな」
「それはよくないね。あたしが今度ちょっと美麗を叱っておくよ」
曜子さんは表裏のない人で、言うべきことはきちんと言う人だ。そして人を見て言い方を選ぶ人なので、曜子さんの言うことには美麗も聞く。元々団長なのもあるが、こういう性格なので後輩からの信頼も厚い。
と、そんな話をしていると、輪の中心にいたフルートの彼がこっちに気がついて、こっちに寄ってくる。
彼は眼を柔らかく細めて、夏海に向かって言う。
「昨日の子だよね。オーケストラの子だったんだ。また会うとは思わなかったよ」
クリスティアンには劣るが、この人も負けず劣らず王子様系だ。いや、王子様は王子様なのだが。明るいプラチナブロンドは、さらさらと揺れていて、いかにもさわやかといった感じだ。若草色の切れ長の瞳は、どこか凛とした感じが漂う。これで真顔でいたら、どことなく冷たい人のようにも見えそう。
夏海はほんのりと頬を赤く染める。
「ほっ本当に偶然ですね!」
そんな夏海ににこっと笑うと、フルートを持っていない左手を差し出す。
「今度こそ自己紹介。ハンス・オルセンです。よろしく」
「……あ、あたしは塩谷夏海です」
夏海は彼の笑顔に惚けながらも、差し出された手を握り握手する。
……………………。
何だろうか、この空気。
まるで世界は夏海とフルートの彼、ハンスさん? の二人だけで出来ているような感じだ。
私も柳さんも曜子さんもエキストラって感じ。
というか、まるで高校生の先輩と後輩って感じがするぞ。
「ねぇねぇ梅乃、夏海どうしたの?」
そんな様子に気づいたのか、横から由希が聞いてくる。エキストラが一人加わりました。
「なんか昨日か一昨日知り合ったらしくて、ずっとあんな様子」
「塩谷、なんか青いな」
「青いね」
なんて、4人で話していると、エキストラがもう一人加わる。
ホルンの2年生、高宮くるみだ。
「たしかにあんなイケメンさんだと、あんまりそういう噂のない夏海センパイも好きになっちゃうんですかねぇ」
と、一言多い気もするようなことを猫撫で声で言う。
くるみちゃんは、これは偏見かもしれないが、よくいる文系タイプの文学部の子だ。少しロリ顔で本人も自分が可愛い方だと思っていると思う。言葉の端々に少し嫌味が混じったものがある。だが、それを悪びれもせず、擦り寄ってくる。これは正しく言うと、媚を売っているのだが。
「でもぉ、あんなイケメンさんこそ美麗センパイの方がぴったりだと思うなぁ」
そう、そして美麗の取り巻きでもある。と言っても、よくある青春恋愛漫画みたいに女の子をいじめたりするわけでもないが。要するに美麗にごまをすっているので、彼女に嫌味を言われない。
と、そんなことを話していると、ハンスさんがこっちに気がつく。
「あぁ、君も管分奏にいなかったよね? ハンス・オルセンです」
夏海にしたのと同じように、私にも左手を差し出してくる。
私も左手を出して握手する。
「佐倉梅乃です。よろしく」
普通に日本語をぺらぺら話せているので、この人はおとぎの国の人で確定だ。だけど、本来なら左手中指にはサファイアの指輪が嵌っているのだが、チェロを弾くために外していたため、この人は私がこっちの世界での世話役だと言うことには気がつかないだろう。
と、思っていたのだが、どうやら違うところで気がついたらしい。
「…………サクラウメノ……?」
にこやかだった表情は少し薄れ、若草色の瞳を大きく開いている。
そして観察するように私を眺めた後、再びにっこりと笑った。
「そうか、よろしく」
新たな団員を祝して飲みに行こうという話が出かかったが、ハンスさん自体が引っ越しの片付けがあるといって断り、結局いつものように飲みに行きたい人が飲みに行くことになった。
飲み組の筆頭がいつものように柳さんだったので、由希はそっちに行った。
私は家に案内しなくちゃ行けないので、帰り組。
夏海ももう少しハンスさんと話したいらしく、帰り組。
他にもハンスさんと話したいという子は沢山いたが、ハンスさんがやんわりと断った。
夏海とは校門から別方向になるので、それまでは一緒に歩いた。
どこか夏海は言葉がうわずっている気がする。端で見てて可愛いなぁと思う。
「ハンスさんは環境科学院でどんな研究されてるんですか?」
「俺は海洋系でね、どこにどんな生物がいるか調査しているんだ」
夏海が色々質問してハンスさんが答える。私はそれを聞いているだけ。
海洋系ということは、「人魚姫」の方の王子様かな?
「え、それって船に乗るんですよね? 船酔い、大丈夫なんですか?」
「船は大丈夫だよ。というか、乗り物で酔ったのも電車だけだよ」
と、くすくす笑いながらハンスさんが答える。
船が大丈夫で電車がダメっていうのは不思議だよね。逆の方が多い気がするけど。
そんな会話をいくつかしたら校門にさしかかる。
それまで楽しそうに話していた夏海は、心なし物足りなさそうだ。
それに反してハンスさんはあっさりと別れを切り出す。
「じゃあ、俺はこっちだから。夏海ちゃん、気をつけて帰ってね」
「あ……はい、そうですね」
それまで上がっていた夏海の肩が若干下がった。
うーん、これは本気で恋したのかな?
「――そういえば明後日は新歓だよね、1回目の」
とりあえず助け船を出しておこう。これが果たして助け船になるのかは分からないけど。
だが夏海は私の意図を汲み取ってくれたようだ。
「そういえばって、そのために練習してるんじゃん」
「そうだけど、その後確か飲み会あったよね」
「あ、そういえば」
ここまでくればいいかな?
夏海はハンスさんを見上げて尋ねる。
「明後日、夜に新入生歓迎演奏会があって、そのあと歓迎会やるんですけど、ハンスさんいかがですか?」
夏海は相変わらず頬が赤いのが、暗くても分かる。
本当に恋する乙女のようだ。
ハンスさんは柔らかく笑って答える。
「うん、じゃあ参加しようかな」
それを聞いた夏海といったら、ぱああっと花が開くような嬉しそうな笑顔。
すっかり上機嫌を取り戻した夏海は、「じゃあ是非来てくださいねっ」と言い残して帰って行った。
うーん。初々しい。やっぱり高校生ちっくだ。
だけど青春って感じがする。
あれ、でも、おとぎの国の人たちってあくまで留学だからいずれは帰るんだっけ?
それなら夏海の恋の応援はしないほうがいいのだろうか――――。
ファースト=第一バイオリン
セカンド=第二バイオリン
3表=三列目の客席側
バス=コントラバス
一応用語説明だけ入れておきます。
さてさて、次は梅乃とハンスの絡みです