再会の川
文学と名乗るほど崇高なものでもありませんが真面目に書きました。
短い作品ではありますが、爽快感を求める方には合わないかもしれません。
織姫はきっと幸せ者だ。夜の河原で一人思う。天の川に阻まれようとも再会は約束されているのだから。星々を映す目の前の川に、天の川ほどの雄大さはない。しかし私は、この川の深さをよく知っている。私たちを別つ、再会も叶わぬ隔たりだ。
音を立てるのは風に揺れる柳だけ。私は川面を見つめ続ける。辺りが暗くてよく見えないが、映った私はどんな顔をしているのだろう。
「やっぱり今年も行くのね。飛び込んだりしないで、早く帰ってきなさいよ」
出掛けに言われた言葉が蘇る。それほど酷い顔でもしていたのだろうか。自分としては普段と変わらないつもりではいたのだけど。
「……放っといてよ」
しかし母もわかってはいるらしく、私を引き止めはしなかった。私がどんな思いで今日を迎えたのか。日々を過ごしてきたのか。だから私は、いつものように家を出た。大嫌いな夕焼けの川を見て、夜に変わっていく空を眺めた。川の流れが絶え間ないように、空の移ろいもまた絶え間ないものだった。ゆっくりと、しかし確実に変わってゆく空を眺め続けた。何時間そうしていたのかわからないが、今夜は星が消えるまでこのままいたい。今日はケンジ君の13回目の命日だった。
忘れることなどできない。あの日もよく晴れた暑い日だった。幼稚園児だった私たちは、いつものようにこの川へ遊びに出ていた。この川は家からも近く、私たちのような子供にとってはうってつけの遊び場だった。私とケンジ君と、彼のお兄さんの三人で、夕暮れ近くまで水遊びに興じていたのだ。
思いがけず強い風が吹いた。抑える間もなく私の帽子は飛ばされて、岸から少し離れた水面に落ちた。それは本当に少しの距離で、大人なら一足で取りに行けるくらいのものだったと思う。だからケンジ君は何気なく川に入って行った。そして、事故が起きたのだ。
激流だったわけでもない。しかし子供一人をさらうには十分な流れだった。何の警戒もなく足を滑らせたケンジ君を、この川はあっさり呑みこんでいった。お兄さんも助けに入ったけれど、救い出すことはできなかった。私はと言えば、何もできず見ていただけ。偶然通りかかった大人に泣きつくことしかできなかった。
これが私にとって最初の七夕の思い出だ。もうケンジ君の声も顔も薄れてしまったけど、到底拭い去ることはできない思い出である。
「大丈夫よ。ケンちゃんはね、お星さまになったの――」
ケンジ君のお母さんは、泣きながらこんなことを言った。何もできなかった私を、誰も責めなかった。私の不注意が招いた事故だったのに。私が彼を殺したも同然なのに――。
ほどなくしてケンジ君の一家は町を出て行った。それが13年前の顛末である。あれ以来、私はあまり笑うこともなくなった。季節が巡ろうともそれは変わらず、いつの間にかこんなにも時は過ぎてしまった。幼い日の後悔が消えることはない。だからこそ毎年この川へ足を運んでしまうのだ。この川で待っていても、いくら望んだとしても、二度と再会は叶わない。そんなことはわかっているのに。
川面に何かのゴミが漂っている。せめて灯籠ならまだしも、これでは風情も何も無い。13年の間にこの川も随分と変わってしまった。あの頃は不法投棄も珍しかった。たまに落ちている空き缶などを見つけては、宝物扱いして大騒ぎしたものだ。しかしそれでもなお、川面を彩る星々は変わらない。天の川の輝きはケンジ君がいた頃のまま、思い出を留めてくれていた。
亡くなった彼のことばかり考えていると、俄かに柳のざわめきが強まった。化けて出るなら今だろうか、不謹慎な妄想がよぎる。
「よう、久しぶり」
突然横合いから声をかけられ、私は体を強張らせた。無人だった河原に、いつの間にか一人の男性が立っていた。こちらを見ながら微笑んでいる。
「お久しぶりです、お兄さん」
一年ぶりに見る姿は、思っていた通りまた少し大人びて見えた。成人も近い男性なのだから当然かもしれないけど。彼も事件後に町を離れてしまったため、滅多に会うことはできない。この日だけが年に一度の再会の日だ。
「やっぱり、今年も来てくれたんだな」
