3章 ミドリイロ 4
男たちの足音を追っていくと、淀んだ水が流れる小さな川にぶつかった。
橋の下は物音が反響するので、男たちがどちらへ逃げたかすぐにわかる。千畝は飛び石を踏んで川を横切り、雑草をかき分けるようにして川岸をのぼろうとして、足を止めた。
そこには千畝を見下ろす人影がいくつも、いくつも立っている。
(待ち伏せされた)
さっきよりも数が多い。
男たちが逃げる途中で仲間に連絡したのだと千畝は思った。
変異体の男が真正面に立ち、千畝を見下ろしていた。
男は勝ち誇ったようないやらしい笑みを浮かべている。
「あーあ、こんなとこまでついてきちゃって」
なぶるように言うそいつのまわりには、ざっと見て十人ほどの仲間がいた。
(どうしよう……)
数にひるんだわけではなかった。それよりも、相手が変異体に見えてそうではないことに千畝はうろたえていた。
(人間には、攻撃できない……)
「ちょっと痛い目、見るかあ?」
「させねえよっ」
男が一歩足を踏み出したところに、ヨナが弾丸のように突っ込んできて男を吹っ飛ばす。
「千畝っ、だいじょぶかっ」
ヨナはもう必要ないとみて、動きを邪魔するぶかぶかのパーカーを脱ぎ捨てる。
月あかりにヨナの変異した体が浮かびあがり、男たちがどよめいた。
「おまえ、その体……」
「おう、チビだからってなめてかかってるとそっちが痛い目見るぜ。なにせお前らより力は上だからなあ!」
「ヨナ、だめっ」
人間を傷つけちゃいけないこと、変異してるように見えてもそうではないことを千畝は懸命に説明しようとしたが、うまく言葉が出てこない。
「違うの、だめ、そのひとホンモノじゃないから」
「知るか!」
ヨナは一蹴する。
「それは保護官の千畝のルールだろ。俺に適用されるのかよ!」
うっと、千畝は詰まる。
それはもちろんと言いたいところだが、はっきりそうと言い切れない。
「いいから下がってろよ千畝。こういう時のために俺がいるんだろ!」
「こういう、時って」
ヨナが千畝をかばうのを見て、変異の男はきょとんと首をかしげた。親密さを通り越して馴れ馴れしい口調になる。
「お前は、そいつからもらってるの?」
「はあ?」
「飲んでんだろ」
「のんでる?」
ヨナはわけがわからないというように眉をひそめた。わずかな祖語もイラつくというように、変異の男はガリガリと長い爪で頭を搔いた。
「あー、もー、いーわ」
めんどくさい。口の中でつぶやくと、一気に跳躍する。
ヨナが膝を曲げて防御態勢になり、高さを乗せた攻撃をしっかりと受け止める。
変異の男が吠え声を上げる。
そこからはもう、乱戦になった。
ヨナを横から殴る蹴るしようとする男たちの前に千畝が割って入り、腰の警棒をシュッと抜いてけん制する。
「千畝下がってろって!」
「そんなわけいかない!」
怒鳴り返した拍子に男のひとりが羽交い絞めにしてきたので、千畝は、なにするのよっと叫んで反射的に脇腹にきつい一撃を加えてしまった。
あっ、と思ったのは一瞬だ。
次から次へと男たちは襲い掛かってきて、そうなるともう、人間に攻撃してはいけないなどと言ってはいられなくなった。できるだけのことをして、自分とヨナを守るので精いっぱいだ。
「持ってる?」
「一個ある」
「くれよ」
男たちは千畝とヨナが意外に手ごわいとみて、言い交す。
「お前金払えよ」
「あとで払うから」
しぶしぶといった様子で男が胸元からピルケースを投げてよこす。受け取った男は中身を取り出し、口の中に放り込んだ。
闇の中でもその小さなカプセルははっきりと目立った。
あざやかな緑色。
それはきらきら光りながら、男の口の中に消えた。
「マジで金払えよ、お前」
「払うって払うって、あーくる、きたきたー」
ぶるっと身震いしながら楽しそうに言う男は、ちょうど目の前にいた。
だから、千畝は見てしまった。皮膚の下でなにかがうごめく瞬間を。
