34.真っ白な心(テオデリック)
34.真っ白な心
拝啓
ご無沙汰しております。
貴方様がそちらに赴いてから早二月が経ちましたが、そちらでの生活はいかがでしょうか。こちらはだいぶ日差しが強くなってまいりましたが、相変わらず空気は冷たく感じます。
さて、6月3日、私たち夫婦に待望の赤ちゃんが生まれました。夫にとても似ている健やかな男の子です。まだ生まれて間もないですが、僅かながらにすくすくと成長しております。今は夫婦ともども子育てに奮闘しながらも、日々幸せをかみしめています。
本来であればこのようなことは貴方様に報告するべき事ではないのでしょう。しかし貴方様もここ最近、良き日々をお過ごしのことと存じております。また、以前とは別人のようにお変わりになったとも聞いております。きっとお相手の方も貴方様のような方に寄り添っていただいて、とても幸せなことだと思います。
これからの貴方様の幸せを、遠くからですがお祈りしています。
敬具
追記
貴方様のそちらでのご活躍を聞いて、兄達が貴方様をお城に招待したいと申しておりました。また私たちも貴方様に赤ちゃんをご覧いただきたく思います。ご帰郷の際は是非お城に足をお運び下さい。
その日の午後、俺は気分転換に大学構内を歩いていた。
食後のこの時間はどうしても睡魔がやってくる。
その上、相変わらずのどんよりした気候もまた、やる気を削いでくる。
もう少ししたらこの梅雨も明けるそうだが、永久に続きそうなくらい不快な気候だ。
だがそんな不快な梅雨でもいいものはあるものだと、手の中の手紙を読みながら思う。
それはかつての俺の妻、おとぎの国のスワン領にいるエリサからの手紙だ。
今朝、赤髪の魔神から受け取ったそれは、とても幸せな内容に満ちあふれていた。
彼女がこの上ない喜びを胸に赤子を抱いているのが目に浮かぶ。
夫に似ていると書いてあったが、きっとエリサの心優しさも受け継がれるだろうと思うと、非常に穏やかな気持ちになった。
エリサが俺の幸せを祈ってくれているのと同じくらい、俺もエリサの幸せを心から願おう。
そう心に誓ったとき、ちょうどキャンパスの奥まったところにある池にたどり着いた。
池の上の空気は湿気に霞んでいて、霧のようになっている。
その周りにはこの時期に咲くという淡い青紫色の花、アジサイがいくつも顔を出していた。
そんな幻想的な空間をより際立たせるかのように、そこだけ細い光が差していた。
そしてその光を受けて気持ちよさそうに舞っている後ろ姿を見つけた。
「――やっぱり、ソラの踊る白鳥は綺麗だな」
そんな言葉と共に、俺はソラに近づいた。
ソラはびくっと肩を揺らすと、踊りを止めて俺の方を振り返った。
「テオさん……」
ソラは目を丸くして俺を見てくる。
俺はそのまま近寄き、ソラの漆黒の髪をひと束取った。
「髪……切ったんだな」
「はい。今朝、警察に行った帰りに」
そう、背の中程まであったまっすぐなソラの髪が、肩口までになっていた。
こちらとしてはあんなに長かったのにもったいないという気になりかけるが、当のソラ自身は以前よりだいぶすっきりとした表情をしている。
きっとずっと前から切りたかったんだろうな。
「夕べ……兄と色々話をして、これからは兄の家で暮らすことになりました」
「そうか」
「それから兄もテオさんに感謝していました。今度ゆっくり会って話したいって」
ソラはとても穏やかな顔で言う。
それにつられて俺もふっと笑う。
「そうだな、改めてまた挨拶に行かせてもらう」
そう言いながら俺はソラの髪に手を滑らせる。
それが心地いいのか、ソラは目を細めて頷いた。
するとふといいことを思いつき、俺はソラから一歩身を引いて右手を差し出した。
「よろしければ、踊りませんかお嬢さん」
こんな丁寧な言葉を言ったのは、果たしていつぶりだろうか。
