19.井の中の蛙(フリードリヒ)
フリードリヒ視点です
19.井の中の蛙
――どうしてこんな状況になっているのか。
すべてはあの側近のせいである。
まったくハインはこんなことをして、一体僕とこいつの間に何が生まれるというんだ。無理矢理変な主張してきやがって。
僕はベッドにうつぶせに眠っている女に目をやる。
クッションを胸に敷いたまま布団の上に眠ってしまったその顔は、無垢なのかなんなのか、とにかく害のない顔をしている。あれだけさっきは甲斐甲斐しく人に布団を用意していたというのに、自分は布団をかぶらないまま寝るとは、どれだけ頭が悪いんだ?
僕はため息をついて自分の布団を見やる。幸い、シーツは掛けるだけのもので、袋状のものではない。これなら布団だけはがしてこいつに掛けてやることも出来なくない。と考えたところで、布団が今の僕に持てるのかと疑問に思う。
そして再び女に目をやる。
相手は女だぞ。僕がわざわざ気を遣う必要もないじゃないか。
でも、このままだとこの女は風邪を引く。
どうすればいいか考えあぐねながら、昨日からのことを思い出す――。
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ハインリヒと一緒に日本に来た僕は、昨日、留学したての大学の初の授業だと言うから、どんな授業があるのか少し胸に期待を寄せながら学校に向かった。
おとぎの国のグリム地方の大学は、9月から始まって7月に学校が終わるというターンだが、日本の大学は4月から始まり3月に終わるという異なるターンだった。ニッポン地方にはまだ大学がないのだけど、いずれあの地方も大学が出来たらここと同じなのだろうか。
そして昨日は初回ということで講義を聴きに行ったのだが、授業が終わってみれば何故か厚化粧で香水臭い女たちが僕の周りを囲んでいた。最初はドイツ語で返していたのだが、中にはドイツ語を話せるヤツもいたらしく、だんだん僕はめんどくさくなって逃げ出した。
女たちは本気で追ってこようとはしなかったが、食堂でランチを食べようとしたときも別の女が馴れ馴れしく寄って来る。移動すればまた別の女。そのあまりの気持ち悪さとうっとうしさに、ランチも食べずに僕は食堂の外へ掛けだした。
結局ランチを食べられないまま3時限目の授業になる。この時限は農学部の授業なので、半分以上が男だし、けばけばしい女も多くはなかったから少し安心していたが、それも束の間。初回ガイダンスが終わって30分で講義が終わると、農学部の中でも派手な部類と思われる女たちが束になって僕に話しかけてくる。
僕はもうめんどくさくなったので、その場を逃げ出した。
そんなことを繰り返しているうちに、とうとうエネルギーが切れてきて、カエルの姿になってしまう。
あ、やばいと思ったときには、背後に虫取り編みを持った男が立っていて、それはもう必死で逃げた。
あの女――佐倉梅乃に会ったのはそんな時だった。
虫取り編みの男から逃げてとある場所に着陸失敗したとき、うえからやたら甲高い悲鳴が聞こえた。見ると、女が二人立っていて、小さい方は僕を見ながら脅えている。そんな脅えなくても何にもしないっていうのに。若干そんな態度にいらつきながらも、もう片方を見上げると、そいつは観察するように僕を見ていた。すると、後からやってきた女がしゃがんできて、僕を観察している。
あぁ、なんかもういいや、などと投げやりになっていたけれど、いきなりその女が僕を片手で掴み上げて、他の二人と別行動をする。
……この女、何がしたいわけ?
