5章 ぼろぼろ、くずれる 2
千畝と南雲は幾枚か室内の写真を撮り、念のためにもう少し、蝶をビニール袋に入れてからその部屋を出た。
だが、工場から出ようとした矢先、外で車の急ブレーキの音がした。
続いて降りてくる人の気配も。
早い、と千畝は腕時計を見る。
あの蝶の部屋に入ってから、まだ十分ほどしかたっていない。
おそらくなんらかのセキュリティとつながっているだろうことを予想して、サンプルの採取も写真撮影も、手早く済ませたつもりだった。
南雲もそこは心得ており、迅速にやるべきことをやっていた。
(こんなに早くくるのは……予想外だったな)
おそらく、あの部屋だけではなく、工場に近づく人間がいないかどうかも監視するカメラがどこかにあったのだ。
気付かなかったのは不覚だった、と千畝が反省していると、
「発砲許可をとりましょうか」
窓から外をのぞいてみた南雲が千畝を振り返る。
「多分、そう待たずに取れると思いますよ。やつら、武器を持ってますし」
「――いいえ」
だが千畝は南雲と一緒に窓の外を眺めようとはせず、両手をゆっくり閉じたりひらいたりした。
黒い指なしのグローブがかわいた音をたてる。
「発砲許可は取らなくていいです。だってその人たち全員人間でしょう」
「……ええ」
保護官のルールは頭に叩き込んである。
重度の変異体であり、凶暴性が強いと判断された場合についてのみ発砲は許可される。一般人への発砲及び暴力行為は厳禁だ。
おい、そっちからまわれ、と声が聞こえる。
ふたてにわかれろ、絶対逃がすなよ。
どかどかと荒っぽい足音が工場のまわりを走ってゆく。
千畝は妙に冷静な頭でそれを聞いていた。
「──人間なので、全員かわして逃げます」
「かわして……」
「もしくは、全員倒して」
南雲が驚いたような顔で千畝を見ていた。
その表情がなにを意味しているのか千畝はよくわからない。
というより、今はそんなことにかまっている時ではないので、口早に付け加えた。
「死なない程度に全員倒して。とにかく発砲はなしです」
「……わかりました」
この場をなんとかしのいで脱出し、ラボへ戻る。それが千畝のやるべきことだった。
男たちには極力けがをさせない。南雲にもなるべくけがをさせない。反撃は最後の手段。この警棒は相手の攻撃を受けて身を守るために使う。
心の中でそう呟いてから、音を立てて特殊警棒の先を伸ばした。その時。
「おまえらあっ」
かすれた野卑な声がして、千畝は声のしたほうを見た。
男たちがどかどかと駆け寄ってくるところだった。
「なにしてやがる、そこ動くなあっ」
千畝は小さくため息をつく。
やっぱり、こうなったか。
千畝と南雲のいるところは古い重機が入り組んで細い通路のようになっている場所だった。背後には蝶のいる温室。相手はひとりずつしか来られないことと、背後をとられる心配がないことを計算して、千畝は男たちのほうへ一歩踏み出す。
「──あれ」
先頭を切って走ってくる男の顔に、千畝は見覚えがあった。
「あなた、この前会いましたね」
「はあっ!?」
男は無駄に大きな声を出す。
それは脅すためというよりは、自らを鼓舞するためのようだった。
「なに言ってやがんだこの、誤魔化してんじゃねえぞこらあ」
「いや、誤魔化すじゃなくて、この前、幸町の高架下で」
男が近づいてきたのでその顔色がよりはっきり見えた。
