2章 何度でもぶっかけます 5
「この病気、子供しか発症しないはずじゃなかった?」
ハスキーボイスの女が言う。
音を消したタブレットにはカノのあの画像が流れていた。
「なのに、なにこれ。加工?」
「違う」
対面に座ったスーツ姿の男が言う。
場所は去年オープンしたホテルの高層ラウンジだ。
青白く光るテラスの手すりが幻想的に夜を照らしている。湾岸エリアの夜景が楽しめるよう、テラスの床は一部透明な素材でできていた。そのせいでそこに立っている客はさながら宙に浮かんでいるように見える。
ふたりがいるのは奥まった席で、居ながらにして夜景が楽しめるよう、一段高い場所につくられていた。
女は画像を途中で制止させ、じっくりと観察してから言った。
「彼女は成人女性に見えるわね」
「まあ、実は違っていても驚かないが」
「いいえ、違うわ」
ハスキーボイスの女は断言する。
「この人私と同年代よ。変異してわかりにくいけど、あごからのどにかけてでわかる」
十代ではない、かといって三十代より上でもない。そうね、二十代半ばから後半にかけて。女の年齢は首に出るのよ。
自信を持って言う彼女に、男は唇の端をちょっと持ち上げた。
「そういうことじゃねえよ。実は子供だけじゃなく大人も発症するということを、国は公表してない可能性もあるって話だ」
ふたりがいるのは半個室のようになったソファ席だ。背もたれが半円を描いて目隠しにもなっているそのあたりは、空間が贅沢に広くとられているため、話し声は隣の席まで聞こえない。
ああ、そっち。女は軽く肩をすくめる。
「興味深いわね」
それで? と女は首をかしげた。
鏡面のような黒髪が首の動きに合わせて流れる。
「儲け話なの?」
「儲け話じゃなきゃ、お前を呼ばない」
「相変わらず目端がきくこと」
「こういう動画を見てぴんと来ないようじゃ、ヤクザなんてやってられねえよ」
男の声は心地よく低いので、トレイを持って動き回るボーイたちの目には、若い男女がタブレットを挟んで歓談しているようにしか見えない。
「で、いつできる?」
「それほど待たせないわ。すぐよ」
「すぐか」
「すーぐ」
歌うように言って、女は足を組み替えた。クリスチャンルブタンのグラマラスなヒールが薄暗い照明の中で赤く光る。
「その前に聞いておきたいの」
「なんなり」
「重視するのはどっち? 安全性、それとも倫理観?」
「どちらでもない」
男は即答した。
「効果だ」
「いいお返事」
女は満足そうだ。
「それならいいの。ところで、あんたはスミのひとつもいれないわけ」
勘弁してくれ、と男は苦笑する。
「昭和じゃないんだ。そんなものいれたら普通の人間のふりができない」
「ふうん」
「いまどきそんなものいれて喜ぶのは、よっぽどの阿呆か、虚勢を張りたいチンピラだけだ」
「あら、見た目って大事よ?」
くくく。男は目の下をゆがめて笑った。
「お前はそういうの好きだよな。こてこての。民族性かな」
「古風って言ってよ。いやな時代ね」
女が不服そうに言うのを無視して、男は夜景のさらに向こう側へと目を向けた。
華やかな夜景にかき消されて小さくしか見えないが、工業地帯のオレンジ色の光がにじんでいる。
「あんたが効果重視と言ってくれて助かった。これね」
女はクラッチバッグの中から金属質のケースを取り出す。たばこケースほどの大きさだった。
それを持って、男の顎をくいと持ち上げてこちらを向かせる。先ほどの軽口の意趣返しのようだったが、男はされるがままだ。
「ほしい?」
「いただけますか」
少しもへりくだってはいない口調だったが、女はあっさりそれを渡した。
中をひらくと、そこには毒々しい緑色のカプセルが八割方入っていた。
男は凶暴に笑う。
「さすがだ」
「当然よ。――言っておくけどそれは試作品。あんたが効果重視って言ったから渡すの」
「ありがたくいただくよ」
「それほど大事ではない部下に使って」
「了解した」
ふと、男は眉を軽くあげて、ジャケットの内ポケットから振動する携帯を取り出した。その場ですぐに出て、言葉少なに相槌を打つと、すぐに通話を終わらせる。女は口を挟まない。
男は携帯をしまったあと、すぐに手帳を取り出して、慣れた手つきでページをひらくとそこに書かれてある名前にぐいと横線を引いた。佐々木ジョージという名前だ。
満たされた笑みを浮かべる男に、女が言う。
TODOリストね。男も返す。ああそうだ。
そのページには、上から下までずらりと人名が並んでいた。既に横線がひかれているものも多かったが、それも含めて三十名くらいあったろうか。
リストの奇妙なところは、書かれている文字が稚拙だったことだ。まるで子供が鉛筆で書いたみたいに。
それから、そのページだけがやけに分厚くなっていた。
まるで、手帳を新しくするときに、古いものを張り付けて更新する、それを何度も何度も繰り返したみたいに。