静かな面持ちでお兄さんは言った。彼もまた、一度として私を責めたことはない。それどころか、ケンジ君を助けられなかった自分にこそ罪を感じている節があった。
「私はこれからだって来ます。それくらいしか、できることもないから……」
自然と私の口調も弱くなる。それを見たお兄さんは複雑な顔をした。
「実はそのことで、一つ話があるんだが……」
改まってお兄さんは言った。言い出しにくそうでいて、その目は何事か決意している。気付けば川べりの柳も静まり返っていた。
「こうして会うのもこれで終わりにしよう」
お兄さんの言葉は、まったく予期しないものだった。理由も何も分かったものではない。しかし、星明りにもはっきりとわかる苦悩の表情が、生半可な言葉でないことを物語っている。
「今年で高校も卒業するんだったろう? そろそろ、こんなことをしている余裕もなくなってくるんじゃないかな。それに君はもう、昔のことにそこまでこだわる必要もないんじゃないかと、俺は思う」
ゆっくりと、言葉を選びながらお兄さんは言葉をつなぐ。しかし私にとっては納得できる提案でもなかった。
「どうしてそんなことを言うんですか。私は忘れられない。忘れちゃいけない。だってあの事故は――」
反論しかけた私を遮ってお兄さんが問う。思わず押し黙ってしまうほどの、真剣な眼差しだった。
「会いたいんだろう、ケンジに。そして何か言いたいはずだ。違うか?」
その通りだ。私は彼に謝らなければいけない。そのために毎年ここで、ケンジ君を想い続けてきた。それくらいしか私にできることはなかったし、それが私のしなければならないことでもあったからだ。
「君は昔、俺に謝ったよな。ごめんなさいって。俺が言ったことは覚えてる?」
あれは確か5、6年前のこの日だった。私はお兄さんに改めて謝罪したのだ。でもお兄さんの返事は私の予想を裏切っていた。「もう良いんだ。できればあのことは忘れて、普通にやって欲しい。あいつも多分、そう思ってるだろうから……」そんなことを言ったのだ。それでもこの人のことだ、どうせ私に遠慮しての言葉だろうから、私は今でもこうして会いに来ている。
「覚えてます。でもどうしてあんなこと言えるんですか? あの事故は私のせいだってお兄さんも分かってるんでしょう。これ以外に、私はもうケンジ君に何もしてあげられないじゃないですか」
お兄さんは静かに首を振った。
「君がケンジのことを忘れないでいてくれるのは嬉しい。でもね、それに囚われ続けて欲しいなんて誰も思ってないよ。あいつだってそうだ。このまま君が一生不幸せなままでいるとしたら、あいつは悲しむだろうね」
「どうしてお兄さんにそんなことが分かるんですか」
私はつい感情的に叫んだ。ケンジ君は死んだのだ、13年前のあの日に。それなのにどうしてお兄さんが代弁できるというのか。お兄さんが言いたいこともわかる。あの事故の発端は私であり、助けられなかったのはお兄さんで、子供だけを川にやった大人たちにも責任はある。私がいつまでも罪悪感に立ち止まっているのはおかしいと、そう言いたいのだろう。それでも、ケンジ君は死んだのだ。いや、ケンジ君だけではなく――
「わかっているはずだ。俺とケンジは一緒だから」
悲しそうな目でお兄さんは言った。そう、私にもわかっている。でもこの日だけは、一年の内この日だけは目を背けて、ケンジ君だけを想っていたのだ。それが、私たちにとっての七月七日であるはずだった。
「俺だってもう、この世の人間じゃない。わかってるんだろ……」
幻がほどけた気がした。私は大人に近づき、お兄さんもまた大人になった。だからこんな、あの時の大人たちのようなことを言うのだろうか。
実は13年前の話には、まだ続きがある。ケンジ君が溺れた直後、お兄さんは助けに入った。しかし、溺れた子供を子供一人で助けられるわけもなかったのだ。今思えば当たり前だが、お兄さん自身も流れに呑まれかけた。だが、幸か不幸かお兄さんは生き延びたのだ。少し水を飲んではいたけれど、助け上げられてすぐお兄さんは目を覚ました。私が知っているのはそこまでだ。
