「一か月後に離縁だ」と言われたので、愛人様に薬草園の仕事を丁寧に全部お教えしました。聞いていなかったのはそちらです
「一か月後に離縁する。後のことはロジーナに任せる」
夫のディートリヒがそう告げたのは、薬草園の乾燥小屋で、わたくしがタチジャコウソウの束を梁へ吊るしている最中でした。
両手がふさがっている時を選ぶあたり、殿方なりにお考えにはなったのでしょう。
戸口には、淡い桃色のドレスの令嬢が立っておられます。ロジーナ・ベルク男爵令嬢。夫が昨年の狩猟祭から連れ歩いている方で、今日も裾が土に触れないよう、つま先立ちでいらっしゃいました。
「公爵家に要るのは跡継ぎと華やかさだ。泥だらけの手で草をいじる妻ではない」
その草が、毎年金貨二千四百枚を公爵家へ運んでいることは、ご存じないようです。
いえ、ご存じのうえで、ご自分の手柄だと思っておいでなのでしょうね。
わたくしは最後の束を梁に掛け、結び目を二度確かめてから振り向きました。
「かしこまりました」
「……それだけか」
「はい。一か月で、薬草園のすべてを丁寧にお教えいたします。ロジーナ様に」
ロジーナ様が小首を傾げると、耳元の真珠が揺れました。
「まあ、教えてくださるの? 助かりますわ。草の名前くらいなら、すぐ覚えられると思いますの」
この園には百十二種の草木がございます。
名前だけでも、ひと月では少々足りないかと存じますわ。
その晩、わたくしは離縁合意書を三部清書いたしました。
翌朝、執務室で差し出すと、夫は羽根ペンを取ってそのまま末尾の署名欄へ向かおうとなさいます。
「お待ちくださいませ。署名の前に、最後の頁までお読みください」
「形式だろう」
「形式でございます。ですから、形式どおりに」
夫は舌打ちをして、それでも読み始めました。わたくしが隣で黙って立っていたので、読み飛ばす機会を失ったのでしょう。
第四条。離縁は本日より三十日後に成立する。
第七条。前妻は三十日間、毎朝薬草園において、後任者へ業務のすべてを引き継ぐ。内容は帳面に記して原本を公証人に預け、写しを後任者へ渡す。後任者の出欠は出席簿に記録し、欠席の理由は後任者本人が記す。
第九条。引継ぎ期間の満了をもって、前妻は薬草園およびその産物に関する一切の責を負わない。
第十一条。離縁後、前妻が自ら育て、自ら造った薬の販路は、前妻が定める。
「第十一条はなんだ」
「川向こうの母の家で、わたくしが趣味の草いじりを続けるための条項でございます」
「好きにしろ」
夫は最後の頁まで目を通し、三部すべてに署名なさいました。証人欄には家令のハンスと、公証人のエーベル殿の名が並びます。
読まずに署名した、とは、もうどなたにも言えません。
午後、わたくしは町の帳面屋で、無地の帳面を三十冊と、表紙の厚い出席簿を一冊買い求めました。
出席簿には日付と「引継ぎ内容」「出欠」「欠席の理由」の欄を引きます。理由の欄だけは、ロジーナ様ご本人に書いていただくことにしました。わたくしが書けば、後で「そんなことは言っていない」と言われますもの。
一日目。
朝六時の鐘と同時に園の門を開けると、ロジーナ様はもういらしていました。日傘をさして。
「まずは土からお教えいたします。タチジャコウソウは石灰の混じった、乾いた土を好みます。水やりは、指の第二関節まで土が乾いてから」
「指を、土に入れますの?」
「はい」
ロジーナ様は白い絹の手袋を見下ろし、たいそう悲しげなお顔をなさいました。
その日の帳面には、畝ごとの土の配合と水やりの目安を七項目書きました。出席簿の出欠欄には、丸みのある可愛らしい字で「ロジーナ」とございます。
二日目と三日目も、ロジーナ様はいらっしゃいました。
ただ二日目は日差しが強いとおっしゃって、ほとんど東屋の日陰から畝を眺めておいででした。三日目はわたくしが肥料の話を始めたところで、香水の瓶を取り出されました。
四日目。ロジーナ様はお見えになりませんでした。
昼過ぎに男爵家の侍女が出席簿を取りに来て、戻ってきた理由欄には、あの丸い字でこうありました。
――茶会のため。
わたくしは、その日の項目をいつもどおり声に出して読み上げ、帳面に書きました。
