第18話 商会からの来訪者
窓の外、太陽の光が森の境界線をゆっくりとなぞり始めていた。
私は、部屋の中央に据え付けた頑丈な木製作業台に向かい、一振りのノミを手に取っていた。
手元にあるのは、昨夜「夜の王」が置いていった、あの巨大な星霜黒曜石だ。
「……ふぅ。よし、始めましょうか」
ちまっこい私の身体では、この巨大な石の塊と向き合うだけでも一苦労だ。
けれど、私はこの瞬間を、今日という一日の始まりを、プロとしての高揚感と共に迎えていた。
王立施設にいた頃の私は、ただの雑用係として、幻獣たちのストレスを肩代わりするだけの「部品」だった。
けれど、今は違う。
私はこの保育園の園長であり、前世の知識をもとに、彼女らの生活環境を整える「飼育のプロ」だ。
今、私の足元では、新入りのヨルが、期待と不安の混じった翡翠の瞳で作業を見つめている。
彼女の「影」は、まだ時折波打ち、主人の不安定な情緒を鏡のように映し出していた。
昨夜の暴走は収まったが、赤ん坊である彼女にとって、溢れ出す「夜の魔力」を常に肉体の中に留めておくのは、あまりに過酷な重労働なのだ。
これをどうにかするのが、私の最優先事項だ。
「ヨル、そこに座っててね。あなたの影が、一番心地よく収まる場所を作ってあげるから」
「……にゃあ」
ヨルは、私の言葉を理解したのか、行儀よく前足を揃えて座った。
その隣では、ユキが「わたしの時はそんな特別なもの作ってくれなかったのに!」と言いたげに、不満そうに鼻を鳴らしながらも、私の作業を邪魔しないように距離を保っている。
ルウは好奇心に満ちた瞳をしながらも、私の作業の邪魔をしないように、ユキの隣でちょこんと座っている。
私は、ノミの先端に僅かな力を込め、黒曜石の表面に滑らせた。
キィィィィィィィン……ッ。
耳を劈くような高周波が、静かな朝の空気を震わせる。
普通の石ではない。数千年の夜を吸い込んだ「理」の結晶だ。
一削りするごとに、石の内部に閉じ込められていた濃密な闇が、美しい燐光となって空気中に弾け飛んだ。
私は、前世で学んだ「結晶構造」と「光の回折」の知識を総動員する。
ただ削るのではない。
ヨルの影が、この石の中に「流動」できるような、微細な溝を表面に刻んでいくのだ。
削り出された石の粉末が、朝日を浴びて極光のように輝き、部屋の中に幻想的な光の帯を描き出した。
それは、魔力を持たない人間が見れば「天国からの贈り物」に見えるほどに美しく、魔導に精通した者が見れば「国を揺るがすほどの魔力源」が露呈した瞬間に他ならなかった。
……あ、しまった。少し力が強すぎたかな。
予想に反し、石の破片がユキの吐き出す冷気と混ざり合い、目に見えるほどの「魔力の奔流」となって、屋根の煙突から空へと昇っていく。
それはまるで、この辺境の森の奥に「宝の在処」を示す、巨大な標識を立ててしまったようなものだった。
「……手早く済ませた方が良さそうね」
私は、自分の腕に刻まれた昨夜の傷を、清潔な包帯で巻き直しながら、作業を進める。
その時の私は、まだ知らなかった。
この「光の柱」を、王都の欲深き者たちが、どのような眼差しで見つめていたかを。
◆
同じ時刻。王都、黄金の街区。
そこには、一国の予算に匹敵する富を動かすと言われる『黄金の天秤商会』の本部があった。
「……これは、何だ?」
商会主、ギルガート・ゴールドマンは、執務室の中央に置かれた「お宝感知水晶」の前で、呆然と立ち尽くしていた。
古の賢者が作ったとされるその水晶は、半径数百キロ以内にある「未知の財宝」や「高純度の魔力源」に反応して発光する代物だ。
通常、それは微かな琥珀色の光を放つ程度だが、今はどうだ。
水晶は、内部から叩き割れんばかりの激しい『極光』を放ち、周囲の魔導計器が異音を立てて次々と焼き切れている。
「主、主様! 北の辺境、かつての深緑の森付近から、測定不能の魔力反応です! これは、伝説のオリハルコンか、あるいは……神の心臓の顕現かと!」