事故の後、私は両親によって家に連れ帰られた。私も病院まで付いて行きたかったが、大人たちはそれを許さなかった。家にいても二人が心配でたまらなかったし、特にすることも無かったので、ぼんやりと夏の雨を眺めていたような気がする。帰りついた頃に降り始めていたのだ。どうせすぐに止むだろうから、そうなったら一人でも病院へ行こうと、私は密かに決めていた。ところがそれまでの晴天が嘘のように雨脚は強くなり、その晩は夜通し降り続けたのだった。大人たちには全て分かっていたのかもしれない。
翌朝、ケンジ君の死亡とお兄さんの行方不明を知らされた。事故当日、お兄さんは夕方の内に帰宅を許されていたらしい。ケンジ君の死はとうに確認されていた。だからお兄さんは家族とともに家に帰り、一晩を明かしたそうだ。そして明け方になって、家族はようやく眠りに就いた。しかし目覚めてみるとお兄さんの姿は消えていた、こういうことらしい。川へ向かったのだろうとは、容易に想像がついた。
それきりお兄さんは帰ってこなかった。遺体も見つからず、世間では何らかの事件に巻き込まれたという噂も流れたが、真実はついにわからなかった。
「それは……だけどお兄さんが死んだなんて証拠はどこにもなかった」
信じたくなかった。本当は家出しただけで、どこかで生きているんじゃないか、そんな妄想に縋った時期もあった。しかし大人に近づいてくるにつれ、それが如何に非現実的であるか悟ってしまった。
「本当は君だって理解してるんだ。俺は死んだ、もういない。それが現実だ」
お兄さんの言葉を受けてなお、私は諦めきれないでいた。たとえ非現実的な楽観であっても、捨て去ってしまいたくなどない。しかし同時に、お兄さんの死を事実として受け止める気持ちもあるようだった。そもそも行方不明のお兄さんがこうして現れること自体、改めて考えれば薄ら寒い話なのだろう。しかし12前の、ケンジ君の一周忌以来、彼はこうして私の前にやってくるのだ。私の覚えている話し方で、私の知っているお兄さんの雰囲気のままで、私の前に現れるのだ。とても夢や幻には思えなかった。
「私は……お兄さんにだって謝らないといけない……」
抑え込んでいた涙が溢れそうになる。拳を握って耐えてみても、川面の星は滲んでしまう。
「悪いのは私だった。誰も私が悪いなんて言わなかったけど、でも悪いのは私だった。お兄さんにも会えなくなったら、私は誰に謝ったらいいんですか?」
会いたかった。それは私の弱さの表れだとも思う。当事者がいなくなった町で、誰も私を責めはしない。ならば私の罪はどこで償えばいいのか。だからこそ一年に一度でも会えるなら会って謝りたかったのだ。
お兄さんは困ったように笑いながら、私の涙を拭った。
「君が罪悪感を持つのは仕方ないかもしれない。だけど俺にだって罪悪感はある。だからあの日、俺は川に向かったんだ。今さらどうしようもないことくらい分かってたさ」
「本当にお兄さんも川で?」
私だってどうしようもない。こんなこと、今さら聞いて何になるというのか。
「多分な。証拠なんてそれこそ何にも無いけど。あの時、俺は川に行かなきゃいけないと思った。まっとうな理由なんか無かったけど、とにかく俺はそう思った。だから君が気に病むことなんかない」
本当にそうなのだろうか。あの事故の原因は間違いなく私にある。元を正せば、私さえしっかりしていれば二人を失わずに済んだのだ。その後でいくらお兄さんに自発的な意思が生まれたとしても、それは根本的に私のせいではないのか。そして次第に、私はある唾棄すべき可能性に思い至った。二人との別離を悲しむ気持ちに嘘は無い。私の感じる罪の意識も、紛い物ではないはずだ。しかし私がこの日、この川にこだわる真の理由、それはそんな綺麗なものなどではないのではないか。そんな不安が、妙な確信を持って湧きあがった。
「お兄さんは今でも、私は悪くなかったと思っていますか?」
「俺は昔からそう言ってる。周りの人だってそうだろ」
お兄さんの返す答えはその通りだ。しかし、そこで言われていたのはやはり表面的な慰めの言葉に過ぎなかった。私にはどうしようもなかったという事実だけを見た一般論でしかないのだ。
「だけど、もしそうだとしても。私はただ、そう言ってもらうことで……罪悪感を忘れたかっただけなのかもしれない」
