第3話 ユキママ来園
深い眠りの中、私は夢を見ていた。
前世の動物園、朝の検温。檻を開ける鍵の音。飼育員仲間たちの笑い声。
だが、その穏やかな夢は、突然の「震動」によって粉々に砕け散った。
――みしり。
石造りの家が、まるで見えない巨大な手に握りつぶされるかのように軋んだ。
私は跳ね起きる。寝ぼけ眼をこする暇もない。
肌を刺すのは、昨夜までの冷たい雨の感覚ではない。
それは、魂まで凍てつかせるような、絶対的な「拒絶」の冷気。
「……っ、何……!?」
隣で眠っていた銀色の塊――子狼が、びくりと身を震わせた。
彼女はまだ覚醒しきっていない蒼い瞳を彷徨わせ、細い足で立ち上がろうとして、よろりと転がる。
私は反射的に彼女を抱き上げた。その瞬間、窓の外が真っ白に染まった。
光ではない。雪だ。
昨夜の豪雨が、一瞬にして猛吹雪へと変貌している。
それも、ただの気象現象ではない。
意思を持った吹雪が、この家を包囲しているのだ。
――ズゥン。
再びの地響き。今度は近い。玄関のすぐ外だ。
本能が警鐘を鳴らし続ける。脳の奥底、前世から受け継いだ「剥き出しの自然」に対する根源的な恐怖が、私の足を竦ませる。
私は子狼を胸に抱いたまま、ゆっくりと玄関の方を向いた。
古びた木の扉が、外側からの圧力でたわんでいる。
私は知っている。
この圧迫感。この、周囲の空気が密度を増し、肺が凍りつくような感覚。
バルトロたちのような三流魔導師が口にしていた「魔力」なんて可愛いものじゃない。これは、世界の法則そのものを塗り替える「権能」だ。
「……お母さん、なの?」
私は掠れた声で呟いた。
腕の中の子狼が、クゥ、と高く澄んだ声で鳴いた。
それは怯えではなく、懐かしい温もりを呼ぶ声だった。
私は決意を固める。
逃げ場はない。
それに、もし外にいるのがこの子の親だとしたら、逃げる必要さえないはずだ。
私は一歩、また一歩と、冷気が漏れ出す扉へと歩み寄った。
震える指で、閂を外す。
開けた瞬間、爆風のような雪が室内に舞い込んだ。そして、私はそれを見た。
…………ああ。
言葉を失った。
そこには、山があった。
白銀の毛並みを波打たせ、吹雪をその身に纏った、巨大な狼。
見上げるほどに高いその背は、雲を突き抜けんばかりだ。
翡翠色の瞳は、一つ一つが家の窓ほどの大きさがあり、そこには悠久の時を生きる神性な輝きと、底知れない「怒り」が宿っていた。
伝説の幻獣、銀嶺狼。
冬を運び、大地の熱を調整し、世界の四季を巡らせる「理」の化身。
その巨大な爪が一振りされれば、この小屋どころか、この山一帯が消滅するだろう。
親狼の視線が、私の腕の中に固定される。
瞬間、周囲の温度がさらに数度下がった。
怒りだ。
我が子が人間に捕らえられ、無惨な姿にされていたことに対する、神の如き憤怒。
親狼の喉の奥から、地鳴りのような唸り声が漏れる。
空気が振動し、私の肺が圧迫されて呼吸が止まりそうになる。
殺される――
そう思った。
だが、その時、私の腕の中で子狼が必死に動いた。
彼女は私の腕から身を乗り出し、親狼に向かって「きゅん! きゅん!」と、一生懸命に鳴いたのだ。
それは、昨夜私に見せた、甘えるような、喜びの鳴き声。
親狼の動きが止まった。
翡翠の瞳が、驚愕に揺れる。
彼女は――その圧倒的な嗅覚と知性で、理解したのだろう。
目の前のちっぽけな人間が、我が子を害した者ではなく、死の淵から引き戻し、泥を拭い、慈しみ、その命を繋ぎ止めた恩人であることを。
吹雪が、急激に収まっていく。
親狼はゆっくりと、その巨体を折るようにして、地面に伏せた。
それだけで猛烈な風が起きるが、先ほどのような殺気はない。
大きな、あまりにも大きな鼻先が、私の目の前まで近づいてくる。
私は逃げなかった。
いや、逃げられなかったのもあるが、飼育員としての本能が言っていた。
ここで背を見せるのは、彼らの誇りに対する最大の侮辱だと。
親狼は、私の腕の中の子狼を、優しく、本当に優しく鼻先で突いた。
子狼は嬉しそうにその大きな鼻に頬ずりをする。
その光景は、神話の一幕のような荘厳さと、動物園で何度も目にした「親子」の深い愛情に満ちていた。
