蘭陵王伝 第6章 桃花の華燭 清河王府の夕べ ⑩
長恭は、文叔が女子で、自分の結婚の相手だと敬徳に告白した。初めは怒っていた敬徳も、祝意を示し婚約の祝の宴を開くことになった。
★ 和解の『短歌行』 ★
十月になると、鄴都では鈍色の空からは細かい雪がちらほらを降リ始めた。粉雪が鄭家の大門の瓦をうっすらと白く染めている。王青蘭が鄭家の門の前で待っていると、鈍色に染まった小路を長恭の馬車が近づいてくる。
「待たせてしまったか?」
香色の外衣をまとった高長恭は、馬車から降りると青蘭によってきた。馬車に乗ると、初冬の寒気が隙間から忍び寄って来る。
青蘭は膝の上に『短歌行』の巻物を広げた。
「師兄、これでいいかしら」
曹操の『短歌行』が端正な筆致で記されている。青蘭の手蹟を渡してしまうのは悔しいが、約束とあれば仕方がない。
「敬徳様が、婚約祝の宴をひらいてくれるということは、本当なの?」
青蘭には、敬徳に殴られたことは言っていない。
「ああ、わだかまりを捨てて、祝ってくれるそうだ」
青蘭は、ほっとため息をついた。
★ 冬の清河王府 ★
高敬徳は、書房から清河王府の雪に染まった後苑を見渡した。
父の高岳が多くの財をかけて造営した斉でも有数の庭園だ。そして、神仙の住まう山河を映したような見事な庭園は、粉雪が積もってよりいっそう幽玄な姿を見せている。
しかし、この屋敷の風景は美しいが空虚だ。かつては父や母の声が響き、姉や自分が遊んだ後苑も、今は人影もなく空しく整美されているだけだ。
高敬徳は窓を閉めると、几案に座り上奏の書類を手に取った。
敬徳が青州刺史の職から侍中に昇進して鄴都に戻ってきてみると、好意を抱いていた青蘭が長恭の許婚になっていたのだ。文叔が女子の青蘭であったことを隠していたのは、暗衛の調べによって知っていたが、いきなり懿旨により賜婚とは驚いた。
その出自と容貌ゆえに、長恭は多くの女子が好意を寄せている。しかし、長恭は、女嫌いで通っている。母親が高家で虐げられたからだろうか、浮いた噂を聞いたことがない。皇太后からしいられた婚姻を、長恭が喜んで受け入れるとは思えない。峻厳な長恭は、婚儀を挙げても冷え冷えとした結婚生活になる恐れがある。はたして、強いられた結婚で、文叔は幸せになれるのだろうか。
長恭の馬車が到着したとの知らせが来た。
「偏殿に通せ」
三年前、父の高岳が讒言により刑死した時に、高帰彦への敵討ちを密かに誓った。そのため敬徳は降るようにもたらされる婚姻話を避けて来た。王青蘭との縁談と顔合わせも、江陵の内情を探るための口実に過ぎなかった。
しかし、王文叔は、なぜか敬徳の凍り付いた心に柔らかな風を運んでくれた。この屋敷に王文叔に似ているという姉を迎えたら、温かい家庭が取り戻せるのではないかと夢想したのだ。しかし、全てが遅かった。自分が青州から戻る以前に、長恭と青蘭の婚姻は決まってしまっていたのだ。
★ 雪の中の訪問 ★
敬徳は、長恭を通した客房の隣に入った。使わなくなった茶器や贈られた書画などを保管するぼうである。父高岳が亡くなって初めて気が付いたが、客房の様子を隙見する仕掛けが設けられていたのだ。敬徳は、客房側の壁に掛かけてある花鳥の壁飾りに顔を寄せた。絵の所々が覗き穴になっており、客房の飾り彫りに繋がっているのである。
敬徳は、気付かれずに青蘭と長恭の自然な様子を観てみたいと思った。