血相を変えて飛び込んできた部下の報告に、ギルガートの脂ぎった顔が、陶酔と強欲に歪んだ。
「北の、あの忌々しい森か……。呪われた地だと思っていたが。……まさか、これほどまでの『金』が眠っていようとはな」
ギルガートは、自分の首元にある贅肉をさすりながら、冷酷な笑みを浮かべた。
彼は商人だ。美徳や倫理など、金貨一枚の価値もないと思っている。
彼にとって、この「極光」は、自分をさらなる高みへと押し上げるための踏み台に過ぎない。
「腕利きの鑑定士を呼べ。それから……盗賊ギルド『黒い犬』に連絡しろ。商談が成立しなかった場合の『回収作業』の準備だ」
「よろしいのですか? あそこには、王都の飼育員を解雇された『不気味な幼女』が住み着いているという噂ですが……」
「フン、たかだか飼育係のガキだろう? バルトロが無能だったから、あんな小娘に舐められたのだ。第一級魔導飼育士などという肩書きも、金の力の前では無力だということを教えてやる」
ギルガートは、特製の「鑑定眼鏡」を磨きながら、窓の外の北の空を見上げた。
そこには、ネネが無邪気に放った「夜の残り香」が、天を突く光となって揺らめいていた。
◆
数時間後。
保育園の静かな昼下がりは、不快な金属音と、威圧的な馬のいななきによって破られた。
「もきゅっ!?」
庭でユキとヨルを見守っていたルウが、驚いて私の背後に隠れた。
ユキは銀色の毛を逆立て、ヨルは足元の影をドロリと広げ、侵入者に対して明確な「殺意」を向け始める。
森の木々を無理やりなぎ倒し、現れたのは三台の重装馬車だった。
馬車の側面には、天秤を象った黄金の紋章。
そして、その周囲を固めるのは、全身を黒い革鎧で包み、禍々しい魔導武器を構えた「黒い犬」の傭兵たちだ。
馬車の扉が開き、そこから丸々と太った、宝石まみれの男が降りてきた。
彼はハンカチで額の汗を拭いながら、蔑むような、そして獲物を品定めするような下卑た眼差しで、小さな私を見下ろした。
「やあ、お嬢ちゃん。……いや、元・雑用係殿かな? こんな辺境のあばら家で、随分と贅沢な『隠し財産』を溜め込んでいるじゃないか」
私は、手にしたティーカップをゆっくりとソーサーに置き、無表情に彼らを見つめた。
ああ、またこのパターンか。
王都の人たちって、どうしてこうも、学習能力がないのかな。
「どなたかは存じませんが、ここは個人の敷地であり、保育園です。アポイントのない方の立ち入りは、園児たちが怖がりますので、お引き取りください」
「はっはっは! 保育園だと? 化け物の子供を囲い込んで、おままごとか。笑わせてくれる。……まあいい。単刀直入に言おう」
男は、懐から一枚の羊皮紙を取り出し、私の足元に放り投げた。
「その家にある『黒い輝石』、および、そこにいる銀狼と黒猫。すべて私が買い取ってやる。王都の相場の10倍は出すぞ。お前のような小娘には一生かかっても使い切れない額だ。……これにサインしろ。そうすれば、命だけは助けてやる」
私は、足元に落ちた紙を一瞥すらせず、男の瞳を真っ直ぐに見返した。
その時、私の背後で、ユキの周囲の温度が絶対零度に向かって急落し、ヨルの影が男の足元へと、音もなく伸びていった。
「お断りします」
私は、極めて平穏な声で告げた。
私の内側で、かつての飼育員としての「静かな怒り」が、冷たく、深く、結晶化していくのを感じていた。
「……それに、言っておきますけど。その石も、この子たちも。あなたたちには『重すぎ』ますよ。……死にたくなかったら、今すぐその紙を拾って帰りなさい」
私の警告は、欲に目が眩んだ男の耳には、負け惜しみの遠吠えにしか聞こえなかった。
「……交渉決裂だな。……野郎ども、やれ! 女は殺すなよ、化け物の御し方を吐かせる必要があるからな!」
男の合図と共に、傭兵たちの剣が抜かれた。
だが、彼らはまだ気づいていなかった。
自分たちが踏み込んだこの「保育園」が、もはや人間界の法も常識も通用しない、生きた「神域」そのものであるということに。




