4 目に見える亀裂
どうやらここは、都内一等地に位置するマンションの、エントランス前に設置された植え込みだったようだ。
黙りこくった俺と辻堂の間には、それはそれは重い空気が流れていた。ただでさえ、もう二度とコイツと会うことなんて、ましてや会話することなんてないと、きっと互いに思ってた。それなのにあっちからしてみれば、そんな相手がいかにもといった寝起き姿で、自分の家の前の植木に突っ込むように倒れていたのだ。恐怖体験にも近いのかもしれない。
だが、上から下まで俺のことをじろじろ眺めた辻堂は、俺に対して不審な眼差しを向け続けつつも深いことは聞かず、とりあえず家に入れと促してきた。俺は遠慮して首を横に振ろうとしたが、今の俺には帰るための金もない。電車に乗るICカードもない。今の俺の手持ちは、リアーピ曰く朝食にぴったりな謎の食べ物くらいしかない。おとなしく従うしかなかった。
そんなこんなで俺は、家の鍵がカードキーであることや、そのカードキーをタッチしなければ目的の階に到達できないマンションのエレベーターなんかに驚きつつ、マンションの一室に通された。おじゃましまあす、と小声で呟いても無反応の辻堂にびくびくしながら、リビングの、いったい何人掛けなんだよと突っ込みたくなる無駄なデカさのソファに小さくなって座り込んだ。
辻堂は俺を放置して黙ってキッチンへ向かってしまい、独りぼっちだ。ぎゅ、と腕の中の宝石もどきを抱きしめた。
「……り、リアーピ、リアーピ?」
辻堂に聞こえないくらいの小声で、すっかり消え去ってしまったリアーピに、試しに呼びかけてみる。
「はい、お呼びでしょうか我が天使」
「おわっ!」
するといつの間にか、もこもこぬいぐるみ姿のリアーピが俺の膝の上にころんと乗っかっていた。不意に現れたリアーピに、俺は情けない悲鳴を上げてしまった。
「な、お前どこに居たんだよ」
「申し訳ありません。天使をお届けする最中、勢いあまって別の場所まで吹っ飛んでしまいました」
「そんなことある?」
「……汐入。お前なに一人でぶつくさ言ってるんだ」
リアーピのお茶目エピソードに俺が突っ込みを入れていると、キッチンでの作業が終わったらしい辻堂が、マグカップを両手にこちらへやってきて、テーブルを挟んで俺の正面へ座った。俺の前にもひとつ、コーヒーの入ったきれいな空色のマグカップが置かれた。このマグカップひとつでも、俺の家にあるマグカップとは桁がひとつかふたつ違うんだろうな、と余計なことを考えた。
辻堂の言ったことに引っかかった俺は思わず聞き返す。
「”ひとり”って」
「独り言にしては大きすぎるだろ。やっぱお前可笑しいんじゃないか、頭。そんな恰好で植木に突っ込んでるくらいだし」
余計な一言が過ぎる。思わずカチンときた俺は反論しようとソファから立ち上がりかけたが、膝の上のリアーピが、俺の鳩尾に目掛けて軽くタックルした。恐らくは、俺の怒りを鎮めようとしてくれたんだろうが、痛いものは痛い。リアーピは小さいサイズでも、体当たりの威力は相当なものだった。
「ぐっ……」
「我が天使。この者に私の姿は見えてませんよ。力を取り戻した今、私は助けていただいた貴方さまにしか姿を見せる気はありません」
そういうことは前もって言っておいてくれ! と俺は心の中で叫び散らかしながら、鳩尾を摩る。不審な仕草をする俺に、再び怪訝そうに眉をひそめた辻堂が、なにかを探るように俺を見つめたものだから、「こほんこほん」とわざとらしく数回咳払い。俺は、怒りをぐっと抑えて、なんとか喉元から礼の言葉を引き出した。
「ま、まあ、助けてくれて、ありが……」
「――単刀直入に聞くが、なんであんなところに居たんだ、汐入」
俺が必死の覚悟で口から吐き出した感謝の言葉は、ばっさりと遮られてしまった。足を組んだ辻堂の凍てつく視線に、俺は背筋がぴんと伸びる。だがここで、リアーピの話をしたところで、おちょくってるのかと辻堂の怒りを買うだろう。ただでさえ、あんな別れ方をした俺のことを、辻堂はよく思っているはずがないのだから。
