1 未知との遭遇
「貴方こそ、私の天使です」
きらきら輝くつぶらな瞳で、じぃと情熱的に見つめれても、困る。誇大された称賛の言葉を貰っても、これっぽっちも嬉しくない。現に、目の前の黒曜石みたいな真っ黒なまんまるの瞳に、眉を下げて困惑しきった俺の表情が映し出されていた。
「貴方のお願いをなんでも叶えて差し上げます。いえ、ぜひとも叶えさせてください。私の天使」
いいえ結構です、そんな拒否の言葉は、見事に俺の喉元で突っかかった。
きゅううん、と切なく鼻を鳴らす、そんな愛くるしい姿を見ても、どちらかといえば恐怖が勝る。
どうして、どうしてこんなことになったんだ。
◆
――俺が薄汚れたもこもこを拾ったのは、昨晩のことだ。
「……なんだこれ」
それはバイトを終えて、部屋に入る直前のことだった。小雨が降りしきる中、傘を差すのも面倒で、適当にフードを被り小走りでアパートへ向かっていた。そういえば明後日がゼミの課題の締め切りだったことを思い出した俺は、ずしりと胃が重たくなった。手厳しい教授が、眼鏡の奥できらりと鋭く眼差しを光らせる光景を思い浮かべ、背筋がぞわりと震え上がる。昼間にまかないを食ってから今に至るまで、なにも腹に入れてないはずなのに、なんだか胃もたれ気分だ。すきっ腹で寝る気はない、家に帰ったら昨晩の余りものでも適当に食ってから寝よう。濡れたアスファルトで足を滑らせないように、慎重且つスピーディに帰路について、さあ家も目前だと、ごみ収集所の前に差し掛かった時、”それ”はあった。
「……」
例えるなら、まるで大きな綿の塊ようだった。ところどころ泥で汚れているが、もしかしたら元は真っ白だったかもしれない。
もしも、これがただの綿であることに確証が持てたなら、小雨が降り注ぐ中のごみ収集所なんかスルーして家に入っただろう。けど、なんだかその綿が、微かに動いている気がしたのだ。いや見間違いか? 確信が持てなかった俺は、思わず足を止めた。
そっと忍び足で近寄り、指一本で突っつく。想像を遥かに超えたふわふわ加減で、差し込んだ指は、あっという間に第二関節まで吸い込まれてしまった。慌てて指を引っこ抜いてたたらを踏んだ。だが、綿の中に差し込んだ指には微かにぬくもりが残っていた。これはやっぱり、ただの綿の塊なんかじゃない。ええい、と思い切って、俺は白い綿を、両手で持ち上げてみた。
抱えた途端、まんまるのフォルムだと思っていたその綿の塊から、たらん、と長いしっぽのようななものが飛び出してきて、けれど力なく垂れ下がった。綿に顔を近づけてよくよく見てみると、犬みたいな鼻が真ん中にくっついている。高まる疑惑を胸に、綿を指でそっとかき分けると、瞳らしきものも見つかったが、その”らしきもの”はしっかりと閉じられており、本当に瞳なのかはよくわからない。おまけにウサギよりも長そうな耳が、へにゃり、と下に向かって尻尾のように、元気なく垂れている。
見れば見るほど、これは綿でもぬいぐるみでもない、俺の見たことのない生き物だった。
「わ、やべえ、息してるか?」
微かに動いていたのだから、そりゃあ生きているとは思ったが、慌てて鼻に耳を近づけてみる。ぴすぴす、と呼吸音だか分からない、浅い音が聞こえた。
一瞬頭をよぎったのは、厳しいアパートの管理人と、ペット厳禁の規則。
(ま、一日くらい大丈夫だろ)
ここで見捨てるほど、俺も冷たい人間じゃない。俺は急いで、着ていたパーカーの内側にもこもこを包みいれて小雨から庇うと、さっさと自宅へと逃げ込むように駆け込んだ。
動物病院に連れて行こうにも、そもそもペットを飼っていない俺は、近場の病院など当てがないし、こんな真夜中じゃ、とっくに閉まっているだろう。それに、そもそも俺は生き物にそんなに詳しいほうじゃないから、この生き物がどんな種類なのか見当もつかないし、説明もできない。とにかく拾ってしまった以上、俺にできることをやろう。もこもこしているとは言え、濡れて冷えてしまっている体を温めてあげたい。俺は自分の濡れた体は放置して、乾いたバスタオルでもこもこを拭った。
長いしっぽと長い耳も、きちんと先っぽまで丁寧に水滴を拭いとって、やがてバスタオルが真っ黒になるころには、もこもこの汚れもだいぶ落ちて、きっと丸洗いすれば真白になるだろうというレベルにまでなっていた。
「……コイツ、風呂入れていいのか」
できることなら湯舟に入れて温めてやりたい。けれどいきなりお湯で温めてもいいものかと逡巡する。弱り切った生き物を湯に入れて、無駄に体力を消耗させていいんだろうか。万が一、このふわふわもこもこの水分が乾ききらなくて、さらに冷やしてしまったらどうしよう。
結局、知識の無い俺がたどり着いた答えは、ドライヤー。ぶおおおお、と激しい音と暴風でもこもこを温めつつ、バスタオルでは拭いきれなかった水分を乾かしていく。
ドライヤーの風圧と爆音で、もこもこの目は覚めるかと思ったが、結局乾かし終わっても、最後まで毛に覆われた瞳を開けることはなかった。もしかしたらこのままでは、もこもこは朝を迎えられないかもしれない。それでも、拾ったからには最後まで責任を持とうと俺は決意した。
一通りもこもこを乾かしきった後、俺は烏の行水みたく急いで風呂を浴びた。もこもこに対する丁寧さとは雲泥の差で適当に髪を乾かして、焦りで足を滑らせながらも、タオルケットを敷いたベッドの上に寝かせていたもこもこを見に行くと、先ほどと変わらずくうくうと音を立てて眠りこけていた。心なしか、さっきよりも和らいだ表情に見えるが、俺には動物の表情の機微なんてものは一ミリも分からない。そのまま布団にもぐりこみ、もこもこを胸に抱える。
朝には元気な姿をみせてくれますように。らしくもなく、そっと祈りを捧げて、俺は胸の中のもこもこをきゅっと抱きしめた。
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