タチジャコウソウの種まきは春分の後、最後の霜を待ってから。ニワトコは挿し木で増やし、切り口は斜めに。甘草は三年目の秋まで掘らないこと。
園丁頭のマルタが、鍬を止めてこちらを見ました。
「奥さま。誰もいないのに読み上げていらっしゃるんで?」
「ええ。後から聞いていないとおっしゃる方がいても、この日この時刻に、わたくしが何を話したかは帳面が覚えていてくれるでしょう」
「ははあ。ずいぶんしつこいお仕事で」
「薬とはそういうものよ。一度で覚えられるなら、誰も苦労しないわ」
マルタは六十を過ぎた園丁で、わたくしが嫁いできた八年前から、この園の土を一緒に掘ってきた人です。彼女は鼻を鳴らすと、帳面を覗き込んで言いました。
「甘草を二年で掘ったら、根が細くて使いものになりゃしない。それもちゃんと書いといてくださいよ」
「書いたわ。三行目に」
五日目、茶会のため。
六日目、仕立屋のため。
七日目、茶会のため。
八日目、雨のため。その日は朝から晴れておりました。
九日目、ロジーナ様は久しぶりにいらして、刈り取りの鋏を手にしてくださいました。
「朝露が乾いてから、花が開ききる前に刈ります。茎は根元から指三本分を残して。残せば、秋にもう一度刈れますから」
「まあ、いい匂い」
ロジーナ様は刈った枝を鼻先に寄せ、それから指先の緑の汁をご覧になって、小さく悲鳴を上げられました。
「爪が染まってしまいましたわ! 今夜は伯爵家の晩餐ですのに」
その日は昼の鐘で帰られました。出席簿には、きちんと署名がございます。
十日目、十一日目、茶会のため。
十二日目は、乾燥の日でした。
乾燥小屋の炉に火を入れ、壁の温度計を指して、わたくしは空の東屋に向かって申しました。
「乾燥室は、三十五度を超えないこと。人肌より少し温かいくらいで、三日かけて乾かします。急いで火を焚けば、葉は一晩で乾きますが、香りが飛びます。香りと一緒に、咳を鎮める力も飛びます」
帳面のその行には、朱で丸をつけました。
十三日目、茶会のため。
十四日目、ロジーナ様がいらして、乾燥小屋の中をご覧になりました。
「三日も? もっと火を焚けば、一晩で済みますのに」
「一晩で済ませると、ただの枯れ草になります。十二日目の帳面に書いてございますわ。朱の丸をつけたところです」
「ふうん」
ロジーナ様は梁から下がる束の数を数えはじめ、十まで数えたところであくびをなさいました。
十五日目から十八日目まで、茶会のため。
十九日目は、咳止めの配合の日でした。
この園でいちばん大事な日です。わたくしは前の晩から、蜂蜜の壺を温かい台所へ移しておきました。
「乾燥したタチジャコウソウを二、ニワトコの花を一、刻んだ甘草の根を半。これを水から煮出して、半分の量になるまで煮詰めます。人肌まで冷ましてから、同じ量の蜂蜜を入れること。熱いうちに蜜を入れると焦げ臭くなって、子どもが飲みません」
鍋の底を木べらでなぞると、琥珀色の筋が残りました。
「一日三回、匙に一杯。七歳より下の子には半分。これは咳を和らげる薬で、病を消す薬ではありません。熱が三日下がらない人は、施療院の先生へ」
マルタが匙の先で一滴すくい、舌にのせて目を細めました。
「今年の蜜は、菩提樹の花のが多いですね。去年より喉にやさしい」
「そうね。その分、甘草を少し減らしてもいいくらい。でも減らしたら、書き足さないといけないわ。後の人が迷うもの」
わたくしは帳面の余白に、蜜の産地と色で甘草の量を加減する目安を書き添えました。濃い栗の蜜なら半分のまま。薄い菩提樹の蜜なら、三分の一まで減らしてよい。
公爵領では毎冬、咳で眠れない子どもが施療院の廊下にまで並びます。あの子たちの喉に入るものを、目分量で造る人に渡すわけにはまいりません。
聞き手はマルタひとりで、出席簿の理由欄には、茶会のため、とございました。
二十日目から二十一日目、茶会のため。
二十二日目、ロジーナ様はいらして、瓶の札書きをたいそう楽しそうになさいました。
「わたくし、字だけは褒められますのよ」
存じております。出席簿で毎日拝見しておりますもの。