侍女に案内された長恭と青蘭が客房に入ってくる。香色の外衣をまとった長恭は、絹張りの窓を開けて青蘭を見た。窓の向こうには睡蓮池の辺に植えられた楡の木に雪が積もっているのが見える。
「いい庭だろう?」
長恭は、こぼれるような笑顔で青蘭の顔を覗き込んだ。
「御祖母様に引き取られた後、よくこの屋敷に遊びに来た。優しい母、導いてくださる父、温かい姉、自由に遊べる後苑。私には得られないものばかりだ。羨ましかった」
「師兄・・・」
青蘭は、二人の時にも兄弟弟子の関係らしい。青蘭が、隣に立つ長恭を見上げる。青蘭は珊瑚色の襦裙に葡萄色の外衣をまとい、高い髷には紫水晶の花簪が飾られている。
「その頃の私は、独りぼっちで何もなかった」
婁皇太后に引き取られたころ、長恭と二人で後苑で遊んだものだった。長恭はそんなことを考えていたのか。敬徳は、両親を失い皇太后府で寂しく生活してきた長恭の孤独を思った。
「師兄、私と二人で新しいの家を造ればいい」
青蘭が笑顔で長恭の腕に手を置くと、長恭が後ろに回ると青蘭の両肩を抱きしめた。
「身体が、こんなに冷たくなっている」
長恭は手に持った藍色の披風を、後ろから青蘭に着せ掛けた。長恭は披風の上から青蘭の両肩を抱きしめると、青蘭の首筋に唇を寄せて何かをつぶやいた。
堂々たる色男ぶりだ。妓楼にも行かない長恭がこんな手練手管をいつ学んだのだ。
その時、笑い声がして花簪の歩揺がシャランと揺らめいた。
「師兄、不意打ちは貴公子として、卑怯・・・」
青蘭は振り向くと、美しい眉を上げて睨んだ。
「青蘭、孫子も『兵は、詭道なり』と言っている」
「こんなところで・・・孫子とは、・・・幼稚」
青蘭は紅を佩いた唇をとがらせると、長恭の頬をつまんだ。
「年上の私に幼稚とは・・・」
頬をつままれた長恭は笑い声でそう言うと、青蘭の頬に唇を寄せた。
青蘭は長恭を師兄と呼んでいた。許婚といいながら、二人は仲のよい兄弟弟子のようだ。しかし、あんなに笑顔で女子に戯れる長恭を初めて見た。懿旨により婚姻を強いられて、二人は冷え冷えとした関係かと思った。しかし、長恭も青蘭に好意を寄せているようだ。
いつの間にか惹かれていたゆえに、長恭は青蘭との婚姻を自分に隠していたのかもしれない。敬徳は絵から顔を離すと、溜息をついた。腹の底から湧き出るこの苦しさは、嫉妬なのか。
敬徳は居房に戻ると、長恭達を居房に案内するように命じた。
★ 友情を守る ★
居房で待っていると、ほどなく回廊に気配がして長恭が青蘭を伴って現れた。
長恭は、香色の外衣を優雅に着こなしている。披風をぬいた青蘭は、珊瑚色の長裙、吉祥紋を刺繍した優雅な葡萄色の外衣をまとっている。
長恭と青蘭が敬徳に、挨拶をしようとすると、
「長恭、ここは皇宮ではない。二人の間で改まった挨拶などいらぬ」
敬徳はことさら笑顔を見せ、長恭の両肩をたたいた。
「敬徳、約束の手蹟を持ってきたぞ」
長恭は持参した櫃から、巻物を取りだした。
「見せてもらおう」
三人が卓の周りに座ると、長恭は、箱から表装した巻物を出した。
短歌行 曹操
青青たる 子の衿
悠々たる我が心
但だ君が為の故に
沈吟して今に至る
青い衿の若者よ
我が思いは尽きぬ
ただ君のためにこそ
深い胸の内をいまもうたう
青蘭の端正で力強い文字が、曹操の志を表現している。
曹操は後漢の末、混乱の中で兵を挙げ、中原を支配した英雄である。『短歌行』は曹操が各地の群雄の元にあった文人を配下に収め天下統一を狙っていた時の詩賦である。優れた若者を、我が陣内に求めたいと歌っている。しかし敬徳は、ここでは転用する前の『詩経』の恋の歌に戻しているのかも知れない。、