(──弱ってる)
とっさに千畝はそんなことを思う。
明らかに顔色が悪い。くすんだハリのない顔をして、目の下は見てそうとわかるくらい落ちくぼんでいる。まるで重度の薬物中毒者のように。
「……そう、確か、ダークグリーンのパーカーを着てたのあなたでしょ。あの時は変異してたけど、今日はしてないわね」
今日は服装も違うし変異もしていないが、変異体ならそこそこ見慣れている。あの時と同一人物かどうかくらいわかる。
千畝が記憶をたどりながら言うと、男の目の奥が揺らぐのが見えた。
一瞬止まる呼吸。せわしないまばたき。
「でたらめ! 言ってんじゃねえ!」
男は少し迷ってから、ことさら大きな声を出した。
それは千畝に向けてというよりも、背後の仲間たちに怖気づいたと思われないために出した声だった。
千畝はたたみかける。
「かなり消耗してるんじゃないですか。ただでさえ、変異するのはつらいんです。それを、どんな薬か知りませんけど薬で人工的に行うなんて、ものすごく体に負荷がかかるはず。──あなた、大丈夫?」
最後の一言は後ろの仲間に聞こえないよう、小さな声で千畝は言った。
「うるせええぇええ」
だが男はそれ以上聞くのが怖いというように、大きく振りかぶって襲い掛かってきた。
ひょい。千畝は膝の曲げ伸ばしだけで最初の一発をよける。
二発、三発。続けて男は殴りかかってきたが、どれも千畝はなんなくかわした。千畝のような、新人の保護官ですら容易に動きを見切れるような、勢いだけでスピードもフェイントもないパンチだった。
千畝は伸ばしたままの特殊警棒を使うこともなく、男の呼吸が次第にぜえぜえと荒くなっていくのを観察していた。
怖い、とは思わなかった。
(かわいそうに)
奇妙にそんなことを思った。
「おい、なに手間取ってんだよ!」
「さっさと片づけちまえ!」
後ろで男の仲間がはやし立てているのが千畝のカンにさわる。
(──こんな)
こんな、見るからに弱っている仲間を前面に押し出して自分たちは見ているだけ。そんな男たちがむやみと腹立たしい。
「片付けろって言ってんのがわかんねえのかよ! つかえねえな!」
男の一人がそんなことを言って、手にした拳銃を千畝に向けて構えた。
「どけっ」
小さな、おもちゃみたいな拳銃。
ラボで実弾訓練をした千畝の目には、それはそんなふうに見えた。
あんなの、仮にあたっても、痛いだけで死にはしない。
もし千畝が考えていることを南雲が知ったら、感動と羨望のまなざしでこう言っただろう。
千畝さん、今日はほんとに、カノに似てます。
「お前がやらねえなら俺がやるつってんだよ、死んでもカジカさんがもみ消してくれる!」
千畝に向けられた銃口が上下左右に揺れ動いているのを、千畝はひんやりした気持ちで見つめていた。
「そこにいると、あなたも危ないよ。どいたほうがいい」
「えっ」
目の前で対峙している男が、つくろっていない素の声を出す。
濃いくまの浮いた目が千畝を見る。
今の、もしかして、俺に言ったの。そんなふうに。
千畝は彼の肩越しに、銃を構えた男に声をかける。
「あなた銃を撃ったことないでしょう。的をはずしたら仲間も巻き添えにしちゃうよ」
「知ったことか!」
男は吠えた。
「そいつはアレを飲めば不死身になるんだよ! 無敵なんだ!」
(……不死身?)
