4章 いつのまにか平気になっていた 1
岩間のけがは、全治二カ月半ということになった。
「いや、二カ月で」
「野菜や果物を値引きしてるんじゃないのよあんた。三カ月ったら三カ月」
「わりと治りは早い方だ。じゃあ二カ月半」
「じゃあってなによ」
全治三カ月という最初の診断を下したのは美神だったが、岩間はかたくなに、もっと早く治ると言ってきかなかったので、すりあわせた結果、二カ月半で妥協された。
「なんなら一カ月で治ってみせてもいい。自信もある」
「あのね、人間の骨がくっつくにはねえ、物理的に必要な時間っつうのがあってだな」
肋骨二本。それが岩間の受けた傷だった。
千畝が沈痛な顔をしているのに気づいた岩間は、大丈夫、肋骨は慣れてるからたいしたことじゃないと言ってくれたし、美神も千畝を励ましてくれた。
肋骨って、安静にしてるしかないの。放っておいたらあとは勝手に治ってくれるぶしょだから、大丈夫よ。あなたはなんにもしなくていい。
「それに学生時代何度か折って頑丈になってるから、折った向こうの骨も無事じゃないと思うし」
「途中から足に切り替えたんでしょう? きっとそうよ」
「肋骨と指骨か。相手のほうが治りは遅いな」
「いたみわけね」
岩間のけがが治るまでの期間、千畝にできることは訓練と勉強しかなかった。
(私にできることを……やろう。それしかない)
この時間を有効に使わなくては、あの夜ケガした岩間に顔向けができないと千畝は思うのだった。
(それに……ヨナにも)
あの夜、自分を気にかけてくれていたのはいのりだけではなかった。
ヨナがついてきてくれたのは、なにかあった時に千畝を守るためだったのだから。だから岩間がやられていた時、少年は千畝の手を握って離そうとしなかった。
(ふたりの……ううん、みんなの気持ちに、応えたい)
これまで以上に真剣にトレーニングする千畝の姿を、変異がとけっぱなしの可憐バージョンのカノが腕を組んでじっと見ていた。
「カノ、私を鍛えて」
あの悔しい思いをした夜のその翌朝、千畝は真っ先にカノに言った。
「いいよ」
どうした、とも聞かず、どんなふうに、とも聞かなかった。
そのかわり、カノはこれまでとは教え方を変えた。
これまでは、いってみれば、千畝の恐怖心を取り除き基礎体力をつけるための訓練だったものが、思考力と判断力をつけさせるための訓練へとシフトしていった。
結果として、へとへとになって立ち上がれないようなことは今はなく、代わりにカノは定期的に千畝に質問するようになった。
今そこに飛ぼうとしたけどやめたのはどうして?
あの車がもっと早い速度だったらどう動いてた?
相手が二人じゃなくてもっと多かったら?
それに対して千畝は思った通りを答えるのだが、答えながら、そうか、と思うのだった。
あの距離だと自信がなかったってことは、もっと跳躍に飛距離を伸ばす訓練をしないとだめなんだ。
もっと早い速度でもひるまず動けるようになるためには、動体視力もそうだけれど、とっさの瞬発力が必要なんだ。じゃあ筋トレしなくちゃ。
自発的に目的をもって訓練をはじめると、当然吸収の率も上がる。
千畝の動きには迷いがなくなって、体の使い方にも余裕が出てくるようになった。
体に余裕が出てくるようになると、めぐらせる視線にも落ち着きと広がりが加わる。
なによりも、訓練では誰も襲ってこないし、ミスしても自分ひとりが悔しい思いをすれば済むことだった。
(誰かが傷つくことを心配しなくていい)
それがどんなにありがたいことか、千畝はデビューを経験してはじめてわかった。
だからこそ、もっとぎりぎりまで追い込みたかったのだが、今のカノはもうそれを許可しない。
「まだやれます」
「だめだ」
「ほんとに、まだいけます」
「だめだといったら、だめだ」
降りてこい、と下から命令されて千畝はしぶしぶ降りていく。
カノはこの間までのスパルタはなんだったのかというくらい、千畝を巧みにセーブしていた。
「走るだけなら、走っていいよ」
