3章 ミドリイロ 3
マックが入っているアーケードを出て繁華街から数分歩くと、あたりは一気にひとけがなくなる。
あるのは古いマンション、コインパーキング、それに時折音を立てて点滅する街灯。
すれ違う人もめったにおらず、あたりはしんとしていたが、岩間とヨナが一緒なので千畝は心細さを感じずに済んだ。
したしたした、と三人の歩く足音だけが響くなか、千畝は後ろを振り向いた。
(……なにもない)
そこには街灯に照らされたアスファルトがあるだけだ。繁華街の喧騒が遠くで聞こえる。
誰もそこにはいないことを数秒かけて確認してから千畝は再び歩き出したけれど、なにか、背中が不気味に撫でられるような、いやな感じがぬぐいきれない。
何度も後ろを確認する千畝に、岩間が言う。
「どうした?」
「いえ、なんでも……」
「あまり俺から離れないようにして。ちょっと面倒な場所だと思うから」
(面倒?)
千畝の疑問は顔に出ていたらしい。岩間は小さくうなずいて説明してくれた。
「表通りやアーケード街を歩いているだけなら、危ないことはないと思うが、いかにもヤクザが目をつけそうな町でもあるから」
「え、そうなの」
「そうなんですか」
ヨナと千畝の声がかぶる。
「なんで? どこでわかるの」
「大学では経済学部だった。……それにラグビーをやっていた時、遠征や合宿のたびに言われたんだ。体のでかい男の集団は威圧的に見えるし、目立つから、ふるまいには気をつけるようにと」
千畝にはまだ、それとこれがどこでつながるのかわからない。
歩行者も車もなかったが、落ち着いて話すために岩間が道の端へ寄ったので、千畝たちもそれにならう。
「ヤクザが好むのは、ひとつには全国主要都市にある繁華街。だがこうしたところはすでに縄張りが固まっていて、新参者が入りこむのは難しい。だから次に狙うのは、低所得層が多い繁華街なんだ」
「なんでさ」
「持たざる者のほうがだましやすいからだ」
即答されて、聞いたヨナのほうが黙った。
「ここの様子はそれに当てはまる。それに、外国人労働者が多いことも」
多かったかしらと千畝はマックからここまで歩いてきた街の様子を思いだしてみた。そうだったかもしれない。違うかもしれない。
(はっきり覚えていない……)
岩間が観察できていたことを、自分は全然できていなかったことに気づいて、冷たい水を浴びたような気分だった。
「千畝さん、どうかした」
「いいえ」
平気なふりで首を横にふる。
「じゃ、行こうか」
「はい」
反省はあとでしよう。今はやるべきことがあるのだから。
気を取り直して千畝が白いガードレール沿いになだらかな下り坂を歩いていくと、その先は行き止まりだった。
高いフェンスに覆われた高架下があって、フェンスは古びてところどころ通り抜けできるようになっている。
日常的に人が行き来している風情のフェンスの切れ目に千畝はそっと入り込む。左右は暗くて、人もいない。
そう思っていたら、ひとつ向こうのガード下に数人固まっている人影がある。
若者たちのたまり場になっているのかと目を凝らすと、その中のひとりに目が吸い寄せられた。相手もちょうどこちらを向いており、その瞳が白い。
(……変異)
千畝の心臓が大きく跳ねる。
男たちはなにやら互いを肘でつつきあって、こちらを振り返ったり、変異体をかばうようにしゃがむ位置を変えたりしている。それでも千畝が凝視していると、ハエでも追うように手を振って、「どっか行けよ」というしぐさをされた。
「千畝さん?」
岩間が案じるように声をかけてくる声にも反応できない。
だって、見てしまった。
白濁した目だけではない、行儀悪く背中を丸めてしゃがみ込んだ男の手が、両方ともだらんと膝の内側に垂れていて、その爪先が人間ではあり得ないほど長く光っているのを。
(変異……だ、あれは)
頭の中がしびれたようになり、鼓動はいっそう速くなる。
どうする、どうする、千畝。
こんな時いったいどうしたらいい。
──いや、どうしたらいいかなんて決まってる。
自問自答してから勇気を振り絞り、一歩だけ、彼らのほうへ千畝は踏み出す。
