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3章 ミドリイロ 5

 はっとして顔を上げると、細い道を器用に入り込んでくる高級セダンが千畝たちのすぐ前に止まるところだった。


 千畝はとっさに立ち上がると、岩間の前に出る。

 ここは自分が相対すべき場面だと思った。どんなに背中に冷たい汗が流れていても。


 黒塗りの車のドアがあいて、磨きこまれた革靴とダークスーツの足が先に降りてくる。


「なんだ、お前たち。なにやってんの」


 その男の第一印象はとてもよかった。

 しっとりと深く響く声質も、細身のスーツが体にぴったりなじんでいるところも。


 生地のかすかな光沢としわのよりかたで、男性のスーツについて知識のない千畝にも高級なものだとわかるのだが、それが嫌味にならずにしっくりはまっているということは、普段からそういう格好をしなれているということでもあった。

 引き締まった隙のない上半身の上に乗っている日に焼けた顔も、ハンサムと言っていい。


(……いやっ)


 それなのに、千畝は、あとじさりたくなるほどの嫌悪を感じる。


 男はちらっと千畝、ヨナ、岩間の順に視線をくれる。


「この子らとやり合ったの?」


 男たちは顔を見合わせて答えない。


「で、負けて、俺に泣きついてきたの?」

「だってクソヂカラっすよそのでかいの!」


 俺のことは? というようにヨナが千畝の横でむっとした。


「へえ」


 男は下っ端たちを無視して一歩千畝たちのほうへ踏み出した。


 彼の立ち居振る舞いは優雅と言ってもいいくらいで、物腰に粗暴なところは感じられない。それなのになぜ生理的な嫌悪を感じるのか、千畝はまだわからないでいる。


「ふうん」


 市場で商品を眺めるように、男は千畝たちを順繰りに眺めていった。

 彫りの深い鋭い目元は、目尻がやや下がり気味だ。


 その視線が自分を通りすぎていった時、あまりに遠慮がなくて、千畝は一瞬ひるみそうになった。

 値踏みをするまなざし。もしくは力をはかるまなざし。

 千畝の前に立っていたのは、ものの数秒だったろうか。


 ほんのわずか眺めると、もう男は千畝に興味を失った。

 ヨナの前でも、ほぼ同様に。


 そして岩間の正面に立つと、時間をかけてじっくりと彼を観察してから、初めて口の端をゆるめた。


「やるなら、あんたとだな」

「のぞむところだ」


 岩間も間髪入れずに返す。


「まさかあっちのお嬢さまに俺の相手をさせないだろ。相手不足にもほどがあるよ」


 相手不足と言われたことよりも、お嬢さまと言われたことのほうが千畝はなぜか傷ついた。


「つべこべいわずに、こい」

「あれっ、でもどこか痛めてるよな、あんた」


 男は見抜くと、岩間がなにか言うより先に、体重を乗せたアッパーを岩間のみぞおちに叩き込んだ。


 一発では終わらない。右、左、それからまた右。岩間が前のめりに崩れ落ちる。

 それを冷たく見下ろして、男は今度は足を使った。


「いやあっ」


 千畝の悲鳴に、男は耳も貸さず、よく磨かれた革靴の先を岩間の腹部に幾度もたたきつける。

 執拗に同じ場所ばかりを狙って。


 岩間が苦しそうに男の足をつかむ。男は掴まれた足はそのままに、逆の足で蹴り続けた。それから岩間の手を振り払うように後ろへ下がって、軽やかに笑った。


「けが人とやり合っても楽しくねえよ」


 殴ったくせに。蹴ったくせに。けがしてるところをわざと。

 千畝は言いたくて、だが言えない。


 くやしくて震える千畝の手を、ここは我慢だよ、とたしなめるようにヨナがぎゅっと握っていた。


「ハンデなんて、やり方もわからねえしなあ。今日のところは保留かな」


 しかしあんた、すごい腹筋。殴った俺の手がいてえよ。ああいてえ。男は楽しそうに笑いながら黒塗りの車に再び乗り込んだ。


 テールランプを赤々とともし、車が遠ざかっていくのを横目で見ながら、千畝は力なくうなだれた。


「ごめんなさい……」


 岩間は顔を上げて笑ってみせた。


「なにが。謝るようなことは、なにもない」

「私の役目なのに」

「それを言うなら君を守るのが俺の役目だ。まっとうしたまでだ」


 負けた、と千畝ははっきり思った。