(えっ……)
あっという間のことだった。
男の顎関節は大きくひしゃげ、犬歯がぶざまに口から飛び出る。眉のあたりがひさしのように突き出る。肩の筋肉が服の下であばれるように動いていた。
(なに、これ)
千畝の目の前で変異を終えた男は、楽しそうにその場でポーンポーンと跳躍した。
「やっべー、すげえ体軽いわー」
「首から上に強く出たな、こいつ」
「見た目やばいことなってるぞお前」
仲間たちがそれを見て口々に感想するのを、千畝はあっけにとられて眺めていた。
なにこれ、なにこれ、なにが起きたの今。
「さーて。二対一になっちった。どうするう」
ふざけた口調で言って、いましがた変異を終えた男が両手を千畝の肩にばんと置く。気軽な調子で友達同士がするようなやり方だったが、千畝の肩はびりびりと重くしびれた。
「ね。どうする」
「どうするもこうするも」
低くかすれた声が響いたのは、その時だ。
男の首のあたりから、ゴリッという音がする。
「ひっ」
痛みと恐怖に目を見開く男の背後に立っているのは、岩間だった。
「手を放せ。二秒で放さないと、へし折る」
「あ……あ……」
そう言っている間にも力を入れ続けているようで、変異体の首からは不穏な音が断続的に聞こえている。
岩間の言葉に従ったというよりも、もう千畝にかまっている余裕がなくなったというように男の手が離れていく。
「下がりなさい」
ぽかんと見上げている千畝に、岩間は言う。
男に言うのとは違う静かな言い方だったけれど、千畝はすみやかに言うとおりにした。
「ねえ、あの人って人間?」
いつの間にか、ヨナが千畝の隣に寄り添っていた。
生身の人間だというのに変異体に力負けしていない岩間を見て、ものすごくいやそうに言っている。
「あーやだやだ、さいってー。マジでやだ、ああいう人種」
もともと体が弱いのがコンプレックスだった彼としては、悪態をつかずにいられない気分らしかった。
「あぶない、岩間さん、後ろ!」
千畝は叫んだが、遅かった。
変異体と組み合っている岩間の背後から、なにか棒のようなものを振りかぶった男が、岩間の背中めがけてそれを振り下ろす。
「なにしやがんだてめー」
ヨナが少し遅れてダッシュしていき、ドロップキックでそいつを蹴散らす。
「もう薬ないだろ」
「どうすんの、こいつらむかつく」
「追加でもらうしかねーよ」
男たちは言い交しながら逃げ去ったので、千畝は岩間に駆け寄った。
「大丈夫ですか、けがっ」
「……大丈夫だ」
「うそばっか。絶対折れた音した。肋骨?」
「ええっ」
眉をひそめて、さわっていいものかどうか迷っている千畝に、岩間は重ねて言う。
「大丈夫、肋骨は慣れてるから」
(慣れてるって……)
そんな痛みもそんな状況も千畝は想像もつかなくて、驚きながら聞いているしかできない。
「それよりそっちこそけがはないか」
「ないです」
「ヨナは」
「俺より俺の相手を心配したら?」
子供たちにけががないとわかり、岩間はほっとしたように笑顔を見せた。その笑顔を見て千畝の足から力が抜ける。
千畝はその場にへたり込みながらつぶやいた。
「岩間さん……強いんですね。さっきはカノがいるかと思いました……」
「えっ」
ショックを受けたような岩間の表情に、ヨナがここぞとばかりにはやし立てる。
「似てたよ似てたよ!」
「似てないよ……」
本当は、千畝は、気づくべきだった。
そんなふうに安心していていい場面ではないことを。
男たちがまた戻ってくる可能性について、少しでいいから想像してみるべきだった。
岩間は負傷して、ヨナは子供で、千畝は仮にも保護官としての訓練を受けた立場だったのだから。
だが男たちが去ったことで、緊張はゆるみ、任務が完了したような気分になっていたのだった。
自分の甘さを思い知らされたのは、車の排気音が近づいてきてからだ。