2章 何度でもぶっかけます 3
まったくカノったらさ。
あいつ、自分の都合しか基本的に考えてないんだから。
その日の午後、千畝が予定通り研究室で雑用を片付けていると、横では美神がさっきのことをぶつぶつ言っていた。
「あたしがあそこで口挟まなかったら、しれっと、千畝ちゃんを訓練に連れてったわよ。そういう奴だから」
あははそうかも、と千畝はたまっている書類を分別しながら相槌をうつ。
「千畝ちゃんも、おかしいなあとか、これは無理だなと思ったことは言わなきゃだめよ」
「はい、言ってますよ」
「そうしないと、あいつどんどん自分のしたいようにやってっちゃうから」
「言ってるんですけどね、あんまり聞いてくれる人ではないですよね、カノって」
ああー、それも確かに。と美神は自分のおでこをぴしゃりと叩く。
「投薬の綴りは三年前のものまででいいですか?」
「いや、去年のも全部綴っちゃって。どうせまたすぐたまるし」
「わかりました。それとここに混ざってた学会の抄録はどうしましょう」
「あっ、そこにあったか。ないなと思ってた」
「昔のものは奥のキャビネットですけど。一緒にしておきます?」
「そうして」
手伝ってくれるとすごく助かる、と美神がいうのはどうやら本当らしく、千畝はひそかに役立っている気がして嬉しかった。
なにしろ訓練のほうでは少しも成長の実感がなかったので。
彼女はこれまでずっとひとりきりで研究していたようで、整理されていない紙の書類がたまりにたまってすごいことになっていたため、千畝が数日手伝うだけで研究室はぐっとすっきりした。
掃除や整理整頓のいいところは、やったらやったぶんだけ目に見えて成果がわかるところだなあ、と千畝がしみじみしていると、データは整理できてるんだけどね、と言い訳のように美神が言う。
紙はほら。紙だから。と理由になるんだかならないんだかわからないことも。
「そうですね、紙ってたまりますよね」
さすがに目に見えるところは整頓されているのだが、目隠しになっている扉をあけるとすごかった。一瞬それを見た千畝がひるむくらいに。
だが、手当たり次第に突っ込まれた書類をひとやま、ひとやま、片付けていき、分類する作業は千畝にとって奇妙に心安らぐものだった。
ここ数日集中して片付けたおかげで、奥のキャビネットにはこれまでなかった隙間が発生していたし、膨大な書類を片付けたおかげで千畝もこの部屋のどこになにがあるか把握できるようになっていた。
シリコンゴムの指ぬきを右にも左にもつけて、千畝が淡々と書類をさばいていると、
「千畝ちゃんは、最近顔が変わったわね」
と言われた。そうですか? と千畝は手を止めずに言う。
「多分それ、日焼けのせいですよ。日焼け止め、塗っても塗っても汗で落ちちゃうから」
絶対これ使いなさい、と真顔でいのりが手渡してくれた高そうな日焼け止めを千畝は思う。ありがたいけれど、かえってもったいないような気分で。
ううん、とミシュランは首を横に振った。
「そういうことじゃなくて、魅力的になった」
「魅力的?」
思ってもいなかったことを言われて、思わず顔をあげる。
美神はいたって真顔だった。
「色気と言ってもいい」
「い、いろけ?」
今までそんなことは言われたこともなくて、千畝は思わず甲高い声が出た。
褒められたのか、そうではないのか、わからない。
色気があるとはどういうことだろう。はしたないとか、いやらしいとか、だらしがないとか、そういう意味合いだろうか。
(お母さんなら、多分、そっちの意味で使う)
急に固まって動かなくなった千畝に美神は首をかしげた。
「うーん、褒め言葉のつもりだったけど、そうは受け取ってないみたいね」
千畝は返事をしない。
「うん、あたしの言い方悪かった。座って、千畝ちゃん」
「は、はい」
千畝が手近なスチール椅子に腰掛けると、美神はまっすぐ千畝を見てゆっくり切り出した。