 なにかされたわけじゃない。ケガもしていない。奪われたものもない。だけど自分はこの夜、あの男たちに負けたのだ。


「千畝が無事なら、それでいい」

「ごめんなさい、岩間さん……」


 はじめて呼び捨てにされたことにも気づかなかった。

 千畝は帰る間中、ずっと、自分を責めていた。


◇◇◇


「おかえり千畝ちゃん」


 ラボに帰り、居住棟に戻ると珍しく夜更かしでもしていたのか、いつもと変わらずきれいないのりが出てきたので、千畝はなんだかほっとして泣き笑いの表情を浮かべた。


「ただいまです……」


 いのりはロイヤルブルーのサマーニットを着ており、ノースリーブの肩口からは象牙のようなつややかな肩と細い腕が伸びていた。しみひとつない白い肌は、あたりの闇を払うような清らかさだ。


「デビューおつかれさま。どうだった?」

「よくなかったです……」


 柔らかく問いかけられて、素直にそう言うことができた。

 いのりの変わらぬ美しさや安定した情緒、それに穏やかな笑顔には鎮静作用があるみたいだった。


 いのりはちょっと考えてから、黙って両手を広げてくれる。

 そこに迎え入れてもらって抱きしめてもらいながら、千畝は一瞬真剣に甘えた。


 今日私全然ダメだったんです。全然ダメだった。

 言葉にはしないけれど、胸の中で何度も繰り返す。


 そんな千畝の背中を守るようにぎゅっとしてくれながら、いのりはよしよしと言ってくれた。


「どうしたの。話してもいいのよ。話さなくてももちろんいいけど」

「だめだったんです」

「そうなの?」


 そんなことないわよ、と彼女が言わなかったので、心から千畝は救われた。そんなふうに言われたくない時もある。


「だめすぎて、いえないくらい、だめなんです」

「よくやってると思うけどな。まぶしいくらいよ、私に比べたら」

「いのりさんとなんて、もったいなさすぎて、比べようとも思いません」


 千畝が本気で言うと、いのりは天を仰いで笑った。


「本当です。いのりさんは、いつ会ってもきれいで、落ち着いてて、すごく安定感があって、うらやましいです」

「諦めてるから心が動かないだけじゃない?」


 えっ、と千畝は言葉に詰まった。思わずいのりの顔を見る。


「自分の義務を果たしたら、あとは心を閉ざしっぱなしなんだもの、私」

「いのりさんの義務って……」

「広告塔?」


 わざと語尾をあげて彼女は言った。


「電波には決してのることのない、ここに来た人のためだけの広告塔。私って、ここの外でも、中でも、なんだかんだ似たようなことやってるのね」

「広告塔って」


 いのりがそんなことをあっけらかんとして言うので、千畝は聞き返してしまった。


「私の役目は新しい人が来た時、もしくはそのご家族が来た時、にこやかに出迎えて恐怖心を取り除くことよ。千畝ちゃんの時もそうだったでしょう」


 そうだった。確かにいのりがいてくれて、千畝の不安や恐怖はかなり取り除かれたのだった。


(だけど……それって……)


「私の価値ってそれしかないから」

「いのりさん」


 違う、と言いたかった。

 だけどさっきの今だからこそ、千畝はその言葉を言えなかった。


 そんなことないよとは、さっきの自分も言われたくなかった。それに、最初の日、いのりの姿を見たことでほっとした自分がいたのも事実だったから。


 千畝が黙っていると、いのりはわずかに顔をゆがめて、申し訳なさそうに笑った。


「こんなこと言うつもりじゃなかった。ごめんね、忘れて」


 こくんと小さく千畝はうなずく。

 忘れたかったからではなくて、彼女がそうしてほしそうだったから。


「デビューおつかれさまって言いたかったのよ。だからそれだけ覚えておいてね。おやすみ」


 ちゃんと千畝の目を見て、刻み込むみたいにそう言うと、いのりはひらりと去っていった。肩のあたりで白い指先をふりながら。


 そしてその背中が廊下を曲がって消えてから、千畝はようやく気づいたのだった。


(あたし……ばかだ。ほんとにばかだ)


 いのりは珍しく夜更かししていたのではなかった。


 デビューだった千畝を案じて、待っていてくれたのだ。

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