「ナー……なんだろうな。俺も憶えてないんだけど、なんかあ、この付近で飲んでた気がするんだよなあ。すっげー記憶飛ばすほど飲んだから、そのせいかもしんねえわ」
嘘だ。俺はそもそも下戸だ。酒なんて一滴も飲めやしない。ただ、最後にコイツと会話したのは学生時代だし、俺が酒を飲めないことは知らない。我ながら苦しい言い訳でしかなかったが、これくらいしか摩訶不思議現象を誤魔化す方法はない。
「はあ……お前、そんな無茶な生活してるのか」
けど、そもそもなにがどうなったら寝間着で植木に突っ込む羽目に合うんだ、と詰め寄る辻堂は半信半疑だ。確かに酒を飲んでいたにしても、寝間着姿で無一文なのは、辻堂からすれば怪しすぎるだろう。俺はそれらしいことをぺらぺらと矢継ぎ早に捲し立てた。
「ま、まあ、いろいろ? たぶん、誰かの家に行って、寝間着借りたんだと思うわ。泥酔してて、ふらふら出歩いてこんなところで倒れたのかもしんねえ。でも、財布とか、携帯とか、たぶん飲んでたやつん家にあると思うから。だから、問題ないってか」
「俺に迷惑をかけてる時点で問題大ありだがな」
今は訳あって縁が切れたが、腐っても旧友だ。どんな言い回しをすれば俺が頭にくるか承知の上でこんな言い方をしてるんだろう。だが、こっちは助けてもらった身。反論も激昂も論外だ。俺は黙ってコーヒーに口を付けた。
――沈黙が気まずい。
俺は重く垂れこめた静けさに負けず、こっそりと辻堂を盗み見た。対面に座っていてもわかるくらい伏せた長いまつげが印象的で、綺麗だ。窓から朝日を浴びてコーヒーを飲む辻堂は、学生の頃よりも、ぐんと格好良くなっていた。コイツの活動はきちんと追っていたから、もちろん直近のルックスなんて知り尽くしてるものの、実物を間近で見れば見るほど、想像以上の破壊力抜群だった。
「……なにも聞かないんだな」
沈黙を破ったのは辻堂のほうだった。
「へ? な、なにが」
「お前なら、二十一歳のご身分でタワマン暮らしかよ、どんな職業に就いたんだよ違法労働者! くらい煽ってくるかと思ったんだが」
「俺、お前がなにしてるかくらい知ってるし」
意外だ、と言わんばかりに片眉を上げた辻堂は、ふんと鼻で笑った。
「へえ。俺のことなんて興味ないと思ってたが」
「――興味はねえよ。けど、お前の顔が写った巨大ポスター、駅前で何回見たことあると思ってんだよ。そんなの見たら、なにしてるのかくらい嫌でも知るだろうが」
嘘だ。
俺はわざわざ、喧嘩別れしたコイツの動向を追っていた。ついでに言うと、デビューする前のオーディションの時からちゃんと情報を追ってたし、メジャーデビュー時にはデビューシングルCDを、およそ口にはできないくらい大量購入した。
でも言えない。そんなこと口が裂けても言えるわけはない。
……だって俺たちはそんな仲ではなくなったのだから。
「……俺は知らなかったな」
「なにが」
「汐入が、酒カスみたいな生活してて、ど派手な金髪にするような趣味だったこと」
ああこれのこと、と俺は前髪を指でつまんだ。白に近い、何度もブリーチしたプラチナブロンドの髪の毛は俺のこだわりだ。ピアスも、両耳に三つずつ穴を開けた。俺たちは校則の厳しい学校に通っていた。だから辻堂の記憶の中の俺は、一度も染めたことのない真っ黒なストレートヘア、穴一つない耳たぶ、そして首元のボタンをしっかり留めて、ネクタイを緩ませずきゅっと絞めた、若かりし俺なんだろう。
「かっけえだろ?」
俺が自慢するように軽く頭を振ると、辻堂は無表情で俺を品定めするように目を細めた。
「いかにも、テンプレートなイキり倒してる大学生みたいで、面白いな」
「……」
面白いなんてこれっぽっちも思っちゃいない返答が返ってきた。
暖かいコーヒーを飲んでいるはずなのに、なんだか寒気を感じる。俺たちの間には凄まじい猛吹雪が吹き荒れている。
やっぱり、目の前のこいつは、”あの時の別れ”をそのまま引きずっている。
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