「あのね、これはあたし個人の考えなんだけど」
「……はい」
美神の切り出し方は上手だった。そう言われたおかげで、千畝は落ち着いて続きを聞くことができたから。
「それを言う前にひとつ聞かせて。千畝ちゃんは、色気があると言われるとどちらかというと嬉しくないのね」
「そうかも……しれないです」
「どうして?」
「だって、色気なんて。出そうと思ったこともないのに……」
そっかそっか、なるほどね。
あご肉のせいであまり大きくはうなずけない美神が細かく首を振る。
「じゃあ、あたしの考えを言っていい?」
「はい」
「色気とか、セクシーさとかいうものは、素肌の露出の度合いじゃないの。心がどれだけひらいているかなの」
「心……ですか」
「そう、心」
そう聞いて、千畝の気持ちがふっと軽くなる。
心がひらいていることとイコールなら、色気があるは確かに褒め言葉だ。
ほっとしたように肩が落ちた千畝に、美神は続ける。
「心が閉じれば閉じるほど、魅力はなくなるしつまらない人間になるものでしょ?」
「あ、それはそうかもしれないです」
「だから、顔が変わったねって褒めたのよ」
「私……ひらいてますか?」
褒められたことはわかったが、自分がひらいているかどうかわからずに聞いた千畝に、美神は思いだしたようににやりと笑った。
「そうね、心閉ざす余裕もないって言うのが案外正しいのかもね」
「?」
美神は上半身をねじって後ろのモニターを切り替えた。
カチカチと何度かクリック音が響き、横長の大画面に突如として千畝の姿がうつった。
「!」
訓練場でへろへろになって膝をつき、立ち上がることもできずにいる千畝だった。立てないのか? と冷ややかなカノの声が響く。た、たてますよ。としゃがれた千畝の声も。そっか、じゃあ立てよ。
言われても、のろのろとしか動けない千畝が鮮明にうつっている。地面に直接手をついて、ググッと体を持ち上げようとする、その肩と背中が震えている。
モニターを通して見ると、もどかしいほど千畝はぐずついて見えた。
汗だか悔し涙だか、よくわからないほど顔は濡れている。息はあがって、口は半開き、顔は真っ赤で目も充血していて、束ねた髪が乱れて顔に張り付いている。
「ほらすごく魅力的でしょう。それになんともいえない色気」
「ああああいやああああ」
美神の台詞に割り込むように、千畝は泣き声混じりの悲鳴をあげた。
こんなもの、こんなもの見せられるなんて、いったいどんな羞恥プレイか。
「なんですかこれええぇえ」
消して、消してください、とマウスに飛びつく千畝の形相に、美神が身を引いた。
「あの、ほら一応訓練だからね、データとして残るんだよね……。知らなかった?」
「聞いてないやだやだもう最低っ!」
──やばい、今あたしカノ並みにデリカシーなかった気がする。
美神はこっそり冷や汗を流した。その彼女のふくよかな手を千畝がわしづかみにする。
「ひっ」
「ミシュランさん」
あ、またミシュランさんて言っちゃった、しかもナチュラルに。
千畝は思ったが、まいいかどっちでも、と、普段の千畝ならけしてしないような思考であっという間に上書きされた。
「な、なに?」
「見せてください」
「なにをっ」
ミシュランの両手を自分の両手のひらで押さえつけるようにしながら、千畝はぐいっと身を乗り出して距離をつめた。
「訓練データが残るものなら、他の人の記録もここにあるはずですよね?」
「千畝ちゃ……」
「見せてください」
千畝は愛想よく笑ったつもりだった。
なのに、美神の表情が引きつっているのはなぜだろう、解せない。
「あたし見る資格あると思います。だから見せてくださいカノのやつとかカノのやつとか」
ほとんどノンブレスでそう言うと、美神はこくこく頷いて、すぐさまデスクの下の引き出しからDVDを数枚引っ張りだして、千畝の手に渡してくれた。