その日、瓶を湯で煮て乾かすこと、蜜蝋で封をすること、日の当たらない蔵で半年まで持つことをお伝えしました。ロジーナ様は、札の飾り文字に花の絵を添えるのに夢中でいらっしゃいました。
二十三日目から二十六日目、茶会のため。うち一日は、頭痛のため。
二十七日目、ロジーナ様は夫と連れ立っていらっしゃいました。
「どうだ、ロジーナ。もう覚えたか」
「ええ、だいたいは。要するに、草を乾かして蜂蜜で煮ればいいのでしょう?」
夫は満足げに頷かれました。
その日の帳面には、辺境伯家の砦へ毎年秋に送る千二百瓶の段取りを書きました。十月の半ばまでに仕込み、霜月の一日に荷を出すこと。封蝋の裏には、この園の印を押すこと。
二十八日目、仕立屋のため。二十九日目、茶会のため。
三十日目。最後の日も、ロジーナ様はお見えになりませんでした。
わたくしは百四十八番目の項目を書きました。
東の蔵にある四百瓶は、冬の領民のための取り置き。どなたにも売らないこと。
朱で丸をつけ、帳面を閉じました。
出席簿を開いて数えます。出席は七日。欠席は二十三日。そのうち十九日の理由が、茶会のため。
三十冊の原本は、その日のうちに公証人のエーベル殿へお預けしました。写しは毎朝、家令のハンスがロジーナ様のお部屋へ届けてくれています。
夕方、夫から園丁たちへ通達がありました。
園丁頭マルタ以下四名、今月限りで解雇。後任はベルク男爵家から連れてくる、とのこと。給金が半分で済むそうです。
わたくしは四人を母の家の台所に呼び、条件を書いた紙を一枚ずつ渡しました。
「川向こうの小さな家で、小さな畑しかないわ。給金は今と同じ。来るかどうかは、あなたたちが決めてちょうだい。断っても、紹介状は書きます」
マルタは紙を読みもせずに折りたたみました。
「奥さま。あたしは字が読めないんで、読んだふりをするのはやめておきます。行きますよ」
あとの三人も、少し迷ってから同じ答えをくれました。
翌朝、離縁は成立いたしました。
持ち出したのは衣装箱ひとつと、乾いた土のついた手袋と、母の形見の蜜蝋の印章だけです。印の面には、小さな匙が彫ってあります。
八年間、この園から出た瓶の封蝋の裏には、すべてこの匙が押されておりました。瓶の表の札には、公爵家の紋しかございませんけれど。
母の家は川向こうの丘の下にあり、南向きの小さな乾燥小屋がついています。嫁いでからも五年ほど、わたくしはここで自分の畑を続けておりました。第十一条は、そのための条項です。
三日目の昼、門の外に馬が一頭止まりました。
降りてきたのは背の高い殿方で、北の風に焼けた頬をしておられます。外套の留め金には、黒い鷲。北の辺境伯家の紋でした。
「アデル殿か。辺境伯のヴィクトル・アイゼンベルクだ。入ってもいいだろうか」
門は開いておりましたのに、その方は門柱の外で返事を待っていらっしゃいました。
「どうぞ。泥だらけの庭でよろしければ」
ヴィクトル様は畝の間を慎重に歩いてこられ、懐から小さな布包みを取り出されました。
中には、割れた封蝋のかけらがひとつ。裏返すと、小さな匙の印がございました。
「毎冬、公爵家から咳止めが千二百瓶届く。砦の兵はあれで冬を越す。軍医が封を割るたび、この印が出てくる」
わたくしは返事をせず、かけらの縁を指でなぞりました。蝋の割れ方で、封をした時の温度がわかります。これは少し冷めすぎてから押した封で、たぶん去年の霜月、急ぎの荷の分です。
「公爵家に尋ねたら、秘伝の印だとしか言わなかった。だが八年前、若い士官だった俺は、熱を出した部下を連れて公爵領の施療院へ行ったことがある。そこへ瓶を届けに来た人が、同じ匙の印章で、その場で封をしていた」
覚えております。雪の日で、施療院の廊下に咳をする兵が十人ほど並んでいました。瓶が足りず、わたくしは台所を借りて、その場で追加の封をしたのです。
「あの時の方でしたの」
「ずっと礼を言いそびれていた。ありがとう。八年分と、兵たちの分だ」
ヴィクトル様は、胸に手を当てて頭を下げられました。
礼を言われるのに慣れておりませんので、どういう顔をすればよいのか分かりません。わたくしは手袋を外して、外したことを後悔しました。爪の間まで土が入っておりましたので。
