1章 カノのやり方は、というと 2
カノはこの施設のトップ成績を誇る保護官だ。
千畝を始めて現場に連れ出してくれた人でもあり、ヨナの命を救ってくれた人でもある。
カノは皮爪硬化症ではないはずだが、変異体そのものの外見をしている。それは薬によってそうさせているのだと聞いた。白濁した瞳、口の中におさまりきらない長い犬歯、肥大した筋肉、千畝のことくらい簡単に切り裂いてしまえる黒く長い爪。
病気でもないのに彼女がここにいる理由とか、弟である南雲との関係とか、体を変異させるために飲んでいるらしい薬のこととか、千畝はなにも知らなかった。
そして、なんとなく今も聞けずにいる。
◇◇◇
何日たっても、ビルから飛ぶ訓練に千畝の体は慣れることがなかった。
い時間にすると一時間程度のことなのに、終わってみると口をきくのも億劫なほど消耗するのだ。
落下も跳躍も、ひどく体力を消耗するものだということをその時の千畝は知らなかったし、カノも知らせようとはしなかった。
(も……むり……)
ヨナに支えてもらいながら千畝は思う。
はじめのうちは、年下の少年に支えてもらうことや露骨に心配されることを恥ずかしく思う気持ちが残っていたものだが、最近ではもう、そう思う余力すらない。
カノがあれ以上ひとりで頑張らなくてもすむように、保護官の人手の足りなさを強い彼女が背負いこまなくていいように、千畝は今の道を選んだ。自分の存在などたとえ些細であったとしても、彼女の一助になれればいいと。
それを忘れたわけではなかったが、
(なんで……こんなことやってんだっけ)
そう思わずにいられない。
だいたい今日の跳躍訓練を思いだすと、千畝はぞっとして冷や汗が出る思いだった。
冷や汗なら現場でいやというほどかいたのに、思い出すだけでそれがよみがえる。
ビルの二階からの跳躍がなんなくできるようになると、カノはそれじゃあと言って場所を変えた。
そして、より高く、より遠くの標的めがけて飛べるようなプログラムを組み続けたのだ。
今日の午後、千畝は三階建ての建物が密集した場所を、屋上から屋上へ、時にはベランダから一階下のベランダへと跳躍で移動する練習をさせられた。
アクション映画にはスタントマンもいるしCGもあるけれど、訓練にはない。相変わらず命綱もないので落ちたらけがするし運が悪ければ死ぬというのに、カノは平気で千畝を追い立てる。
カノの役に立つこと。
それがめざすところだったはずなのに、ここ二カ月を見る限り、千畝の努力はその目標にかすりもしていない。
(わたし……ここにいて、いいのかな)
心細さマックスの気持ちでそう思った。
カノからは、最初の朝にこう言われた。
「うまくやろうとか思うな」
できなくてどうしようとか、かっこよくできるようになりたいとかも厳禁だと言われた。
目の前に指を三本たてられて、
「お前がやるべきことは、ひとつ、風邪をひかないこと。ふたつ、ちゃんと食べてちゃんと寝ること。みっつ」
長く黒い爪を折り曲げながら、小学生にいって聞かせるようにはっきりと。
「訓練に順応すること」
言われたことは守れている……ように思う。風邪はひいてないし眠れているし。
順応できているかどうかは自分ではよくわからなかった。
カノが千畝をできないことで責めたり怒ったりすることはないから、自分がいったいどの程度まで期待に沿えているものか、さっぱりなのだ。
千畝は自分がうつむいて歩いていることに気づいていなかった。その眉間にしわが寄っていることにも。
「あなたは、よくやってる」
だから、隣を歩いている岩間にこう言われた時、けげんな顔で彼を見上げた。
「……よくやってると思う」
一度では足りないと思ったのか、彼はもう一度繰り返した。
「はあ……」
どうも、と口の中で小さく言って、千畝はトボトボ自分の部屋に戻った。
◇◇◇
次の日からは、さらにメニューが変わった。
「だいぶ余力が出てきたみたいだし、次のステップに行くか」
余力なんてない。本当にない。
千畝はそう言いたかったが、カノはにこにこしてランニングのメニューを追加した。
「体力はすべての基礎だからな」
いや、確かにそれはそうだと思うけれども。でも。