聞けば僕を避難させるとか言っている。どうしてこうも平然とカエルを掴み上げることが出来るのだろうか。こっちの世界ではそういう女が多いのだろうか。
「すぐ着くから、それまで辛抱してよ」
僕に向けて言われたその言葉だけど、ほとんど消え入りそうなくらいの呟きで、まるで自分に言い聞かせているような言葉だった。
変な女だと思った。
そうこうしているうちに、後ろからハインがやってきて、彼の手に渡る。ようやく助かったと安堵していた僕だけど、ハインがその女に余計なことを言いそうになっていたので、思わずヤツの顎に蹴りを入れてしまった。
断じて僕は悪くない。口がすべりそうになったお前が悪いんだぞ。
その女と別れた後、ハインは僕にパンくずや魚の燻製を食べさせてくれて、みるみるうちに僕は人間の姿に戻った。
人間に戻った僕に、ハインはいつもの得体の知れない笑顔で言ってきた。
「先ほどの方は一体何学部の方ですかね? フリードを助けて頂いたお礼をしたいのですが」
さすがに何も知らない人に僕がカエルだったというわけにもいかず、ハインがお礼だけしたいと言うが、後ほどあの女にあった場所へ向かっても、当然と言えば当然だけど、あの女はいなかった。
僕は、少なからずがっかりしていたのかもしれない。
今まで見たような女と違い、あの女は僕を片手で掴み上げていたのだから。もしあの正体が人間だと知れば、どういう反応するのか少し興味があった。
しかし、その女には翌日いとも簡単に巡り会えた。
農学部の実験室でだ。
なにやら惚けた顔の女を見て、男と一緒に訝しんでいた。あ、この惚け顔の女、昨日のやつだ。
最初はカモフラージュのためにドイツ語で話していたが、惚け顔だった女と男は話しかけてくるのに、その女はドイツ語が出来ないのか、会話には入ってこなかった。
そのとき、僕はその女の左中指にサファイアの指輪が嵌っているのに気づく。
…………これはカリムのだ。そうか、この女。
そうと分かれば話は早い。
実験が早く終わって後ろから声を掛けてやれば、不思議そうな顔で振り向いてくる。女は嫌いだけども、昨日の借りがあるからそれだけは早々に返そうと思い、とりあえず礼だけ先に言うと、こっちが何も言わなくともその女はどういうことかすぐに理解した。
そして昨日の礼に、一杯だけカフェでおごってやることにした。だけど、僕は女に関わるつもりはない。要件だけ言って、飲んですぐに帰ろうとした。
――――だが、世話焼きの側近がそれを許さなかった。
いつの間にか3人でテーブルを囲んで話し込むことに。ともすれば、ハインは突然とんでもないことを言い出す。
「そうです、フリード。アサド殿やカリム殿のいかがわしい手から梅乃お嬢様をお守りするために、梅乃お嬢様の部屋で過ごすのです。夜はカエル姿だし、自分の部屋でなくてもいいのですから」
その発言に僕は耳を疑った。その女も固まっていたようだ。
だけどハインは本気。口元は笑っているのに目は笑っていない。
なんとか阻止しようとしたが、ヤツはこれと決めたことは絶対突き通すタイプで、帰ってからもそれを言い続けた。
そしてその結果がこれだ。
「――で、何でこんなことになってるの?」
「仕方ないじゃない、あのままだとフリード外にほっぽり出されてたし」
気がついたら僕はその女の部屋にいた。
カエル姿の今からすると天井は低くはないが、いつも寝泊まりしていたような部屋を思い浮かべると、やっぱり低いような気がする。部屋の広さもおとぎの国の僕の部屋に比べれば、その4分の1の広さのように思える。
よくこんな狭い部屋に家具をぎゅうぎゅう詰めにして過ごしているなと、ある意味感心。
カエル姿じゃなけりゃ、こんな部屋に二人で過ごすなんてごめんだけどね。
まったく、どうしてこうなったことか。
それもこれも全部ハインのせいだけどね。あいつが余計なことを言い出さなけりゃ、こういうことにもならなかったし、魔神たちにも変に牽制されることもなかった。
まったく、ハインはこの女に何を期待しているのだか。何かが起こるはずがないというのに。
僕がぶつぶつ文句を言っていると、その女は別段気にした様子もなく、もの入れから布団を取り出す。
何やってるのこの女。ベッドには既に布団が敷かれてある。
その理由を聞けばこうだ。
「何でって、フリード今カエルでしょ? カエルってどう扱えばいいのか分からないけど、変温動物だし、あまり体冷やさない方がいいのかなって」
ますます意味が分からない。だからカエルに布団を貸すってこと?
確かに僕の今の姿だと、温度変化というのは直に刺激を受ける。人間の体でいたら1℃の変化くらいどうってことないのに、カエルの姿だと1℃の変化でかなり寒くも暑くも感じる。それほど温度変化に敏感な体だ。
だからといって、カエルに布団を貸すっていうことは、イヌやネコに布団を貸すっていうのと訳が違うんじゃないか? カエル自体に抵抗はなくても、布団を貸す行為自体に抵抗を覚えるもんじゃないの?仮にもカエルは粘液を纏っている。いくら綺麗にしていたって池の水の臭いがする。僕が逆の立場だったら絶対に嫌だ。
だからまた僕が言ってやると、再びこれだ。
「そんなの洗えば済むことじゃない? それよりも朝になってフリードが人間に戻ったときに何も着てないと風邪引くでしょ?」
一応訂正しておくけど、カエルから人間の姿に戻っても、別に裸というわけじゃない。一応何かしらの服は着けているのだ、謎なことに。逆も然りで、カエルになったときに服がその場に放置されているということもない。
だからこの女が言う「何も着てない」は、「何もかぶってない」という意味だ。
じゃなくて、この女の考えがますます分からない。
この女は至って気にする様子はない。それどころか人間になったときの心配までしてくる。僕は朝になったら自分の部屋に帰るつもりでいるというのに。
…………こんな女、初めてだ。
それとも庶民にはこういう女が多いのか? 少なくとも貴族の世界にはいない部類の女だ。
…………井の中の蛙ってわけか。
いや、それにしてもこの女はおかしい方だと思う。僕が人間だと言うことを知っているとしても、カエルにそんな待遇をするなんて。仮にも昨日今日会ったばかりだというのに。
…………変な女だ。
フリード視点続きます。