「敬徳様、私の書法では、曹操の宇氣には及ばない。けれど、敬徳様に絵を描き加えてもらえば、曹操に相応しいものになるわ」
青蘭は、何心なく笑顔を見せた。青蘭は自分に対する嫌避の感情は見えない。長恭を殴ったことは、青蘭には話していないようだ。
「ありがたい。絵を描き入れたらまた披露しよう。実は、二人に婚約の贈り物がある」
敬徳は巻物を入れた箱を仕舞わせると、朱塗りの小ぶりの櫃を取りだした。中には赤青の房の付いた二つの白玉が入っている。
「結婚の祝いに白玉を贈ろう。職人に特別に作らせた」
芙蓉を彫った上質の白玉である。敬徳に嫌みの一つでも言われるかと覚悟していた長恭は、上等な贈り物に肩透かしを食らった思いだった。
「二人は、これからも変わらず、俺の朋友だ。敬兄と呼んでくれ」
先日は感情に走って殴ってしまった。しかし、三人の関係に友情という名前を付けるなら、これからも付き合っていける。二人の婚姻を許せるかもしれない。
「ありがとう。大切にするよ」
長恭は、玉佩の入った櫃を懐にしまった。
★ 本当の理由 ★
数人の侍女が料理と酒器を捧げ持って入って来た。卓の上には、川魚の蒸し物、鳩の羹など豪華な江南の料理がならべられた。
「今日は、江南の料理と酒を用意した。青蘭には懐かしい故郷の味をゆっくり味わってくれ」
侍女が酒杯に赤い酒を注ぐと、三人は、瑠璃の酒杯を手に持った。
「長恭と青蘭の婚約を祝して、一献ささげよう」
「敬徳と青蘭との変わらぬ友情に感謝して」
敬徳は、だまって婚約したことを許してくれたのだ。青蘭は酒杯に口をつけながらもまぶたが緩んだ。
「結婚後は、皇太后府をでるのだろう?」
敬徳は何気なさを装って訊いた。皇子が結婚をすれば、皇宮を出ることになる。多くは、後ろ盾の一族が所有する屋敷を改修して新居に当てる。しかし、長恭の財力で、里戚に屋敷を買うことは難しいだろう。
「御祖母様がかつて住んでいた屋敷を譲ってくれるそうだ。そこに手を入れて移り住むつもりだ」
敬徳は、料理を口に運んだ。
「婚儀はいつ頃なのだ」
「三月頃を予定している」
「そうか、来年は出征を予定しているが、それほどかかるまい。出席できると思う。ぜひ招待してくれ」
納采の宴には招待されなかった敬徳は、念押しをした。江陵から脱出したときは、若葉のような少年だったが、髷を結い簪を刺した今日の青蘭は眩しいほどの臈長けた美しさを見せている。
「ああもちろんさ、ぜひ来てくれ」
「青蘭は、学問を続けるのだろう?」
敬徳は笑顔になると、青蘭の器に料理を取り分けた。
「ええ、そのつもりだけれど・・・」
青蘭はあいまいに言うと、目を伏せた。
「『思うて学ばざれば、則ち殆し』と孔子も言ってる。友として応援するよ。長恭そうだろう?」
成婚後に青蘭が学堂を辞めたら、二人きりで会う機会もなくなってしまう。
「ああ、そうだな・・・」
はっきりと答えられない自分がもどかしい。長恭は、敬徳をにらんだ。敬徳なら難なく青蘭に学問を続けさせるにちがいない。
敬徳が、瑠璃の酒杯に酒を注いだ。
「そう言えば、『黄帝内経』の写本を手に入れた。青蘭に贈ろう。書房の書架にあるので、取ってきたらいい」
「えっ?『黄帝内経』?敬兄上、そんな貴重な物をいただいてもいいの?」
「私の所に置いておいても、役な立たない。取ってくるがいい」
青蘭は、家人に案内されて出て行った。
