4章 いつのまにか平気になっていた 3
その翌日のこと。
千畝は自分用の端末をもらった。
厳密にはもらうのではなく貸与されるのだということや、基本的な操作方法、それに使用上のルールは事務職員が教えてくれた。
大きさはここにくるまで千畝が使っていたスマホと比べるとやや大きめで、現場へ持ち出すことも考えてか、厚みのあるカバーがついていた。
「わからないことがあればいつでも。持ってきてくれてもいいし、内蔵されているメッセージ機能を使ってくれてもいいし」
「わかりました」
市販されているモバイル端末のように豊富なカラー展開があるわけではなく、色は黒一色だった。
実用一辺倒といった感じではあったが、それでもなんだかうれしくて、千畝はその日中ずっと端末を持って歩いていた。
「ねーねー、俺にもさわらせて」
「いいけど」
ヨナが言うので、千畝は端末を渡してやったが、ヨナがその指先で表面にふれても、端末は動かない。
何度やっても結果は同じで、数秒後、エラー表示とともに警告音が響く。
「あ、これ、指紋認証かあ」
エラー音にちょっと肩をびくつかせたヨナは、すぐさま端末を千畝に返してよこす。千畝が一連の操作をするとエラー音はやんだ。
「うー、まあ、そうだよな」
ちぇ、とヨナは口を尖らせたが、すぐに気を取り直して、見たい動画とかあったら見せてね、と言った。
「いつでも見せるよ」
千畝が心を込めてそう言った瞬間、軽やかな着信音とともに端末の下部が光った。
見ると、新着メッセージとある。
(……だれ?)
新しい端末を使い始める時の、自動受信メッセージかと思った。
ようこそ、とか、パスワード設定を正常に終了しましたとか、そういう奴。でも違った。
「南雲さん……」
千畝の端末に最初にメッセージを送ってよこしたのは、南雲だった。
南雲惠。と表示が出ている。
(……ケイ? メグミ?)
彼のフルネームを今初めて知った。
千畝はおそるおそる、端末にふれてメッセージを読む。
なんてことない一文だった。
端末取得、おめでとうございます。
「なんか、やな感じー」
横で覗き込んでいたヨナが文句を言う。
「あいつほんとずるい。そういう時だけ真っ先にさあ」
あたりを見渡すと、少し後ろに南雲が立っていて、千畝が気づくとその場で小さく手を振った。彼の手にも同型の端末がある。
(……南雲さんの、こういうとこ)
ヨナが憤慨しているのはさておき、千畝はちょっと胸がきゅっとなった。
すぐそこにいるのに。ちょっと歩いてきて口で言えばそれですむのに。それでも、メッセージをわざわざ送ってくれる。そんな些細なことをしてくれる。
(ほんと、こういうツボは外さないんだな……)
またそうしたところがヨナにズルいと言われるゆえんなんだろうと思うと、千畝はちょっとおかしくなる。
南雲はゆっくり二人に近づいてきて、
「外に出ましょうか。いい天気ですよ」
「はい」
中庭の噴水わきまで歩いていって、促されるままそこに座る。
植栽のラズベリーが赤々と実をつけており、夏の終わりを知らせていた。
「あなたのことをずっと放っておいて、すみません」
「いいえ」
本心から千畝はそう言った。
だって、カノが薬を抜いて謹慎しているのに、南雲がやるべきことはあまりないから。
せいぜいがたまりまくった事務仕事だが、それすらも彼は隙を見てさくさくと片付け、その憎たらしいほどの事務処理能力の高さで事務職員たちの不興を買っていた。
「こないだの、カプセルの話ですけど」
「隠れ家が見つかったっていう、あれ」
「そうです。見に行きたいんじゃないかと思ったんですが」
足元から震えが走った。
この瞬間を待っていた、というような高揚感に千畝の息が止まる。
(その言葉……聞きたかった)
千畝の内心を知ってか知らずか、南雲はいつもと変わらぬ温和な微笑を浮かべている。
「どうですか?」
メガネの奥の瞳がやさしく細まる。千畝は大きく深呼吸してから答えた。
「もちろんです。ただ、岩間さんはまだ怪我が完治していません。勝手なことはしない、ひとりで行かないって岩間さんと約束しました」
「聞いてました」
「私は、情報を隠されてたら傷つきます。約束を破られてもその人のことを信用できなくなるでしょう。だから、自分がして欲しくないことは私自身したくないんです」
「千畝さんは、ほんと、いい子ですよね」
褒め言葉のようで、どこかざらっとしたものを千畝は感じた。
だがそこはこらえて言う。
「だから、私は岩間さんが完治するのを待って一緒に行きます」
「僕と行けばいいじゃないですか」
ぐっ。千畝の喉が思わず音を出しかける。
こういうの、なんていうんだろう。悪魔のささやき。いやそうじゃなくて。
冷静になれ。冷静に。千畝は自分で自分に言い聞かせる。
「南雲さんと、ですか」
「ええ。岩間さんは動けないので、一時的に僕と組むんです。そういうのは、ありですよ」
「ありですか……」
ヨナがもの言いたげに千畝を見上げている。
確かに南雲はずるい、と千畝は思った。
これまであれほどカノにべったりで、他の誰のことも目に入っていなかったくせに。南雲がカノしか大切じゃないことなんて、ちょっと見ていればわかる。
