第1話 ユキとの出会い①
―――――まえがき―――――
今作はカクヨムの方で完結の127話まで先行公開しております。
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鼻を突くのは、重苦しく淀んだ魔力の残り香と、消毒薬の安っぽい刺激臭だ。
王立幻獣飼育施設、第零特殊檻。
ここは「国宝級」と称される幻獣たちが収容される、この国で最も権威ある場所……のはずだった。だが、私にとっては、ここはただの「知識の墓場」にしか見えない。
「――おい、新入り。聞こえているのか? その『ゴミ』を処分しろと言っているんだ」
背後から飛んできたのは、ひび割れた鐘のような不快な声だった。
振り返らなくてもわかる。この施設の主任であり、自称「第一級魔導飼育士」のバルトロだ。
金糸で刺繍された豪華な法衣を身に纏い、その肥満した指にはいくつもの魔力増幅リングが食い込んでいる。
彼は幻獣を「神聖な生き物」として敬っているふりをしながら、その実、自分の出世のための道具としか見ていない。
私の足元には、鉄格子に囲まれた冷たい石畳の上に、一つの「塊」が転がっていた。
大きさは犬の赤ちゃんほどだろうか。
だが、本来あるべき美しい毛並みは粘りつくような泥と排泄物にまみれ、もはや何色の獣なのかも判別がつかない。
呼吸は浅く、細い肋骨が皮一枚を押し上げるようにして、絶望的なリズムで動いている。
「バルトロ主任。この子はゴミではありません。銀嶺狼の幼体です。まだ生後1ヶ月も経っていない、極めて希少な……」
「黙れ、魔力なしの欠陥人間が!」
バルトロが吐き捨てるように怒鳴った。彼の足元から放たれた威圧の魔力が、私の頬をかすめて壁を削る。
この世界において、魔力はすべてだ。幻獣を育てるのも、使役するのも、すべては「魔力による同調と支配」によって行われる。
魔力を持たない者は、どれほど知識があろうとも「飼育員」とは認められない。
私は、その「魔力なし」というレッテルを貼られながら、ただの雑用係としてここに留まっていた。
「フェンリルの幼体だと? 笑わせるな。フェンリルと言えば、生まれた瞬間から周囲の気温を氷点下に下げ、銀光を放つ魔力の塊だ。だが、その汚泥の塊を見ろ。魔石測定器は『ゼロ』を示した。魔力を持たない幻獣など、ただの肉塊に過ぎん。王家への献上品としては不良品……いや、ゴミも同然だ」
バルトロは手にした杖で、ぐったりとした子狼の腹を乱暴に突いた。
クゥ、と。
消え入りそうな、けれど確かに「痛み」を訴える声が、石造りの冷たい部屋に響いた。
その瞬間、私の中で「前世」の記憶が、熱いマグマのようにせり上がってきた。
そうだ。私は覚えている。
かつて、コンクリートと鉄柵に囲まれた現代の動物園で、私は一人の飼育員だった。
そこには魔法なんてなかった。あるのは、観察眼と、統計学と、生物学。そして何より、言葉を持たない彼らの「サイン」を読み取るための執念だけだった。
象のわずかな歩き方の違和感、猛獣の瞳の濁り、赤ちゃんの排泄物の色。
それらすべてに理由があり、論理があった。
魔法で無理やり力を流し込み、無理やり立たせることのどこが「飼育」だというのか。それはただの「お世話」ですらない。命の搾取だ。
「……触るな」
私の声は、自分でも驚くほど冷えていた。
「なんだと?」
「その子に、汚い杖で触るなと言ったんです。バルトロ主任、あなたのその『魔導飼育』が、この子を殺しかけているんですよ」
私は膝をつき、泥まみれの子狼を抱き上げた。
重い。物理的な重さではなく、失われようとしている命の重さが、私の腕を通じて心臓に突き刺さる。
冷たい。震えている。