「お前は、嘘を嫌う謹厳な男だ。青蘭が男の子だと偽っていたのを許せたのか?」
長恭は頑固で、妻として娶るのは本当に好意を持っている女子だと言っていた。自分への嘘を簡単に許せるとは思えない。
「皇太后の命だからと娶るのでは、青蘭が気の毒だ。本当に愛することができるのか?」
「敬徳、愛情にもいろいろあるだろう?友としての友情が、妹への親愛の情になってもおかしくない。よく見れば青蘭は愛らしく、性格は善良だ。この腕に抱けば・・・」
敬徳は、酒杯に口をつけた。長恭が青蘭に抱いているのは、妹としての愛情なのか。
「青蘭は、若い娘だ。お前にすっかりのぼせ上がっているのだ。それでも、青蘭を泣かせるようなことがあったら、許さない」
敬徳は、飲み干した酒杯を卓に置くと、長恭をにらんだ。
「旦那様、青蘭様が書物の場所が分からないと・・・」
清河王府の家人が客房に入って来て敬徳に告げた。
「書架の分かりやすいところなのだがな・・・ちょっと見てくる」
敬徳は立ち上がると、一緒に行くという長恭を振り切って房を出た。
書房に入ると、雪模様の薄日が差し込む中で青蘭が、書架を探している。
「書架を探したけれど、見付からなくて・・・」
書架の竹簡を検めていた青蘭が振り返った。
「見付からないか?・・・竹簡ではなくて青色の表紙だぞ」
敬徳は東側の書架においてある物入れを開けた。
「おお、ここにある。これだ・・・」
敬徳は、青い表紙の写本を差し出した。青蘭が中をめくってみると、楷書で端正に写されて『素問』の一部である。
「敬徳様、ありがとうございます」
「ほら、敬兄上と言ってくれ」
青蘭は、写本を両手で抱きしめると、礼を言った。
「なあ、青蘭、一つ訊きたいのだが、・・・江陵で私たちは顔合わせをするはずだった。なぜ、君は江陵からにげたのだ?」
元々見合いは断る気だった。敬徳は南朝の事情を偵察するために出掛けたのだ。しかし、縁談の相手が青蘭だったと知った時、逃げ出した理由が気になりだしたのだ。
「女子にとって、婚姻は一生の大事。でも、あの時の婚姻は父の政略だった。私は見ず知らずの男子に嫁がなければならない自分の人生を取り戻したくて、江陵を出たの・・・悪いことをしたわ」
「もし、縁談の相手が俺だと知っても、断っていたのか?」
鄴への道程で知り合った敬徳に助けられた時には、有り難い思いが湧いた。しかし、それが恋情かと問われると、ちがう気がする。
「さあ、それは・・・でも、一生を決める婚姻の相手は、しっかりと納得して決めたいから。多分縁がなかったと思う」
青蘭は、互いに想い合っている男子とではないと、婚姻はできないと言っているのだ。
「そなたは、長恭との婚姻に納得しているのか?」
もともと懿旨は、なかなか父の返事が来ないために出してもらった急遽の策だったのだ。しかし、それは敬徳には話せない。
「それは、師兄とは共に学問をしてきたので、気が合うのです。だから、二人の縁を大切にしたいと思っている」
青蘭は、写本を両手で抱えると満面の笑みを浮かべた。
青蘭が、葡萄色の外衣の背中を見せて、回廊を戻っていく。今その背中を抱きしめたら、取り戻せるだろうか。皇太后に掛け合ったら、懿旨は取り消せるだろうか。様々な策が頭をめぐったが、敬徳の唇は何も発することができなかった。
長恭と青蘭が想い合っている様子を垣間見た敬徳は、青蘭への想いを封印するのだった。そして、青蘭の学問を応援しながら幸せを願おうと決心したのだ。