ヴィクトル様は、その手をちらりとご覧になっただけで、何もおっしゃいませんでした。
「公爵家との契約は年に金貨二千四百枚。造った人の名を知らないまま、八年払ってきた。今年の荷が届いたら、中身を見て決める」
「わたくしの名は、公爵家に置いてまいりました。瓶の中身まで置いてきたつもりはございませんけれど」
「なら、造った人から直接買いたい。値は君が決めてくれ。ただ、それは君がどこで何を育てるか決めてからでいい。急がない」
ヴィクトル様は帰り際、門柱の外でもう一度振り返られました。
「また来てもいいか。今度は、薬の話以外もしに」
「……考えておきますわ」
馬が丘の向こうに消えてから、マルタが畝の間から顔を出しました。
「奥さま、耳が赤いですよ」
「日焼けよ」
「今は十月ですがね」
離縁の翌週、北から冷たい風が吹き下りてきました。
冬の咳病は、毎年この風と一緒にやってきます。熱はそれほど出ませんが、夜通し咳が止まらず、年寄りと小さな子は眠れないまま弱っていきます。
霜月に入って四日目の朝、公爵領の施療院から院長のイルザ様がいらっしゃいました。外套の裾が川霧で濡れています。
「アデル様。咳の患者が二百十三名になりました。公爵家へ咳止めを求めたところ、在庫はないと」
「東の蔵に、四百瓶あったはずですわ」
「王都の薬種商へ売られたそうです。離縁が成ったその週のうちに」
百四十八番目の項目を書いてから、七日と経っておりませんわね。
「新しく造った分は」
「それが」
イルザ様が差し出した瓶の中身は、茶色く濁っておりました。栓を抜くと、焦げた砂糖の匂いがします。タチジャコウソウの香りは、まったくいたしません。
「新しい園丁たちが、一晩で葉を乾かしたそうです。乾燥小屋の炉を、ありったけ焚いて」
十二日目、朱の丸。
それから十九日目の、熱いうちに入れた蜂蜜。
「辺境伯家の砦へも、同じものが千二百瓶出たそうです。峠の途中で軍医が一瓶開けて、その場で荷車ごと引き返させたと」
わたくしは乾燥小屋の棚を見上げました。この秋に刈って、三十五度で三日かけて乾かした、わたくしの畑の葉がございます。第十一条で、販路はわたくしが定めてよいことになっております。
「イルザ様。施療院へ、原価でお分けいたします。お代は瓶と蜂蜜の分だけで結構ですわ。今日から三日で、まず三百瓶」
「公爵家を通さずに、ですか」
「公爵家を通す理由が、どこにもございませんもの」
その晩から、マルタたち四人と交代で鍋の番をしました。煮詰めて、冷まして、蜜を入れて、封をする。封蝋の裏には、母の匙を押しました。
三日目の朝、荷車二台分の瓶が橋を渡っていきました。わたくしも荷台の端に乗せてもらいました。
施療院の廊下には、毛布にくるまった人が壁に沿って並んでおりました。咳の音が、石の天井に跳ね返って途切れません。
母親の膝で咳き込んでいた五つくらいの男の子に、イルザ様が匙を差し出します。
「半分よ。七歳より下の子は半分」
わたくしが申し上げると、イルザ様は匙の中身を小皿へ半分戻してから、男の子の口へ運ばれました。男の子は顔をしかめて、それから匙の裏まで舐めました。
「甘い」
「一日三回よ。夜、寝る前にもう一回。それでも熱が三日下がらなかったら、この先生に言いなさい」
男の子は頷いて、母親の胸に顔をうずめました。その夜、施療院からの使いが、廊下の咳がいくらか間遠になったと知らせてくれました。
治ったわけではございません。眠れるようになっただけです。けれど、冬の咳病では、眠れることがいちばん大事なのです。
元夫から書状が届いたのは、その翌日です。
月末の領主会議にて、前妻アデルが引継ぎを怠り、製法を隠して持ち出したことを訴える。王家監察官の裁きを受けよ、とのことでした。
まあ。
わたくし、ひと月かけて百四十八項目、隠さずお話ししたつもりでおりましたわ。
領主会議は、領都の古い議事堂で開かれました。
正面には王家監察官のグレゴール様。白い眉の老人で、手元の書類を読む時だけ眼鏡をかけられます。左右には近隣の領主が六名。末席には施療院のイルザ様と、辺境伯ヴィクトル様のお姿もございました。