「走りますよもちろん」
「走るの好き?」
「別に好きじゃないですけど、持久力は大事だから」
「えらいえらい」
そう言って笑うカノに、ふと千畝は思いついて口にしてみた。
「カノも一緒に走りますか?」
「んん?」
この前はカノの変異体の筋力に勝てやしなかったけれど、今ならもしかしたら。体の面では対等なわけだし。
そんなことを考えて千畝はにこっとする。
「基礎体力って大事ですよ」
カノはぽりぽりと頭を搔いて、間延びした口調で答える。
「ああ、じゃあ、やろっかな」
ちょっと用意してくるわ、千畝先に走っててよ。
そう言われて走っていると、ややして後ろから軽快なエンジン音が聞こえてきた。
らたたたたた、という音に千畝が振り向くと、カノが原付バイクに乗って後ろから千畝を追い越そうとしているところだった。
「えっカノ、ずるい!」
思わず千畝は声に出す。
「なんで自分だけ、そんなの乗って!」
返事は、わははー、だった。
「ずるくなんかないねー」
「いやずるいでしょ!」
「千畝がひとりじゃ走るのさびしいって言うから伴走してやってんだよお」
「さびしくないし、それ伴走って言わないと思うし!」
ぶいーん、とスロットルをひねって速度をあげるカノに、千畝はわあわあ文句を言いながらそれを追いかける。
それを見ていたヨナが言った。
「あいつ……なんだかんだでついていってるよな」
「体力つきましたよね」
同じく見守っている南雲が言うのに、ヨナはじろっと冷たい視線を向けた。
「……俺、あんたに言ったんじゃねえから」
「あれ、そうでした?」
南雲はにこっと笑ったが、ヨナは仏頂面で顔をそむけた。
先日の貸し借りは別として、ヨナは相変わらず南雲のことが気に食わないらしかった。
◇◇◇
好きなもん食ってもいいよ、とカノは言った。
あれ、どうして? たんぱく質とらなきゃいけないんじゃなかったでしたっけ。
千畝は思ったが、口に出す手前で思いとどまる。
カノのことだ、うっかり口に出したらあっさり前言撤回して、そうだったな、じゃあ今まで通り爆食いで。とかなんとか言いそうだから。
だがカノは千畝の表情を読んでちょっと笑う。
「お前はもう悔しさをわかっただろ」
千畝は小さくうなずく。
「持久力も大事だし筋力も大事で、それ以上に、とっさのときにもきっちり働く判断力が必要だってわかったよな」
「はい」
「なら、あたしが小姑みたいにこまごま言う必要はないんだよ。なにをどれだけ食えばいいか、そこのあたりも自分で考えて食ってみな」
「自主性ってことですね」
カノはにやっと笑った。
「足りなければ、お前が現場でもう一回悔しい思いをするだけのこった」
「うわ、一番ヤなこと言いますね! さすがカノ!」
「誰も言いたがらない耳の痛いことを、あたしが言ってやってんだよ。いい先輩じゃねーか」
「カノ、今、変異がとけて見た目かわいいのに、その言葉遣いで台無しですからね」
「ひゃっ、ひゃっ、ひゃっ」
「その笑いかたも!」
そんなことを言い合いながら、その時、千畝は楽しかった。
楽しいというと語弊があるかもしれない。
だがそこには自分に向けてひらかれた豊かな環境があり、自分の努力次第で成長できる少し先の未来があって、千畝にとっては学生時代からなじみ深い規則正しい生活があった。
やるべきことがあり、それをこなすことに専念する毎日は、一歩一歩コマを進めてゆくような安心感があったのだ。
だから、気づけなかった。
そんなことに喜んでいる場合ではないことに、本当は気づくべきだったのだけれど。
だが、日々少しずつ自分の動きがシャープになっている実感があり、つい先月まではできなかったことができるようになるというのは、大きな喜びを伴う。
それで、気づけなかった。
この後しばらくして、千畝はいやというほど思い知ることになる。間違いに自分で気づくのは難しいのだと。それが大きな間違いでない時は余計に。
そんな千畝の一心不乱な努力の日々を、カノは、なにも言わずに見つめていた。