やがて、親狼は顔を上げ、私をじっと見つめた。
感謝。
言葉を超えた意思が、直接脳内に響くような感覚。
だが、その瞳には悲哀も混じっていた。
私は気づく。親狼の四肢には、細かな、だが深い傷が無数にあることに。
そして、その体から発せられる冷気が、どこか安定を欠いていることに。
……そうか。
前世の知識と、この世界の伝承が繋がる。
彼女たちは休めないのだ。
世界が壊れないよう、熱を吸収し、冬を維持し続けるために、24時間365日、戦い続けなければならない。
絶滅危惧種となり、同族がいなくなった今、彼女は「ワンオペ」で世界の重荷を背負っている。
だから、我が子を育てる時間さえない。安全な場所に隠しておくことすら、ままならない。
「……大変だったね。一人で、ずっと」
気がつけば、私は口を開いていた。
相手は神に近い存在だ。だが、今の私には、育児ノイローゼ寸前でボロボロになりながら、それでも必死に我が子のために働く「母親」にしか見えなかった。
親狼は、一瞬だけ瞳を細めた。
理解された、という安堵だろうか。
すると、彼女は信じられない行動に出た。
器用にも巨大な前足の爪を使い、周囲の岩壁から剥ぎ取った「滑らかな石の板」を、私の足元にそっと置いたのだ。
そして、彼女は自分の爪を一瞬だけ口に含み、唾液――いや、それは高濃度の魔力液か――で湿らせると、その石の板に、不器用に一点の「足跡」を押し付けた。
ぐっと、押し込まれた肉球の形。
それは、契約だった。
あるいは、対話の始まりだった。
彼女は人語を話せない。
発声器官が魔法的な冷気を出力することに特化しすぎているからだ。
だが、彼女は伝えようとしていた。
『この子を、預かってほしい』
『私は、行かなければならない』
『代わりに、これを』
石の板の横に、彼女は口から何かを吐き出した。
それは、眩いばかりの光を放つ、巨大な結晶。
王立施設の宝物庫に眠っているどの魔石よりも巨大で、純粋な、フェンリルの心核にも等しい極大魔石。
国一つが買えるほどの価値があるそれを、彼女は「お月謝」だと言わんばかりに無造作に置いた。
「……これ、お迎えの時に渡す『連絡帳』にしたいってこと?」
私が石の板を拾い上げると、親狼は短く、肯定するように「オン」と鳴いた。
その鳴き声は、空気を震わせる咆哮ではなく、一人の親として、もう一人の信頼できる大人へ送る、切実な挨拶だった。
私は、石の板をしっかりと抱きしめた。
重い。物理的にも、そして託された責任も。
だが、私の心には、昨日までの絶望は微塵もなかった。
「わかったわ。任せて。……この子は、私の命に代えても健康に、元気に育ててみせる。あなたは安心して、あなたの仕事を全うして」
私は家の中から一本の炭を取り出し、その石の板に、大きく、力強く書き込んだ。
【入園おめでとう! 今日はミルクをいっぱい飲みました。】
親狼は、その文字をじっと見つめた。
読めているのかはわからない。だが、そこに込められた意思は伝わったはずだ。
彼女はもう一度、我が子の頭を愛おしそうに舐めると、決然と顔を上げた。
一陣の猛烈な風が吹き抜ける。
次に目を開けた時、そこにはもう、山の如き巨躯はなかった。
ただ、遠くの空で、一筋の銀光が雲を切り裂き、世界の調和を守るために飛び去っていくのが見えた。
足元には、キラキラと輝く国宝級の魔石。
胸には、温かな鼓動を刻む子狼。
そして手元には、世界で最も豪華で、最も重い「連絡帳」。
「……さて。ちびちゃん。……いや、『ユキ』にしようかな。ユキ、これから忙しくなるよ」
私は、静まり返った森の中で、新しい「日常」の始まりを予感していた。
魔力がないと捨てられた女が、世界を統べる守護神の子供を預かる。
それは、この国……いや、この世界の常識が、根底から覆り始める瞬間でもあった。
私は石の板に刻まれた、不恰好な肉球のスタンプをそっとなぞる。
ひんやりと冷たいその感触は、私にとって、どんな魔法の契約書よりも頼もしい「信頼」の証だった。
―――――あとがき―――――
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