反論の余地もなく、千畝は延々敷地内を走らされている。跳躍訓練が終わった直後で、まだ足の震えも止まってっていないというのにだ。
「なんで……こんな……追い込み練習みたいな、こと」
思わずつぶやいたら、
「あ、そうだよ」
「えっ」
「これは体力向上と同時に、追い込み訓練でもある。きつい限界にどこまで耐えさせるかという訓練をやってるんだ。よくわかったな」
思わず千畝は絶句してしまう。
耐えられるかではなく、耐えさせる、とカノは言った。
「一番最後に走らせてるのはケガの防止だ。逆だと、跳躍してる最中に集中力が落ちて、うっかり死んだりするからな」
(うっかり……死んだり……)
千畝は頭がくらくらしたが、カノは両手を高く上へあげて大きく伸びをすると、とんと地を蹴って千畝と並んだ。
「せっかくだから一緒に走ってやるよ。やさしいだろ」
「……それ、カノ、ずっと見てるだけで退屈になったからですよね」
いつもなら絶対言わないような憎まれ口がするっと口をついて出る。口に出して言ってからあっと思ったが、カノはわははと笑った。
「当たり!」
「それっ、全然やさしさじゃありませんっ」
「ばれたー」
カノは少しも悪びれない。
そして、やっぱりというか案の定というか、変異体を持つカノの走り方は人間離れしていた。
ためて、ためて、千畝が先へいくのを待つ。そして一気に飛び、横に並ぶ。
カノのまわりだけ重力がおかしなことになっているようで、人というより大きなバッタのようだった。
千畝は自分の後ろでおこっていることを見ているわけではないのだが、カノが飛んだ瞬間は、なんとなくわかる。走っている地面を伝って、かすかな衝撃が感じられるし、それにカノが横に並ぶ寸前、半袖の腕に、寒気のようなびりびりした気配があるからだ。
「カノ……」
「んあー?」
千畝は息があがっているが、カノの呼吸は乱れていない。
「併走してもらってるサポート感というか、励まされてる感が、ゼロなんですけど……」
「そうかー。きっとそれは疲れてるせいだな」
「絶対違う」
ランニングに慣れてくると、今度は、接近戦を想定した打撃技の練習も組み込まれた。
重い打撃と早い打撃の打ち分けかた。骨を折る打撃と倒す打撃。骨にも内臓にも傷をつけずに痛みを与えるやり方についても叩き込まれた。
格闘技などやったことのない千畝にとって、全てがわけのわからないことだらけだったが、カノは構わずやらせ続けた。今はわからなくていい、でも必ず必要になるからと言って。
筋力アップとともに、体の柔軟性をあげることも要求され、それと同時にこれまで起きた変異体の事件概要をすべて頭に入れることも要求された。千畝が得意な勉強や暗記はほんの少しで、あとはひたすらアスリートの強化練習のような日々だった。
やるべきことは山ほどあり、やってもやっても終わりが見えない。
しかも、どれひとつとっても、千畝は自分が成長しているとは少しも感じられない。
しかも焦ったところでどうなるものでもなく、カノのスパルタ訓練を受けていると、悩むだけの体力すら残されていなかった。
そんな中、カノは変わらず、最初に言ったことをひたすら繰り返した。
──風邪を引かないこと。よく食べてよく寝ること。そして順応すること。
食事は一日四回から五回、たんぱく質を中心にとるよう指導された。
実のところ、疲れすぎていて食欲などなかったのだが、食事の時もカノはみっちり横にいるので食べないわけにもいかず、無表情でチキングリルや目玉焼きを口に押し込む千畝に、食堂のおばさんが気の毒そうな顔をしていた。
カノの訓練メニューの組み方はかなり過酷で、身体的にも精神的にもきつい内容のものだった。
筋肉とメンタルの両面を的確にぎりぎりまで鍛えぬくそのやり方は、とうてい素人のやりかたではなかったが、その時の千畝はそんなことに気付く余裕も、知識もなかった。
「今日の訓練、おーしまい」
カノが気楽な調子でそう言ったとき、千畝は地面に両膝をつき、肩で荒い息をしていた。
「は……は……っ」
もう返事すらまともにできない。
体のありとあらゆる筋肉がギブアップして、立ち上がろうと地面に手をつくと、ひじがぶるぶると震える。
