7 汐入の願い
渋滞に巻き込まれることなくタクシーは自宅前に無事到着し、アパートの階段をよろよろとした足取りで昇った。俺の頭の中にもやがかかったみたいだ。ぼうっとしながら玄関扉を開けて、何も考えずにリビングの床にどさっと倒れた。ぬいぐるみサイズのリアーピが、申し訳なさそうに倒れた俺の顔の傍に近寄り、くぅんと鼻を鳴らしていた。
「我が天使、もしかしておせっかいがすぎましたか」
「いやあ~……そうだな、否定はしねえわ」
辻堂に再会できたことが、嬉しくなかったと言えばウソになる。でも、リアーピの突発的な行動に振り回され、負う必要の無かった傷を受けたのも事実で、隠しようのないことだった。けど、目の前の生き物が純度百パーセントの気持ちで、このサプライズをやってのけてくれたのは分かる。しょんぼりと頭を下げたリアーピに、俺は気にすんなと頭を撫でた。
「俺が、はっきり言わなかったのも悪かったよ。アイツ、俺の憧れでもあるんだけど、元々知り合いでさ。んで、喧嘩別れした気まずい相手なんよ」
それは本当のこと。卒業後、忘れたくても忘れられなかった、抱え込んできた過去。説明するためとはいえ、自分で言って苦しくなるほど、複雑な思い出。寝転がった床から、壁に貼られたポスターを見上げる。きらきらのアイドルスマイルの辻堂は、なんの邪気もなくこちらに微笑みかけてくれている。先ほどまで辻堂の家に居たが、最後までアイツがあんな風に弾ける笑顔を、俺に見せてくれることは無かった。まあ、仲の良かった学生時代でさえ、辻堂は白い歯を見せて笑うタイプではなかったが。
「楽しかったよ。二度と会えないと思ってたけど、こうして最後に会えたんだから。もう俺としては満足よリアーピ。お前もさっさと帰んなさい」
俺がゴミ捨て場で妙な気まぐれを起こしてから、異世界の獣と名乗る不思議な生き物にさんざん振り回されたわけだけど、結果としてこれでよかったのかもしれない。俺はきっと女々しくも、あの思い出を胸に刻み込んでうじうじと生きていくんだろう。何年か経って、あいつとの会話が思い出せなくなってもずっと、ことあるごとにあいつのことを、少しだけ思い出しては心の中に隙間風が吹くんだろう。
だけどリアーピは、曇りのないつぶらな目で、俺のことをじぃっと見た。
「ほんとによろしいんですか、我が天使」
「いいよ。アイツと最後に会えただけで、もう心残りは」
「嘘ですよね」
ぴたっ、と俺の鼻に、リアーピに少し湿った鼻がぶつかった。至近距離でのぞき込まれてドキっとする。俺のことを天使天使と甘い声で呼びかける声音とは違う。いつになく真剣で、重みのある声色だった。
「我が天使、本当は辻堂様に、特別な思いがおありなのではないですか」
「な、なに、ないよ」
「あなた様にとって辻堂さまは、信仰の存在であり、旧友。そして喧嘩別れした仲。それは間違いないのかもしれません。けれど、それだけではありませんよね。あなた様は本当は――辻堂さまを、お慕いしていらっしゃいますよね」
「……は」
乾いた笑いって本当に出るんだな。喉がからっからになった俺は、作り笑いを返すくらいの陳腐な反応しかできない。リアーピはさらに俺に近づいてきたもんだから、ぶちゃ、と濡れた鼻がさらに面積広く俺にくっついた。
「ですから! 辻堂様に恋慕を抱いていて、あの方とともにありたいのではないですか?」
「うわあああああああ!」
リアーピの堂々たる宣言に俺は絶叫して起き上がった。コンマ一秒で隣の住人からドン、と壁を叩かれた。やめてくれリアーピ、このアパート壁が薄いんだ。しかも、リアーピの声が他人に聞こえないのであれば、俺は一人で大絶叫していることになるし、いや今はそんなことどうでもいい。
「なっ、なん、なん」
リアーピの指摘に衝撃を受けすぎて、言葉がすんなり出てこない。同じような単語を何度も繰り返す俺は、冷や汗をたらりと額から流した。俺が慌てふためいても、リアーピは涼しい顔でなんのそのだ。
「隠さずともわかります。辻堂さまとご対面した我が天使の変わりよう。確かに居心地が悪そうで、お二人とも気まずそうでした。けれどその大きな感情の隅に見え隠れする細やかな心の動きを、私は見逃しませんでしたよ。浮かれてそわそわし、脈拍は上昇し。視線はそわそわと行ったり来たり。これくらい、私めでも気づくのです」
