恋心は雨に濡れて、バスに揺れて
雨粒の音で目覚めると、決まっていつも寝起きがいい。カーテンを開け、降りしきる雨を確認し、私は少し伸びをする。
遅れて鳴る携帯のアラーム。半年前に雰囲気だけで選んだ洋楽の曲は、たぶん、愛だの恋だのと歌ってる。アーティストさんにはごめんだけど歌詞を知らない。英語のリスニングも苦手なの。でも、いい曲なのは間違いないから、明日も聴くからね。設定を変えるのが面倒くさいとか、そういう理由じゃないからね。また明日。
曲名も思い出せない洋楽に別れを告げてアラームを止める。そして私は洗面所に向かった。
髪を濡らしてドライヤーで乾かす。そして櫛を通す。私の髪は湿気に弱くて、雨の日はアホ毛が多い。だから丁寧に、丁寧に、梳かす。そしてヘアワックスをなじませる。顔を洗ったら化粧水、そして乳液を塗る。
毎朝眠い目を擦りながら、同じルーティンを繰り返していると、時々ふと思う。この手間は誰のために? 恋人がいるわけでもないのに。
女の子は見た目が全て。そんな考えって今どきじゃないと思う。それを公言する人はちょっとダサいまである。だけど知らぬ間に、自分がその価値基準にのまれている気がして、恥ずかしくなるときがある。私は自分が誰にどう見られたいのか、分からなくなるときがある。
学校の制服に着替えて、軽く朝食を済ませて家を出る。玄関を開けると、雨粒の音が大きくなる。傘をさして歩道を歩いていく。大きな水たまりは避けて歩いて、小さな水たまりはジャンプで飛びこえる。
バス停に着いた。誰もいない。すぐにバスが来て扉が開いた。だけど、これには乗らない。戸惑っている運転手さんに気まずい微笑みで会釈すると、扉は閉まり、バスは走り出した。バスの後ろ姿に、ごめんなさいと気休め程度の念を送っておいた。
私は次のバスを待ち呆けた。
雨は止まない。今日はずっと雨らしい。天気予報でチェック済みだ。
雨がアスファルトを打つ音が好き。薄暗い空が落ち着きをくれて好き。雨上がりの大自然を包んだような、あの匂いが好き。雨上がりの空の眩しさが好き。
昔の私は雨が嫌いだった。それがいつからか、雨を好きになっていた。
それはきっと……
ようやく次のバスがやってくるのが見えた。その横を並走して走る男の子がいる。煩わしそうにビニール傘を片手に持って、水たまりを踏みつけて走る男の子の姿が。
それはきっと、あいつのせいだ。
先にバスがやってきて、停車した。私は乗車して、一番後ろの一つ前の座席に座る。そこが私のいつもの場所だった。
そして、あいつが入ってきた。同じ学校、同じクラスの日野涼太が。
「うわ! やっぱがらがらやんなー」
そんなことを言いながら、日野は一番後ろのシートに座った。私の斜めうしろ。反対側の窓の席に。
「運転手さんに聞こえちゃうよ」
「おお! おはよ! 葉月」
「おはよ……」
日野の声は男子高校生らしくエネルギーに満ちていて、私はいつも圧倒されてしまう。
『ガラガラですが、出発しまーす』
運転手さんの声。
「聞こえとったみたい」
日野は二カッと笑った。本当にニカッと音が出たみたいな自然な笑顔だった。「すんません!」と運転手に向かって声を飛ばす。
バカ。私は口を大きく動かして、けれど小さくささやいた。うっさいわ。と日野も小声で反抗する。座席を挟んだ向こう側で、日野の目が笑う。たぶん、この距離感が一番心地いい。
「めっちゃ濡れたわ! さいあく!」
日野は制服の肩に乗っかる水しずくを手で弾いた。しずくは隣のシートに落ちて、青い繊維の中に染みていく。
「しっかり傘ささんから濡れるんよ」
「それな。走ると傘ってじゃまなんよな」
「走るなし」
「それなー」
何も考えてないような相槌。何も考えてないような顔。最近わかったけれど、男子って定期的に頭を空っぽにしないといけないらしい。そういうところって普段ならちょっとむかつくけれど、突然うらやましくなったりする。女の子はみんな、勝手にあれこれ考えすぎるんだ。
「でもなー。走らんとバス乗り遅れるんよなー」
「もっと早く家出れば解決じゃない?」
正論は嫌いや! と馬鹿みたいに大きな声で日野は叫ぶ。子供か! と私が馬鹿にすると、日野は笑った。マッシュの前髪が目にかかる。それ以外はビショビショなくせに、髪だけはきれいに濡れていない。
髪切ったんだ。日野の前髪が少し短くなっていることに私は気付いた。だけど、気づいた。とは言わない。日野だって、なにも言わないから、これはお互いさまなんだ。5cm切った後ろ髪。日野はたぶん気づいてさえいない。私だけ気づいたなんて、なんか負けた気がするから、私からは絶対に言うもんか。と意味もなく息巻いた。たった数cm切っただけで気づいてほしいなんて、ただのわがまま。そんなこと分かってる。