自分で言いながら納得していた。これは、できれば直視したくない、されど直視せざるを得ない、私自身の内実だった。
「私はただ、お兄さんの言葉で自分を騙したかっただけ……」
「そうかな。でも、別にそれでも良いんじゃないか?」
お兄さんは思いもかけないことを言う。私にはとてもそうは思えない。
「忘れるっていうのは仕方ないことだ。だったらどうにかして割り切るのは悪いことじゃない。自分を騙すって言ったけど、大なり小なりそうやって皆生きてるんじゃないのか」
たとえそうだとしても、簡単には納得できない。長い間お兄さんが亡くなった現実を受け入れもせず、あまつさえ私はその口から許しを得ようとした。まさに自分の弱さを露呈してしまったのだ。
「お兄さんの言葉で私が楽になっても、本当は何の解決にもなってない。やっぱり私は間違っているんじゃないんですか?」
「だったら、約束しよう。どうしても自分を許せないなら、それが罰の代りだ」
真っすぐ私を見つめながら、お兄さんはそんなことを提案した。私が聞き返すより早く、お兄さんは口を開く。反論の余地もなかった。
「笑って生きろ。俺たちのことを忘れないでも良い、その上で笑って生きていくと約束しろ。君が求めているのは多分、そういうものだ」
本当にそれで良いのだろうか。私は13年間もお兄さんに甘えて逃げ続けた。二人のことを忘れず生きていくなら簡単だ。現にそうやって生きてきたのだから。それだけに罪悪感も持ちながら笑って生きることは難しい。二人への思いが薄れないとも限らない。それこそ二人を忘れ、ただ自分の楽しみのために生きてしまうのではないか。そうなってしまうのが怖いのだ。加えて今の私には、この会話を信じてしまうことにも迷いがあった。
「お兄さんが本当に死んでいるのなら、その言葉だって私の妄想かもしれない。もしそうだったら――」
私は涙に掠れる声で問う。真っすぐ見つめ返すこともできなかった。
「たいした問題じゃない。俺が偽物に見えるかい? だったら信じなくても良い。もし俺が本物だと思えるなら、それもそれで良いだろう」
お兄さんは私の憂いを吹き消すように言う。言葉を発するに連れて、星明りの下で、次第にその影を薄れさせていく。
「お兄さん。あなたは本当に、そこにいますか?」
それはずっと心のどこかに持ちながら、訊くことのできなかった問いだ。どんな答えが返ってくるのか。私は何を思うのか。怖いもの見たさにも似た矛盾を抱えて、これまで踏み出すことができなかった。しかし今ならば踏み出せる。13年という歳月が私の背を押した。
「……いない。俺はもう、どこにもいない」
そう。お兄さんは死んだ。13年前のあの日、私たちは永遠に別たれたのだ。二人と離れ離れの現実を分かった顔して、この事実を私は今日まで否定し続けていた。
「……そうですね」
一年にこの一日だけ許された幻想、それを壊してしまうのが怖かった。いないと答えられたら、全てが終わってしまう。その恐怖にすくんで私はこれまで立ち止まっていた。
「俺もケンジも、君のことが大好きだから。それだけは忘れるなよ」
そして、お兄さんの気配は霞のように溶けていった。涙を拭って顔を上げても、そこには誰もいなかった。
「さようなら、お兄さん」
あとに残されたのは私一人。再び静寂が降りた河原に一人佇む。痕跡も気配も、何も残さずお兄さんは消えた。毎年会っていたあの人は、私の生んだ幻だったのか、それとも幽霊だったのか、それすらも私には分からない。どちらにしても、もう会うことはないという予感があった。
背負うことはないと言った。幸せになれと言った。彼らなら言いそうなことだ。罪はきっと、私にも在り、私でないところにも在るのだろう。先の会話が免罪を求める妄想だとしても、交わされた言葉はきっと真実だ。空を仰いだ私の目に、滲んだ天の川が流れ込む。叶うものならもう一度会いたい――その思いは依然としてある。しかしそれも叶わぬ現実なら、私は今度こそ前に進もう。無数の星も、ひとつとして変わらないものなど無いのだから。
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