「えっ、え、え、」
「ご安心ください。私めの鋭い嗅覚や視覚を以て為せる技ですので、ヒトが気づくことはないと思われますよ」
それを聞いて一安心した。辻堂にはバレてないってことだ。はああ、と大きくため息をつく。
それにしても出会って間もないリアーピに、ここまで言い当てられるとは思ってもいなかった。さすがは異世界の神獣だ。俺が秘めて秘めて、墓場まで持っていこうと誓って心の奥底に仕舞いこんでいた気持ちを引きずり出されて、はっきり言って狼狽した。ここまで言い当てられてしまえば、逃げも隠れもできない。仕方なく俺は、もう二度と表に出すことなんてないだろうと思っていた、こっぱずかしい「恋心」というやつを、心の陰から引っ張り上げた。
「俺は、確かに辻堂のことがまあ、好きだけど……さっきも言った通り、アイツには嫌われてんのよ。だから、もうアイドルやってるアイツ追いかけるくらいでちょうどいいのよ」
「……我が天使」
諦めとか、努力不足とか、そんなんじゃない。
今日辻堂と再会して、抑え込んでいた恋心がふわりと浮き上がった。そして、絶望した。絶縁したあいつと、友達として肩を並べることもままならないなら、あとは思い出と共にしょっぱい失恋を受け入れるだけ。
「でも……我が天使! 私はおめおめと元の世界に帰るなどできません」
勢いよくリアーピは胸元に突っ込んできた。ぐりぐりと頭をこすりつけている。ぬいぐるみサイズ状態だからまだ耐えられているが、これが元の姿だったら胸に穴が開いていたかもしれない。
「気持ちは嬉しいけどリアーピ、こればっかりはどうにもできない。今も、好きだよ。”あんなこと”が起きなければずっとそばに居たかった。あんなに怒ることなかったよなって。ちゃんと話し合えば良かったよなって、でも」
「――どうか頑張ってみませんか」
それは、今まで考えもしなかった選択肢だった。
――頑張る。
不意に言われたワードに、正直言うととてつもなくびっくりした俺自身がいた。なんとかしてあげる、じゃない。頑張ってみないかと言われた。
それはリアーピが願いを叶えるのではなく、俺自身の力でなんとかしないか、という提案だった。
「が、頑張るって何」
「私めは、愛をつかさどる神ではありませんので、恋愛成就などできません、ですが仲を取り持ち、あなた方の仲違いを解くお手伝いくらいはさせてほしいのです。私にできるのは、あくまできっかけ作りだけです」
「……」
「恋い慕う相手と仲違いした理由まではお聞きしません。けれど何かしらの事情がおありだったのでしょう? 今でもそのお方の絵姿を毎日見つめるほど、なにかを後悔していらっしゃるのではないですか?」
もしもリアーピが……恋愛の神様だったら。思いを繋げてあげますよと甘い言葉で言われたら、俺はどうしていたんだろう。きっと、即座に拒否していただろう。そんなものはいらない。他人の力でどうこうしてもむなしいだけだ。俺は断固拒否して再び恋心を封印していただろう。
けど、関係の修復を頑張ってみないかと言われた。それは俺にとって思ってもみない言葉だった。
「頑張る……って」
いいよそんなこと。無理だもん。気持ちは嬉しいよ、ありがとう。
胸の奥から浮かんできたその言葉たちが、ぱちぱち弾けて消し飛んだ。いつもみたいに笑えばいい、へらへら笑って、気にしてないって言えばいい。
なのに言えないのは――リアーピがかわいいからだ。そう、それ以外ない。
「うん……関係修復くらいは、したい。仲直りは、したいんだ」
せめて、頑張ってみるよと言いかけた俺の顔面は、炸裂したリアーピ体当たりによって阻まれた。
「それでこそ我が天使です!」
「痛てぇぇ!」
どん、と床から倒れ込んで、後頭部に激突した。もしかして下の住人から天井ドンを食らうかも。でもしっぽを振り回してるリアーピがかわいいからいいか。
とにもかくにも俺は――仲違いしている友人、もとい片思い相手との仲直り作戦を、俺を天使と呼び慕うリアーピに見守られながら、決行することとなってしまった。
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