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5章 ぼろぼろ、くずれる 1

「工場、ですか?」

「どうやらそのようです」


 南雲が運転する車に乗って、移動すること二時間余り。ナビシステムによると、そこはあすみ台という名前らしかった。


「こんなところに、工場が……」


 千畝が車から降りた時、あたりはまだ明るかった。


 もう時間は夕方に差し掛かっていたが、夏の日が長いせいでもっと早い時間に思える。

 ひょう、と風が千畝の額を撫でていく。


 そこはかつてニュータウン建設予定地だったらしい。しかしそれも十年以上前のことで、今は見渡す限り草原が広がっており、一軒の家も立っていない。


 人が入らない土地ではアスファルトですら荒れていく。

 舗装されて何年も放置されている歩道は日に焼けて色あせ、そこかしこから雑草が顔を出していた。ひび割れてでこぼこになった道路を踏んで千畝はゆっくりとその工場に近づいていく。

 開発は途中で計画とん挫したらしく、電信柱ですら途中までしか建っていないので、空がやけに広々としていた。


「土地の価格が下がったところを買ったんでしょうね」


 ぽつりと南雲がつぶやいた。


 背の高い夏草の向こうには、一件の工場がぽつんと立っている。窓は高いところにしかなくて、見るからにさびれた表情だが、近づいてみると工場のまわりには砂利が敷かれて、日常的に出入りしているとみられる跡があった。


「南雲さん、この工場の持ち主って」

「一応調べたんですが、私有地らしいですね」


 南雲は自分の端末を見ながら千畝と並んで歩いている。


「所有者も調べたんですが、こちらのほうは単に名義貸しをしているだけの人物らしく。外注した先では、おそらくまとまった金を払ってホームレスの名前を借りたんじゃないかと言ってましたね。……ただ、岩間さんがGPSをとりつけた男が、定期的にここに出入りしているのは間違いありません」


 南雲はそこだけ雑草が生えていない砂利の一角を見下ろす。


「入ってみましょうか」

「……はい」


 ここに来るには、車がないと来られまい。今工場の敷地まわりに一台の車も止まっていないということは、中には誰もいないはずだった。


 大丈夫、と自分で自分を鼓舞するように言い聞かせて千畝は工場の中へと一歩足を踏み入れた。


 入り口には鍵がかかっていたが、南雲が用意していた道具でそこをあける。

 工場の中は、ほこりっぽいような、しんとした空気が満ちていた。


 千畝は足音を立てずにそっと中を歩く。

 怖くないといえば嘘になる。緊張していないといっても嘘になる。


(……だけど、美神さんのあの様子)


 自分の手で何人もの発症者に投薬し、死んでいく姿を淡々と見送り、普段はつらいとも悲しいとも言わずにすべてを自分の奥底にしまい込んでいる彼女だった。その彼女が、あんなふうに感情をあらわにして怒るなんて珍しい。


 あれは相当に悔しいのだ。


 そして、どんなに悔しくとも、美神は自分で『ジョーカー』を探しに行けない。彼女は研究職員であって保護官ではないからだ。


(彼女を見つけるのは……私の役目だ)


 美神の気持ちに応えたい。

 それに、千畝自身もなぜそんなことをするのか知りたかった。


 あの緑色のカプセル。それを飲み込んだ瞬間身体を変容させた男たちを目の前で見たからには、とても放っておけなかった。


「フォローしますね」

「お願いします」


 千畝が先に立って歩き、少し後ろに南雲がつく。

 保護官が先、保護監察官が後。現場においてはそれが鉄則だ。この間の夜もそうだった。


(……でも)


 岩間のサポートと、南雲のサポートは少し違う。


 なんといったらいいんだろう、と千畝はあたりを警戒しながら言葉を探した。


(岩間さんは、見守っていてくれる感じ。南雲さんは……そう、もう少しぴりっとしてる感じ)


 後ろにいてはくれるけれど、決して甘やかしはしない。そんな感じだ。

 もしも千畝が弱音を吐いてもたれようとしたら、スッと身を引かれそうな、そんな雰囲気が南雲にはある。

 千畝は肩越しに南雲を振り返った。


「どうかしました?」


 きょとんとした南雲の顔が妙に幼く見えて、千畝は小さくほほ笑んだ。


「……いいえ、なにも」


 千畝は向き直り先へと進む。


(これはこれで……きらいではないな)


 一人前に扱われているような、自立を促されているような。


(うん、南雲さんのクールさ、きらいじゃない)


 中は乱雑で汚れて見えるが、工業ランプの電球にはさほど埃が積もっていないのを千畝は見てとる。定期的に使われているから、汚れていないのだ。


(廃工場に見せかけているのね)