もうずっと昔のように思える。
自分で言っておいて、なんだか背中がかゆくなりそうだ。
ソラも目を丸くして固まっている。
それを見て俺はふっと笑いを漏らしてしまった。
「こんな台詞言うのは俺の柄には合わんな。だが、いつかもここで踊っただろう。だからまた踊りたい」
多少言い訳のようにそう言えば、ソラは少し顔を赤くしながら俺の手に自分の手を乗せた。
俺はその手を握ると、ソラの腰を引き寄せた。
そしてそのまま足を前に出した。ソラも足を後ろに下げる。
聞こえてくる音楽は何もない。
しかし鳥のさえずりや虫の声、風の音までもが、まるで俺たちを楽しませるかのようにハーモニーを作る。
それに乗って俺たちは足を動かし、くるりとソラを回した。
さっきは恥ずかしそうに眉を寄せていたソラだが、今はぼんやりと俺を見上げている。
以前はその黒い瞳に寂しさや悲しみが満たされていたが、そのどちらもが今はすっかり消えている。
濁りのない綺麗な瞳に、俺が大きく映している。
それが俺の心をとても温かくしてくれる。
「本当は、これが夢なんじゃないかって、思ってしまうのです」
ソラはふっと力なく笑って言う。
そして俺から視線を外すと、少し瞳を翳らせる。
「こんな風に自由に過ごしていても、いつまたスマホが鳴るかと怖くなるのです」
「お前は昨日までそんな日々を強要されてきたんだ。実感が湧かないのも無理はない」
俺がそう言えば、ソラは目を瞑って頷いた。
再び目を開けると、俺を見上げて寂しげに口元を笑わせる。
「さっき『白鳥の湖』を踊っていましたけれど、あれを踊るとき、いつもオデットかオディールになりたいと思っていました」
「オデットかオディール? オデットは白鳥だがオディールは黒鳥だろう? どうしてだ?」
「だって、どっちも汚れのない綺麗な色をしている。私がなくしてしまったものだった」
その言葉と共に、ソラが俺の手を強く握る。
それに応えるかのように、俺は腰を抱いていた手で背中をさすった。
「日々、汚れていくのを感じていた。そんな私に司兄が言ったんです。お前は白鳥でも黒鳥でもなく、みにくいアヒルだって」
俺はそこで動かしていた足を止め、まっすぐにソラを見下ろした。
消えていたはずの悲しみの色が、少し混ざっている。
やはりそう簡単には消えるものではないのだろう。
だが少しでもそれを溶かすように、俺はソラの頬を両手で包みこむ。
「ソラ、知っているか? アヒルも真っ白な色をしている。そこに汚れなどない。お前もそうだ。お前はとても純粋で――とても綺麗だ」
そう言った瞬間、ソラの黒い瞳が揺れた。
俺の言葉に自信をもてなさそうにしているその瞳は、とても澄み渡っていた。
それを見ながら、俺はソラの顎へ右手を滑らせた。
「それでもお前自身が汚れていると感じているなら、俺がそれを消してやる。お前の苦しみも悲しみも消して、俺がお前を幸せにしてやるよ」
その言葉にソラがふふっと笑った。
そのまま穏やかな顔をして、頬を包んでいる俺の左手に自分の手を重ねた。
「今でも本当に信じられないくらい幸せです」
「ならばそれ以上の幸せを捧げよう」
そうして俺たちは唇を合わせた。
とても脆く、とても儚い。
それは俺が守り続ける存在。
そして幸せを与え続ける相手。
唇でその存在を感じながら、無上の幸せを固く心に誓う。
この誓いを喜ぶかのような沢山の白い羽根が、俺たちを包み込んでいた。
お付き合いありがとうございました!
これで3章「アヒルもきれいな白色」(別名:テオと空)は完結です。
そのあとがき的なものを活動報告に上げましたので、ご一読下さればと思います。
さて、4章は少し間をあけてから開始しようと考えています。
今後もお楽しみ下さればと思います。
これからもお付き合いよろしくお願いします。




