1章 カノのやり方は、というと 1
彼女のやり方はというと。
「よしいけ、千畝っ。ゴー!」
まずのせる。
とくに根拠がないとしても、とりあえずのせておく。
「絶対できるよ、いってきな!」
それから、あれこれ盛る。
「簡単だよ。ひょいっていくんだよ。ふわっといくんでもいいけどな。はまるとくせになるぞー。風を切る感覚が気持ちいいぞう」
──気持ちいいわけがない。ご冗談ですよね。
古いビルの屋上のぎりぎりの瀬戸際で立ちすくんだまま千畝は思った。
幌を張ったトラックがゆっくりと千畝の足元を通り過ぎていく。本当はその上に飛び移らなくてはならないのに、そういう訓練だというのに、どうしても、どうしても、足が動かない。
時刻は午前十一時。初夏の太陽がじわじわと千畝の頭上に照り付ける。
これでもう何度目だろう。
今度もまた、足がすくんで動けない。
「大丈夫だってー」
カノは下から声を張り上げている。
千畝はちらっと下を見て、ぽたりとあごから汗を落とした。
いやいや。無理です。無理無理。
そう言いたいけれど、言っても聞いてもらえないことはここ数カ月の訓練でよく知っている。ちなみに、のせるだの盛るだの言っても、パフェやパンケーキのトッピングの話ではない。千畝が一人前の保護官になるための新人訓練の話である。
千畝は目だけを動かしてもう一度下を見る。怖さのあまり、大きく動くことができないのだ。
ビルは小さなもので、二階建てのもの。その屋上なので、そうたいした高さではない、らしい。あくまでカノの言い分によれば。
──十分、高いよ……。
千畝は緊張のあまり浅く肩で呼吸しながらそう思う。
なのに、カノは、
「だあいじょーぶだってー、はいはい!」
こちらを見上げながら景気よく手を叩いているのだ。
──誰だ、こんな怖いことやり始めたのは。……私か。
自問自答して、千畝はどんよりと重い気持ちになった。
◇◇◇
朝岡千畝は来月で十八歳になる。ここDU研究所に来たのは今年の四月だ。
通っていた私立の女子高の身体測定で皮爪硬化症に感染していることがわかり、ここに来た。
来た当初は戸惑いや悲しみもあったものの、次第にここでの生活に慣れ、住人たちに慣れ、カノの仕事の現場に連れていってもらったりするうちに、千畝の中にひとつの気持ちが育っていった。それは、自分も保護官になりたい、そしてカノの負担を少しでも減らしたいという気持ちだった。
その気持ちに、今でも迷いはない。
迷いはないのだが。
◇◇◇
下では、ヨナがものすごくなにか言いたそうにしていた。
与永小太郎、通称ヨナは千畝が初めて会った変異体の少年で、今はラボで一緒に暮らしている。年齢は十一歳。見た目はかなり変異が進んでおりおそろしげな外見だが、内面はごくどこにでもいる小学生の男子そのものだ。
「こらー、行けー」
カノは襟元につけているマイクで直接千畝のインカムに指示を飛ばす。
「行けって……言われても」
千畝はつぶやいて口元をひきつらせた。
行けないよ。無理だよ。こんなのカノ以外にできる人いないよ。そう思うものの、自分から言いだしたことなのに弱音なんて吐けないという気持ちが大きくて、言えなかった。
「あ、まざりたい?」
「たくねえよ」
心底いやそうにヨナが返す声がインカムを通して聞こえてくる。
「ちーせー」
重ねて呼ばれたが、返事をする余裕はない。
だってここから飛ぶなんて。絶対落ちる。落ちたら絶対死ぬ。
カノって鬼だと千畝は思った。割とスパルタなのは知ってたけど、これはスパルタというより、鬼の所業だ。
千畝が動けず、返事もまばらなのをしばらく見ていたカノは首をかしげて言った。
「普通に考えるとさあ。これが現場だとさあ」
普通? カノの口から、普通?