それなのに、やさしいきれいな笑顔を浮かべて、さも千畝のことを考えているようなふりができるのだ。
しかも、上手に。
「僕と行きませんか」
南雲は臆面もなくそんなことを言う。
おそらく千畝の気持ちを考えてというより、そうすることで、なにか、カノにとっていい側面があるのだろう。
そんなことくらいわかってる、と思いながら千畝は低い声を出した。
「……カノもまだ謹慎中ですしね」
「はい」
爽やかに返答される。
皮肉も通じない、と千畝は思った。
(だけど)
「行きたいでしょ?」
南雲はにこっと微笑んだ。
必要とあらばいくらでも外面よくなれるだけだとわかっていても、思わず見とれる。
千畝もにこっと微笑み返す。そして言った。
「行きたいです」
「えーーーーーーー」
千畝の返事にかぶせるように、ヨナが大きな声を出した。体を折り曲げ、息の続く限り不満を表明したかと思うと、ばっと片手をあげてふたりの間に割り込む。
「俺反対!」
「ヨナ」
「絶対反対! 千畝は岩間が治るのを待ってから行くべきだと思うよ!」
「まあそれがベストですけど、あまり待っていたら彼が隠れ家を始末してしまう可能性を考えると」
だがヨナは南雲に最後まで言わせなかった。
「だって岩間は千畝のこと守ってくれそうだけど、こいつは平気で見捨てそうだもん!」
「あはは、ひどいなあ」
「南雲さん、そこは、そんなことないですって言うべきだと思いますよ」
「あれっ」
千畝に静かに訂正されて、南雲は目をぱちくりさせる。
「嘘でも、そう言うべきかと」
「いや、嘘って……」
南雲のことは放っておいて、千畝はヨナに向き合った。視線を合わせようとして千畝がしゃがむと、ヨナを見上げる格好になる。
彼の白濁した瞳をしっかり見つめて、千畝は言った。
「お願いがあるの、ヨナ」
「それ聞きたくない」
少年はなにかを察したのか、打ち返すように言う。
「私のこと、ラボで待っていて」
「……聞きたくないって言ったのに、言うのはなんでなの」
顔をゆがめる少年に、千畝は言葉を選んでから言った。
「ヨナがここで待っててくれるって思うと、私は背筋が伸びるからだよ」
「……そういう、そういう言い方ずるいよ……」
皮膚が固くなってごつごつした少年の両手を千畝はとって、手をつないだまま立ち上がると再び南雲に向き直った。
つないだ手には尖った爪がふれているが、ヨナが力を抜いているので少しも痛くない。怖くもない。
「南雲さん、お願いします。今回はヨナの首輪を操作しないでもらえますか」
「わかりました」
「ありがとう」
「僕って最高でしょ」
悪びれもせずそんなことを言う南雲に、千畝はあっさり肯定した。
「最高ですね」
そう言いながらも、千畝は瞳をきらめかせて南雲のことを見返していた。
ほのかな恋心がにじむ視線ではなく、悔しくて挑むようなそれでもない。ただ静かな静かな意志を込めて。
「お礼に、こないだからのことは許してあげます」
「あれ、なにか僕しましたっけ?」
南雲はしらばっくれて笑う。千畝もお手本のような笑顔を浮かべる。
「じゃあ出動許可をお願いします」
「了解です。岩間さんには」
「これから私が言いにいきます。自分の口で」
「じゃ、またあとで」
「またあとで」
そういって右と左に千畝と南雲が別れようとしたところへ、事務室からスタッフが一名顔をのぞかせ、千畝を手招きした。
「なんですか?」
「荷物が届いてるから、受け取って」
「荷物?」
首をかしげて千畝はスタッフが差し出した段ボールを見る。
見覚えのある字が送り状に書かれている。
(……お母さん)
実家からだった。
段ボールの梱包は一度解かれたあとがあって、一度中身を検閲したのち、また丁寧に封をした形跡がある。千畝はボールペンでサインをしてから言った。
「中に、手紙ありましたか?」
「ないよ」
「わかりました」
段ボールは両手で軽々運べるサイズだった。なんなら、片手だっていい。
淡々と箱を自室まで持っていくと、ベッドの上に置いたままひらこうともしない千畝を、ヨナが気づかわしげに見ていた。
(手紙が入っていないなら、別に、今見なくていい)
なによりも、今は母のことを考えたくなかった。
発症がわかってからの母の態度のことや、この施設に来てからの言動のこと、それに、千畝が手紙を送ったけれど何カ月も返事が来ていないことなどを、今は思いだしたくない。
これから出動するという時にそこの部分を考えてしまうと、間違いなく、変な地点に辿り着いてしまうと確信できた。
それよりも、今はやるべきことがある。
ここに来た最初の頃、ここにいてもいいのか、いつまでだったらいてもいいのかと、ずっと落ち着かなかった。だけど、考え方自体が間違っていたのだと今ならわかる。
(やりたいことがある……)
髪をひとつにまとめて、支給の制服に袖を通しながら思う。
(そしてそれは、ここでしかできないことだから)
カノを助けられる自分になること。
そのためには、今できることをひとつひとつやっていくしかないのだった。