千畝は眉をひそめる。不死身ってなんだ。
わけがわからない。不死身のわけがない。
確かに人並み外れた力を持つが、変異するのがどれだけつらいか、体にどれだけ負担をかけるか、この男は知らないのだろうか。
「さっさと飲んで片づければいいものを、ぐずぐずしてるそいつが悪いんだ俺は悪くねえ!」
「ちょ」
千畝が止めるひまもなかった。
銃を構えた男がしゃべっている間中、千畝の目の前にいる男はぶるぶる震えていたが、吹っ切るようにポケットから小さな収納パックを取り出し、チャックをあけるのももどかしげに中から緑色のカプセルを出して、二つ三つまとめて飲み込んだ。
「待って、そんな、一度に飲んだら!」
「くそおおおぉぉお」
絶対よくない。
専門家じゃない自分でもわかる。危険だ。
とっさにそう感じて止めようとしたのだけれど、千畝の声はかき消された。
「いでえ、いでえよおおぉお、くそったれええええ」
吠えるような悲鳴とともに、千畝の目の前で男の体がぼこっと不快な音を立てた。
「てめえら気軽に言うけどなああ、これいつもいつもいつも、いつもクソ痛えんだよ、むかつくったらあああああ」
ぼこり、またぼこりと筋肉が盛り上がるのが服を通してでもわかる。ごりごりという音も聞こえる。骨が筋肉に引きずられてずれる音だった。
(こんなの……死ぬほど痛いに決まってる)
千畝は想像して息を呑んだ。
男の額には脂汗が染み出て、顔色は赤紫色だ。首の血管がはちきれそうに浮いている。
千畝の目の前で男は見る見るうちに変異し、顎関節もミシミシと広がって、獣じみた顔になっていく。
左右で長さの違ういびつな牙をカチカチ言わせて男がうめく。
「くっそがああぁ、ぶっころひてやらあああ」
黒い爪の一撃を、千畝はあっさり避けてから、
「南雲さん、ごめんなさい」
「へっ?」
顔の前で両手を合わせてから、どん、と彼の体を突き飛ばした。
南雲が蝶のいる温室に尻もちをついたのを見届けて、千畝は音を立ててドアを閉める。ドアが閉まると同時に再びロックがかかった音がする。
「しばらく、そこから出てこないで下さい」
その中にいれば、多少は安全だ。
あとは自分がこの男たちをどうさばいていくか──。
千畝がそう思った時。変異した男の獰猛な顔が奇妙に歪んだ。
「があ?」
男は自分の体に起こっていることがよく理解できないようで、戸惑うようなそぶりを見せる。
千畝も、これから起こることがなんなのかわからなかった。
だから男と対峙していて、その瞬間をまともに見てしまった。男の顔の表面の肉が、重力に耐えかねるようにして、ずれるのを。
「んあ……?」
男は妙にあどけない、きょとんとした顔をしている。
そうしている間にも、顔の肉は流れるようにずれていき、同時に振りかぶった手が肘関節のところで溶けて落ちる。
同じようにして肩がはずれ、膝が落ち、頭蓋骨を支えている首がななめになる。
男の表情に恐怖が浮かぶのを千畝ははっきりと見た。
(意識が、あるんだ)
それがどんなに残酷なことか、千畝が理解するよりも、男の体の中で緑色のちかちか光るものを見つける方が先だった。
さっき男が飲み込んだカプセルが、半ば溶けずに残っているのだった。
「お、おい……」
男が口を動かしてなにか言った。
それははっきりと、千畝に向けた言葉だった。
だが口を動かそうとすればするほど、顔の崩れようはひどくなる。
顔が原形をとどめなくなる最後の瞬間、
「た、すけ……くれよ」
声が聞こえた気がして、千畝はとっさに身を乗り出した。
どうしてそんなことをしたのか、千畝自身、あとからうまく説明する自信はなかった。ただ、手が勝手に動いていた。
こちらへ向けて伸ばされた手の指を、千畝は両手で受け止めにいく。
──正確には、掴もうとした。
千畝の手が、男の手をつかんだと思った瞬間、男の手と骨はぐじゃっとつぶれて、溶けた。
「────っ!!」
千畝は男に呼びかけようとして、名前を知らないことに気づく。
既に光をうつさない瞳が汚れたコンクリの上に落ちたあとには、ぷんと強い酸の匂いがした。
(ううっ……)
千畝は身を乗り出していたせいで、血と内臓の腐臭をもろに鼻先で受け止めてしまった。
どんどん、どんどんどん。背後でせわしなくなにかを叩く音がする。
千畝は振り向く気力もない。
今目の前で起きたこと。ほんの数分前までは生きて動いていた人間が、今はねばっこい泥のようになって足元に広がっていること。
男の仲間たちはそれを見てぎゃあぎゃあ騒ぎながら逃げていった。
どんどん、どんどん。
依然激しくなる背後の音に、千畝はのろのろと顔をあげた。
ちせさん。ちせさん。あけて。南雲の声がやけに遠く聞こえる。
うるさいなあ少しひとりにして。
そんなことを思いながらぼうっとしていた千畝は、目の前に人が近づいてきているのに気づかなかった。
「はじめまして、千畝さん」
その声で千畝は我にかえった。
男が溶けた水溜りの向こうに立っているのは、白衣を着た若い女だった。