「さ、帰るぞ」
そう言ってカノは居住区に戻っていくが、千畝は小さくうなずくことしかできなかった。
もうだめ、もう動けない。もう私のことなんて放っておいて。だって立てないんだもの、へばらせておいて。
「千畝、千畝っ」
横ではヨナが心配そうにしゃがみこんでいる。
「なあ、だいじょぶかよ。……だいじょばないよな。立てる? 無理そう? どう?」
懸命に気遣ってそう言ってくれるのはわかる。わかるのだが、いかんせん体が動かなくて、十一歳の少年に気を遣わせていることがそもそも情けなく、恥ずかしく、思うようにいかない気持ちと相まって泣きたくなる。
大丈夫。少し疲れただけだよ。ちょっと休めばよくなるから。
そう言いたかった。
だが言うだけの余裕が残されていない。
千畝が肩で荒い呼吸を繰り返して、ヨナがそっと背中にふれてきた。ごくごくそっと。変異した爪で傷つけたりしないように、細心の注意を払って。
「千畝、なあ……平気? おんぶする?」
千畝はまだ反応できないでいる。
「俺できるぜ多分。してやろうか?」
少年の体は年相応に小柄だが、変異のせいで筋肉が肥大している。だぶついた服で隠しているが、肩の筋肉は大人の男並みだし、腕力も握力も人間ばなれした数値を叩き出す。
千畝の返事がないのでヨナがしびれをきらして自らもぐりこむような格好で千畝の脇の下に体を突っ込んだ。てこの原理を利用して千畝を支えようとしたとき。
「今動かすと、吐くぞー」
カノがまるで背中に目があるみたいに、歩きながら言った。
結局千畝は自力で動けるようになるのを待って、それでも心配するヨナに支えられてラボへ戻ることになった。
「千畝……」
ずっと言うのを我慢していたらしいヨナが、ぽつりとつぶやく。
「あのさ……俺さ、止めたよね……?」
口の悪い彼にしてはかなり控えめな言い方だった。
そうだねと、千畝はあるかなしかの声でつぶやいたが、聞こえたかどうかはわからなかった。
◇◇◇
千畝がゲートの前に立つと、ピッと小さな音がしてゲートがひらく。
つけている首輪に対応して自動で開閉するようになっているのだ。
ヨナは慣れた手つきで千畝を先に通してしまうと、ねえひとりで立ってられる? ばたーんって倒れないでよね、大丈夫だよね、と念を押してから改めて液晶画面をタッチしてパスワードを入力した。
凶器にもなる長い爪で、液晶を傷つけることもなく操作しているところを、千畝は見るでもなしに見る。
ヨナがつけている首輪の色は黒で、千畝は訓練中を示すターコイズブルー。
千畝の青い首輪は建物内を行き来する際、ゲートでのパスワード入力を省略できることになっているが、ヨナの黒い首輪は、そうではない。
ヨナは訓練が始まってからずっと、千畝に付き添ってくれている。
毎回のこの操作は面倒なはずなのに、少年は文句ひとつ言わずに律義にその都度八ケタのコードを入力するのだった。
部屋へ戻る廊下を歩いている時、向こうから駆け足で近寄って来る人影が見えた。
軽やかなスカートのシルエットとセミロングの毛先が走るたびにはねるので、遠くからでも誰だかわかる。
いのりだ。
「ちせちゃんっ」
いのりは血相を変えている。
いったいどうしたんだろう、と考える千畝の頭はゆっくりとしか働かない。
「カノの動画の話、知ってる? もう聞いた?」
早口のいのりの言葉も頭にうまく浸透しない。
「カノの……どうが」
「もう見た?」
どうがって、なんだっけ。
(カノの恫喝。……よくある。カノの発砲……ふふ、それ、今日もされた)
「ふふ……うふふ」
小さく肩を揺らす千畝の様子に、いのりは、見たほうが早いわ来て、と手をとった。
「いのりねーさん」
その手をヨナがやんわり制する。
「千畝さあ、今、めっちゃ死んでんだよ」
「……そのようね」
「その話さ、口頭でしてやってくんない?」
なるほど、とうなずいたいのりは、アナウンサーのようなきれいな滑舌で言った。
「カノが変異体を相手に戦っている動画がネットに拡散されたの」
「えっ……」
「知らない人が見たらカノこそがヒトクイで、街で暴れているようにも見える動画よ」
それを聞いて、千畝は一気に正気に戻った。