元夫は、ロジーナ様を伴って立ち上がりました。ロジーナ様は今日も真珠を揺らしておいでです。
「前妻アデルは、薬草園の引継ぎを怠った。後任のロジーナには肝心なことを何ひとつ教えず、製法を持ち出し、今は施療院に薬を横流ししている。そのため公爵領には咳止めが一瓶もなく、領民が苦しんでいる。前妻には賠償と、薬の全量を公爵家へ納めることを命じていただきたい」
議事堂がざわめきました。何人かの領主が、わたくしのほうを見ます。
わたくしは立ち上がり、一礼しただけでした。
「エーベル殿、お願いいたします」
公証人のエーベル殿が、書記と二人がかりで木箱を運んできました。卓の上に、三十冊の帳面が積み上がります。その横に、表紙の厚い出席簿が一冊。最後に、離縁合意書の原本。
グレゴール様が眼鏡をかけ、合意書を読み上げました。第七条、第九条、第十一条。そして末尾の署名。
「ディートリヒ殿。これは貴殿の署名かね」
「そうだが、形式的なもので」
「形式は、この場で一番大事なものだよ」
グレゴール様は帳面の一冊目を開き、しばらく黙ってめくってから、出席簿に手を伸ばされました。
「読み上げよう。一日目、土の配合。出席。二日目、出席。三日目、出席。四日目、種まきの時期と挿し木。欠席、茶会のため」
議事堂の空気が、少し変わりました。
「十二日目、乾燥の温度、三十五度を超えないこと。欠席、茶会のため。十九日目、咳止めの配合。欠席、茶会のため。三十日目、東の蔵の四百瓶は冬の領民用、売らないこと。欠席、茶会のため」
グレゴール様は眼鏡を外して、数えるように指を折られました。
「出席は三十日のうち七日。欠席の理由のうち十九が、茶会だ」
「その字は、誰でも真似できる!」
元夫が声を上げた、その時でした。
「わたくしの字ですわ! 真似なんてされたら困ります!」
ロジーナ様が、元夫の袖をつかんでそうおっしゃいました。
議事堂のあちこちで、咳払いが起こりました。咳病ではないと思います。
グレゴール様は、ロジーナ様に向き直られました。
「ベルク嬢。貴女は公爵家から、製薬の調合責任者として届け出られている。三つだけ尋ねる。乾燥室の温度は何度までかね」
「……暖炉、くらい?」
「咳止めの配合は」
「草を乾かして、蜂蜜で煮ますの」
「蜂蜜を入れるのは、いつだね」
ロジーナ様は黙りました。それから、真珠の耳飾りに手をやって、泣きそうな声を出されました。
「だって、どれが大事かなんて、誰も言ってくださらなかったもの!」
わたくしは帳面の十二冊目を開き、グレゴール様の前へ置きました。
「三行目でございます。大事なところには、すべて朱で丸をつけてございます。十九冊目の配合にも、三十冊目の四百瓶にも」
それから、ロジーナ様のほうを向きました。
「ちゃんとお教えしましたわ。聞いていなかったのは、そちらです」
ロジーナ様は、口を開けたまま何もおっしゃいませんでした。
家令のハンスが、傍聴席から手を挙げました。
「申し上げます。帳面の写し三十冊は、毎朝わたくしがベルク嬢のお部屋へお届けしました。今朝の時点で、紐は一冊もほどかれておりません。衣装部屋の隅に積んでございます」
元夫の顔から、血の気が引いていくのが見えました。
グレゴール様は眼鏡をかけ直し、書類をもう一枚取り出されました。
「では、裁定を述べる。まず、前妻アデル殿に引継ぎの怠りはない。合意書第九条により、薬草園に関する責も負わない。第十一条により、施療院への販売はアデル殿の正当な販路である。横流しではない」
グレゴール様は、イルザ様から受け取った届出の束に目を落とされました。
「施療院の届出によれば、公爵領の咳病患者は二百十三名。この半月、彼らが飲んだ咳止めは、すべてアデル殿の瓶だ。公爵家の瓶は一本もない。領民を苦しめたのが誰か、ここで改めて述べる必要はあるまい」
元夫が何か言いかけて、口を閉じました。
「次。公爵家薬草園の製薬認可は、調合責任者が製法を説明できないため、本日をもって取り消す」
ヴィクトル様が、末席で立ち上がられました。