や、ちょっとあんたなにすんのやめて。黙ってろちびすけ。言い争う声の直後、ばすっと破裂音がして、千畝の足元から煙がたちのぼった。ふわりと火薬の匂いがして千畝の首すじの毛がぞわりと逆立つ。
なにをされたか、一瞬遅れて理解できた。
「!!!」
「止まってると、的になるぞー」
あんたこれ変異体の保護活動訓練だろ、普通変異体は実弾ぶっ放したりしねえよ! ヨナがぎゃあぎゃあ言っている横で、カノはにっと笑った。
「油断大敵。だろ?」
「南雲あんたも止めろよな!」
ヨナとは反対側にいる南雲はのんびり答えた。
「いやあ、このひと射撃の腕はいいんですよ」
「そういう問題じゃねえから!」
そうこうしているうち、もう一度、幌付きのトラックがまわってくる。この訓練場はぱっと見は古い廃墟に見えるのだが、実のところはあちこちに遠隔制御できるチップが埋め込まれており、トラックも運転手不在のまま走っている。
「うん、もう一回な」
カノの声は穏やかだ。穏やかなのに逆らえない。
千畝はふらつく足で立ち上がった。怖さが消えたわけではなかったが、ここで行かなければ後はないような気がして。
息を止めて、タイミングを見計らって、宙に飛んだ。
「────!!」
ばふ。緊張とはうらはらに間延びした音がして、
「おー、すごいね、できたね!」
カノの声は、まるで小さな子供をほめるようだ。
「えらいじゃん」
千畝はまだ心臓が落ち着かない。トラックの幌についた手が小刻みに震えている。
(できたのかな、できたらしい、でももういやだ、もうやりたくない……)
「はい、じゃあ降りてきて」
トラックが止まり、カノが待っている真横で千畝がようやく降りていくと、カノは軽い調子で付け加えた。
「もう一回」
「え?」
「もう一回やって」
カノはにこにこ笑っている。
「あの、怖いんですけど、とっても」
「そっかー。よかったなあ」
会話が噛みあってないと思うのは自分だけだろうか。だが、怖くないと訓練にならないというのがカノの持論らしい。
研究所には福利厚生の一環としてボルダリングの設備もあるのに、どうしてそこを使わないでわざわざこっち来るんですかと聞いた時、カノは当然のように答えた。
「怖くないから、あそこ」
パードン? と千畝は思った。
「早くー」
もう嫌です! とよほど言いたかったが、かろうじてこらえた。だって岩間も南雲も見ているし、なによりもヨナが心配そうに千畝を見上げているから。
(この子の前で泣き言なんて、言えない)
「はい、朝岡千畝、もう一回やりますっ」
やけくそぎみに大きく挙手して、怖さに追いつかれる前に駆け足でさっきの位置まで戻った。
「足のバネじゃなく、落下の勢いを使うんだってー」
二度目に飛んだあと、カノはそう言った。
「あの、ちょっとなに言ってるかわかんないです……」
千畝の反論はきれいに無視された。
「硬くなると重くなるぞ」
「落下の衝撃を減らすにはなー、肘でバランスをとるといいぞー」
「怖いならよけいに、ちゃんと見ろよ」
何度も同じことをやらされて、いい加減恐怖心が麻痺してきた頃。
「よし、恐怖心は抜けてきたな」
カノは言いながら画面の上で指をスライドさせた。いやな予感しかしなかった。眉をひそめてカノの手元を見ている千畝に、カノはタブレットを操作し終えて言う。
「もうちょいトラックから離そう」
「やだです!」
「たったの三十センチだよ、平気」
「落ちる!」
「落ちるな」
なにを言っても当然のように返されて、ほれ早く行け、と膝で押し出されるようにしてビルへと向かわされ、とぼとぼと階段をあがっている千畝のインカムにカノの声が飛び込んでくる。
「飛距離を伸ばすには、走った速度を上乗せしたらいいぞ」
やっぱりなに言ってるかわからない。黙っていたら続けて言われた。
「怖がらずに体を使え。お前の体は、お前が思ったように動く」
結局その日は累計十三回ほど飛ばされた。
「──聞こうと思ってましたけど、命綱とか、ないんですか」
課題を終えてそこから離れる道すがら聞いてみたところ、カノは答えた。
「ないよ。落ちなきゃいいんだよ」
「言うと思ったそれ。あんた絶対言うと思った」
千畝ではなくてヨナが答える。
「つけるかよそんなかったるいもん。だいいち邪魔だろ?」
もうなにかコメントする気力もなくて、千畝は、明日もこれが続くのかなあ、とぼんやりした頭で考えていた。