一歩が踏み出せたら、二歩目はもう少し簡単だった。
ひりひりするような敵意と反発のあからさまな視線を感じていないふりで彼らの前に立つ。
「あの、ちょっといい、ですか」
マニュアル通りにはいかなかった。
遠慮がちな口調になってしまい、千畝は喉の奥で咳払いする。
「そこの人」
ああもう、やだー。と心の中では思っていた。
死にそうにドキドキする。やりたくない。こんな見るからに柄の悪い人たち、これまで一度も接したこともないというのに。
だがここで見て見ぬふりをしたら、帰ってからどれだけの自責感情が生まれるか、試さなくてもわかっている。
(私が、やるべきことなんだから。やらなくちゃ)
「ちょっと話をしたいんですが」
「ああーーー!?」
男がひとり、勢いよく立ち上がると千畝の顔に自分の顔を近づけるようにして、わざと大きな声を出す。脅しなれた態度だった。
「話がしたいんです」
千畝は繰り返す。こういう時は堂々としていた方がいいと思うが、うまくできているかまったく自信がない。
「後ろの人、……そう、そこのダークグリーンのパーカーの人。変異を起こしていますよね」
「知らねえよ」
またしても大きな声。
「邪魔だよ、どっか行け」
千畝の背後をチラ見して、男はやや声を落とした。
砂利を踏んで歩く物音で、岩間が千畝の後ろに立ってくれたのだとわかる。しゃがみ込んでいる仲間の男たちは、互いに目配せを交わし合っている。
「通報とか、されるとまずいかな」
「別に、平気っしょ」
最後の台詞を小声で言ったのは、ダークグリーンのパーカーを着た変異の男だった。
その男が千畝のことをちらっと見上げてそう言った瞬間、千畝はあっと思った。
(──この人、違う)
なぜそう思ったのかわからない。
はじめて研究所についた日、同席したもう一組の変異の少年に対してもそう思った。重度の変異体ではあるが、この人、人間を襲ったり傷つけたりはしない、と。
その時と同じ確かさで千畝は今も思ったのだ。
この人は、変異体じゃない。
(この人、中身、人間だ)
その瞬間、千畝の中でなにかが音を立ててオンになった。
「……あなたたちは何歳ですか?」
「はいー?」
「おいくつですかと聞いたんです。そこの人も、十八歳未満じゃないですよね? かといってコスプレにも見えない。ちょっと明るいところへ出て、私の指先と牙を見せてください」
「うるせえなっ」
急に早口になって尋ねた千畝を、目の前の男はどんと押した。
千畝はよろけたが、後ろにいた岩間がすかさず背中を支えてくれる。どこか遠慮がちな手で。
「あっ、待って!」
その一瞬の隙に、男たちは逃げだした。
逃げるのも慣れた様子で、背中がどんどん小さくなる。
「待ちなさい!」
同じ方向へ逃げながら、変異した男が肩越しに振り向いてニッと笑った。
まるっきり正気の、変異体とは別種の笑みだった。
理性をなくした変異体特有の凄みではなく、男の個人的な優越感と奇妙な自己顕示がそこにあった。
(走り方も……微妙に違う。あの人は人間だ、間違いない)
千畝はちょっと膝を軽く折り曲げて気を引き締めると、
「ちょっと、私、追いかけますね」
そう言い置いてダッシュした。
「あっ、千畝さん!」
男たちは逃げ慣れているようだったが、千畝はこの数カ月トレーニングを積んでいる。
勝つとも負けるとも思わなかった。
必ず捕まえてやると思った。
じわじわと距離を詰める千畝に、彼らは開閉式になっているフェンスの向こう側に逃げ込むと、向こう側から何度も何度もチェーンを巻いて施錠した。
「……へっ」
フェンスの前で立ち止まった千畝を息を切らせながらあざ笑うと、向こう側にある細い路地に小走りで消えていく。
(……)
千畝が迷ったのは一瞬だった。
後ろを見て、前を見る。
積み上げられた金属ごみの山の一角に足をかけると、勢いをつけて背の高いフェンスを一気に飛び越える。
身長よりもはるかに高いフェンスのてっぺんに片手をついて超えた時、千畝はまだ自覚していなかった。
ふわりと軽やかに跳躍したことに。
もう自分が恐怖を感じていないことに。