 警戒はおこたらず、千畝は確かな足取りで奥へと進んでいく。

 人の気配はない。工場の奥にはもう一枚扉があって、どうやらその奥にも広い空間があるようだった。


 扉には鍵がかかっており、中を覗く窓ガラスはない。


 さてどうしようかと思っていると、後ろから追いついてきた南雲と目が合う。彼の目を見た瞬間、千畝はこんな時なんて言えばいいのかわかった。


「南雲さん、あけてください」

「――了解しました」


 そこは簡単なディスクタンブラー錠ではなかった。タッチパネル式の電子錠だった。

 それだけ重要なものが中にあるということだ。


 南雲はというと、細いケーブルを電子錠の裏につないで、なにやら手元のタブレットを操作したのち、


「あきましたよ」


 さも当然のようにそんなことを言った。


 重い扉をあけて室内に入ると、ひんやりとした空気が千畝の頬を撫でる。

 入ってすぐのところで、千畝は茫然とあたりを見渡した。


(これは……なに?)


 高さはさほど高くない。奥行きもそうない。

 室内には、あちこちに鉄骨だの木材だのが立てかけられたり打ち付けられたりしている。

 そして、天井はぶち抜かれ、ガラスの大きな天窓が据え付けられて太陽光が降り注いでいた。


(温室? ……でもひんやりしてるけど?)


 そこには無数の蝶がとまっていた。


 見た印象は温室だった。だが室温は明らかに低めに設定されて、千畝の知っているそれとはあまりに違う。

 その違和感もあったが、それよりも、そこにとまっている無数の蝶の羽の色に千畝は釘付けになる。

 蝶の羽は、この前のカプセルの色と同じものだった。


(このやな感じは偶然……? もしくは、気のせい……?)


 わからない。判断がつかない。

 気のせいと言われればそうかもしれないと思う。だが、その蝶を見た瞬間、千畝はきれいだと思うより先に、なにやらぞくっとしたのだった。


 蝶たちは千畝が近づいていっても飛び立つことなくとまっている。

 時折、羽をしずかに動かして。


 千畝はそっと手を伸ばして、そのうちの一羽を捕まえてみた。

 虫が得意というわけでもないが、蝶たちがあまりに静かだったので、なんなく捕えられる。


 二本の指でそっと挟んだ蝶を、千畝はひっくり返し、表、裏、と眺め渡す。きらきらした鱗粉がわずかにはがれてあたりの空気に溶けて消える。


「南雲さん」


 千畝は持参してきたビニール袋に帳を入れると、軽く口をとじて南雲に渡した。


「持っててください。帰ったら、分析を美神さんに」

「了解しました。けど千畝さん」

「なんですか?」

「千畝さんって、前からこんな感じでしたっけ」


 なにを言われているのかとっさにわからず、南雲の顔を見る。


「前の私がどんな感じか、南雲さん、知らないじゃないですか」

「ここ数カ月分は知ってますよ」

「……そうですね」


 なんだかここで言い合っているのが急に面倒くさくなって千畝がそう言うと、南雲は、ほらそういうところ! と重ねて言った。


「淡々としてるというか、今日の千畝さんはちょっとカノに似てますよ」

「──そうですか」


 今のも! と南雲は面白い論文でも見つけたかのように弾んだ声を出す。


「もともと千畝さん、あからさまに生返事なんてしないタイプですよね? それが現場に出るとこうも変わるものですか。それとも、変わる要因はあの訓練なのかな」


 途中から、千畝は南雲の言うのを聞いていなかった。


 隠れ家を捜索し、緑色の蝶を手に入れた。これを持って帰れば美神が隅から隅まで分析してくれる。

 自分の役目は見事に果たしたはずなのに、不思議と興奮も達成感もない。頭の中はというと奇妙に冷めたままだ。


「南雲さん」


 まだ後ろであれこれ並べ立てている彼に、千畝は途中で割って入った。


「カノの指導がよかったと言いたいところですけど、これまでカノにつけた人材はたいがいリタイアを……え?」

「そろそろ、ここを出る準備をした方がいいと思います」


 言って千畝は天井の一角を見上げた。そこには小型の監視カメラが赤い光をともしている。


「早くしないと、来ますよ」

「くるって、誰が。ここの所有者がですか」

「いいえ」


 千畝は首を横に振った。

 あの男はおそらく来ないだろう。


 来ないけれど、どこかでこの映像を見ていると思った。

 千畝の予想が外れていたらいい。だが、おそらく外れてはいないはずだ。


「変異体に変わる人間たちが、ですよ」

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