「辺境伯家から一つ。公爵家との咳止め供給契約、年に金貨二千四百枚は、本日をもって解除する。今年の荷は、焦げた砂糖水だった。砦の軍医が確かめた。契約書の品質条項に反する」
グレゴール様は頷き、最後の書類を読み上げました。
「最後に。監察官として公爵領の会計を改めたところ、辺境伯家からの代金は八年間、一度も領の金庫に入っていない。すべてディートリヒ殿の私的な口座へ入っている。領民用の四百瓶の売却代金も同様だ。王家の審理が済むまで、ディートリヒ殿の領主代行権を停止する。領政は先代公爵の後見人が預かる」
元夫は椅子の背をつかんだまま、座ることも立つこともできずにおられました。
会議が終わり、議事堂の廊下へ出たところで、元夫が追ってきました。
「アデル」
呼び方だけは、ずいぶん懐かしい響きでした。
「戻ってくれ。薬草園は君のものにする。ロジーナとは、もう終わりにする。君がいれば、認可もきっと戻る」
「ご遠慮申し上げます」
「なぜだ。君はあの園を大事にしていたじゃないか」
「ええ。大事にしておりました。ですから三十日かけて、百四十八項目、お渡ししたのです」
わたくしは外套の襟を合わせました。
「合意書は、最後の頁までお読みになりましたでしょう? 離縁は成立しております。施療院の分は、これからもわたくしがお届けいたします。公爵家を通さずに」
「それでは、公爵家の面目が」
「面目は、咳には効きませんの」
一礼して、わたくしは廊下の先へ歩きました。
ロジーナ様は、その週のうちに男爵家へ帰されたと聞きました。あれから茶会の招待状は、一通も届いていないそうです。
議事堂の外は、薄く雪が舞いはじめていました。
石段の下で、ヴィクトル様が馬の手綱を持って待っていらっしゃいました。
「送ってもいいか。川向こうまで」
「お願いいたします」
しばらく並んで歩いてから、ヴィクトル様がおっしゃいました。
「砦に来てくれと頼むのは、筋違いだと思っている。君は八年、他人の名前の下で薬を造ってきた。だから今度は、君が選んだ土地に、君の薬草園を作る手伝いをさせてほしい。場所も広さも、君が決めてくれ」
わたくしは足を止めました。
ここへ来い、と言われたことはございます。ここにいろ、とも。ここから出ていけ、とも。
どこがいいか、と尋ねられたのは、初めてでした。
「春まで、考えさせていただいても?」
「春まででも、その先まででも」
雪が解けた三月、わたくしはマルタと二人で、川沿いの丘をいくつも歩きました。
決めたのは、施療院へ向かう道と、北の砦へ向かう道が分かれる手前の、南向きの斜面です。
しゃがんで、指を土に差し込みます。第二関節まで。乾いていて、白い石灰の粒が指先に残りました。
「ここにいたしますわ」
ヴィクトル様は、黙って頷いてくださいました。自分の領地でもない丘の土を、自分で掘り返すための鍬を、もう鞍に括りつけておいででした。
その晩、わたくしは新しい帳面の一頁目に、最初の項目を書きました。
一、この園の土は、わたくしが選んだ。
「二項目めには、何を書くんだ」
覗き込んだヴィクトル様に、わたくしは帳面を閉じてみせました。
「さあ。何を書いてほしいのですか」
「いつか、俺の名前を。君がいいと思った時に」
ずいぶん遠回しな申し込みでございますこと。
「では、一か月。毎朝六時にこの丘へ来て、わたくしの話を聞いてくださいませ。そうしたら考えますわ」
「出席簿を用意しておいてくれ」
翌朝、六時の鐘より早く、丘の上に彼は立っておりました。出席簿の一日目には、角ばった大きな字で、ヴィクトル、と。
欠席の理由の欄は、結局一度も使われないまま、今も白いままでございます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。少しでもスカッとしていただけたら、下の★で評価をいただけると励みになります。
完結済みの長編『『無能な君との婚約は破棄する』と笑われたので、「かしこまりました」と領地の全収入を持って出て行きました』(全35話)も、作者ページからお読みいただけます。