バルトロたちは、この子が「銀嶺狼」だからと、周囲を強力な『火の魔石』で加熱し続けていた。凍りつくような冷気を放つはずの狼が熱を発していないから、外から温めればいいという短絡的な思考。
だが、私の知識は違うと告げている。
フェンリルは「冬を連れてくる種族」だ。彼らの体温調節機能は、周囲の熱を吸収し、それを体内で「冷気」へと変換する代謝システムに基づいている。
つまり、周囲を熱すれば熱するほど、彼らの体内エンジンはオーバーヒートを起こし、変換効率が飽和して自壊する。
今、この子が魔力を発していないのは「無能」だからじゃない。
間違ったケアによって内臓が炎症を起こし、代謝が停止しかけている「重度の熱中症」と「多臓器不全」の状態なのだ。
「お前……。自分が誰に口を利いているかわかっているのか? ただの雑用係の分際で、この私が間違っていると言うのか!」
「ええ、間違っています。この子に必要なのは魔力の注入じゃない。まずは体温を下げ、適切な水分補給を行い、そして何より、この劣悪な環境からの隔離です。このままではあと1時間も持ちません」
「ふん! なら勝手にしろ! だがな、新入り。お前は今、この瞬間をもって解雇だ。王立施設の備品一つ持ち出すことは許さん。その『ゴミ』が死んだら、お前もろとも野垂れ死ぬがいい!」
バルトロは顔を真っ赤にして叫び、施設の外を指差した。
外は、皮肉にも土砂降りの雨。
冷たい雨。だが、私にとってはこれ以上ない「救い」に思えた。
「わかりました。喜んでお受けします。こんな、動物をモノとしてしか扱えない場所、こちらから願い下げです」
私はボロボロの制服の裾を引きちぎり、それを泥だらけの子狼に巻きつけた。
バルトロは鼻で笑い、衛兵たちに私をつまみ出すよう命じた。
施設の大門が、重苦しい音を立てて閉まる。
冷たい雨が容赦なく降り注ぎ、私の視界を遮る。
手の中の塊は、もうピクリとも動かない。
だが、私にはわかっていた。微かに、本当に微かに、私の胸に触れている部分から、小さな、けれど必死な鼓動が伝わってきている。
「大丈夫だよ……。私が、絶対に助けてあげるから」
私は雨の中に踏み出した。
向かう先は、人里離れた辺境の森。かつて変人と呼ばれた私の祖父が遺した、古びた小屋。
国に見捨てられ、魔法に見捨てられ、無能の烙印を押された一人の女と、一匹の赤子。
背後で、王立施設の高慢な塔が雷鳴に照らされる。
あそこにいる連中は、まだ気づいていない。
彼らが「ゴミ」として捨てたこの小さな命が、どれほど巨大な力を秘めているのか。
そして、その「親」たちが、我が子を汚した人間たちに対して、どのような怒りを抱くことになるのか。
私は走り出した。
腕の中の小さな命を、自分の体温で温めすぎないよう――フェンリルにとっては、人間の体温すら「熱すぎる」可能性があるからだ――細心の注意を払いながら、ぬかるんだ道を進んでいった。
雨は次第に激しさを増していく。
私の150cmにも満たない貧相な体を突き刺すように降り注ぐ。
けれど、私の心は不思議と静かだった。
前世の動物園で、難産だったライオンの出産に立ち会ったあの夜のように。
衰弱したペンギンのヒナを、一晩中スポイトで給餌し続けたあの時のように。
私の指先は、すでに「救うための方法」を組み立て始めていた。
「見てなさいよ、バルトロ。魔法がなくても、命は輝ける。……それを、証明してあげるから」
一人と一匹の影が、闇の中に消えていく。
それが、後に「世界最強の聖域」と呼ばれる保育園の、あまりにも静かで、泥臭い始まりだった。
―――――あとがき―――――
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