私のプライドと羞恥心が、いつも私のじゃまをする。
「帰りも雨なんかな」
日野はつぶやく。こんなとき、髪切ったね。かっこいいね。なんて、なにも考えていないふりをして言えちゃう女の子は絶対に恋愛上級者だ。
「今日はずっと雨みたいよ」
「そうなんかあ……。雨はテンション下がるんよな」
「わかる」
嘘。分からない。いいじゃん、雨。て言葉をぐっと堪えた。だって雨が降ってなかったら、今日、君と私はまだ会っていないんだよ。
「ていうかさ」
「ん?」
目を見開いて、大きな黒目が私に向いた。
「このまえ、私が教えたドラマ見た?」
「おー見た見た! 韓国のやつな」
日野は前のシートの背もたれに肘をのっけた。肩が制服を持ち上げて、茶色いベルトが見えた。Yシャツの裾がベルトからとび出てる。
「ヒロインの子めっちゃ可愛かったわ!」
「いや感想そこなん?」
なんなんその感想。男子高校生かよ。いや男子高校生だったわ。こいつ。格好だけ垢ぬけて、勝手に大人びて見えるだけだ。実際は、濃いめの男子高校生。
「私もあんな顔なりたいわ。整形しよかな?」
そしたらきっと、日野は私に可愛いと言ってくれる。
「いや必要ないんちゃう? おまえは」
私の言葉を冗談と捉えたのか、日野は笑う。
雨音が心臓をたたいた。それに応じるように私の心臓は鼓動する。
それはどう意味ですか。具体的に訊いてみたい。だけど、そんな勇気、私にない。訊いたら、いろいろガチになっちゃうわけだし。
「かわいいもんな。わたし」
「なんかいうてるわ」
可愛く見えろ。と念じながら私は笑う。あの韓国ドラマのヒロインのように笑顔がかわいかったら、日野のハートを掴めるのだろうか。かわいく笑う女の子に憧れる。ああなりたい。それをしたい。こう言ってほしい。日野といると、わがままで幼稚な私が浮き彫りになる。
「もうこんなところか! バスだとあっというまやん!」
日野は窓の外を眺める。雨に濡れた街の景色を。うす暗いせいなのか、街の色素が薄く見える。店の看板に描かれた、ヘンテコな熊のキャラクターが雨粒を流して泣いている。あの看板が見えたということは、学校はもう近い。
窓ガラスに映る私の顔。無表情の奥に、さびしさを隠してる。いつからだろう。こんなに本気になってしまったのは。
「晴れの日もバス乗ればいいのに。そっちのほうが楽なんやし」
「いや晴れはチャリ一択やろ。帰りに寄り道できんくなるしな」
「そっかあ」
平気な顔をして私は言う。少しだけ、胸が苦しい。
「部活の後にあいつらとバカやるのが楽しいんよなあ」
しみじみとして日野は言った。男子高校生の彼は、あり余るエネルギーのはき場所を常に探している。そのエネルギーの無数にある矛先が、一つとして私に向けられないことがたまらなく悔しい。
私の気持ちを照らし合わせたかのように、空気は湿っている。私の髪は湿気に弱い。窓ガラスの反射で確認すると、髪は数本、うねって跳ねていた。あんなに丁寧にまとめたのに。
どうしてなん。さいあく。ふざけんな。私は手で髪を押さえつけてみるけれど、それじゃなんの意味もないことを散々に知っている。
「あれ? ちょっとまって」
日野が席を移動して、ぐっと私に距離をつめる。私のほぼ真後ろに。日野は後ろの座席から覗きこみ、私の頭を見下ろした。
ああ。最悪だ。見つかった。これでも頑張ってケアしたんだよ。頭の中で言い訳をいくつも準備する。
「髪きった?」
は?
振り向くと、日野の顔が近くにある。その距離は心地よくない。
バスの振動が、雨音が、私の胸の鼓動にかぶさった。
「うん。切った」
思いがけず口角が上がりそうになる。我慢しろ。にやけるな。わたし。
「日野も髪切ったん?」
「おう! きったきった! よく気づいたやん」
嬉しそうに、屈託なく笑う顔が日野らしい。そんな分かりやすい性格が日野のいいところだと思う。私もこんなふうに、素直に笑えばいいんだ。絶対にそっちのほうが、人として魅力的だ。
バスが停車して、私たちは降りる。それぞれ傘をさして歩いた。狭い歩道で並んで歩くと場所をとるから、私は日野の後ろを歩く。
「いいじゃん。雨」
その言葉を、私は雨粒の音の中に隠した。日野が振り返る。
「え? なに?」
「なんもいうてないよ」
「そっかあ」
日野の後ろ姿を自然と目が追う。いつかこの道を、一つの傘で歩けたら。そんな恥ずかしい妄想をしてしまう。
天気予報では明日も雨らしい。
日野が踏みつけた水たまりを、私はジャンプで飛びこえた。