私小説① 暗澹
母親が亡くなってもう4年になる。福岡にある実家は、母親が亡くなってすぐに父親と弟夫婦が勝手に売ってしまった。
東京に住んでいる私からは父親と弟に手が出せず、結局現在も音信不通である。
こうした時、母親がうまく家族をコントロールしていたんだなと思う。
父親と弟夫婦は母親の遺産を勝手に持ち出し、遺品や車を売りさばいた。
その金でトレーラーハウスを買ったという噂も聞く。
全国を旅しているという話も聞く。
ともかく福岡の小さな漁村の出身なので、急に家が無くなれば悪い噂しか立たず、もう地元の友人たちはあてにならない。
今年の夏、母方の叔父から声がかかり、叔父と母親の墓参りに行ってきた。
ところで、私の姓はA本だが、叔父はしきりに「B田です」「A本の付き添いです」と区別するかのように寺に説明する。
寺の住職には母親の遺骨を預かってもらっている。
普通は嫁いだ先の墓に入るものなのに、父親側が入れたくないという理由で、現在も寺の住職に迷惑をかけている状況である。
いつも住職は私の境遇を知ってか知らずか、優しい言葉をかけてくれるが、今回の訪問では「あるべき場所にあるべき物がないとならない」といわれ、この言葉は「いつまでも預かっていられない」という私への当てつけなのだろうかと考え込んでしまった。
家族がいなくなって、年末年始やクリスマスといった行事が一人で過ごすイベントに成り下がってしまった。
昨年のクリスマスは土日だった。恋人がいる者や一緒に過ごす家族がいる者からすれば、残念なことなのかもしれない。
しかし、私にとっては何食わぬ顔をして出勤し、帰宅してビールを飲むくらいなのでむしろ好都合だと考えていた。
私にとって計算違いだったことがある。それは恋人や家族がいる者は土日だけでなく、金曜日か月曜日も有給休暇を取得するのだ。
「A本さんは有休、とらないの?」といわれ、「自分は一人なんで」と庶務係に返した言葉が昨年の年末で交わした最後の言葉となった。
基本、私は職場では孤立しており、休みをとる時くらいしか会話は発生しない。
新年を迎えた。毎年の願い事は年末年始の休暇を誰かと一緒に過ごしてみたい、だ。この願いは昨年も叶わなかった。
ずっと一人でいるのでコロナになんてかかるはずがない。
新年の辛いこと、それは成人の日を含む3連休もあることだ。私は「4回目のワクチン接種の療養期間にあてました」という寂しい言い訳を考えて、実際にワクチンを打ちにいった。
もう一度いうが、ずっと一人でいるのでコロナにはかかるはずがない。
ワクチンすらもこういう時は大人しく、3回目接種時に4日間も出た発熱は全く出なかった。
3連休の最終日は学生時代の友人の誕生日でもある。毎年連絡をとるのを楽しみにしている。
しかし、今回、驚きの事実が判明した。数年前から私のことを忘れていたとのことだった。
友人は野良犬が誕生日を祝ってくれるかのごとく、感じていたのだろうか。というか最早友人と呼べるのか。
だからこそ返信はいつも「ありがとう!」とか「そっちも元気で」という誰にでも通用するものしか返ってこないのだろうか。
そんな時、ふと考えたこと、それはいつまでも誰かと共に年末年始を迎えたり、行事を迎える日はもう来ないのではなかろうか、という将来への疑問だ。期待は全くない。
年末年始、年明け3連休と一人で過ごし、声の出し方も忘れている。
これはセルフレジが普及したこともあり、買い物などの機会で声を出す必要性が無くなったからだ。タッチパネルの弊害といえるだろう。
こういう時にどうすれば良いのだろうか、と悩んだ時、相談相手はいない。
ふとグーグルマップで検索をし、近くの精神科に行ってみた。
「診断書を書いてあげるから2週間程、自宅療養してみますか」とのことで睡眠導入剤と共に診断書が出された。
職場の上司に伝えたところ、返ってきたのは「そうですか、ゆっくり休んでくださいね」と優しいとも素っ気ないともとれる言葉である。
2週間休んだところで、自分の周囲の状況が改善するとは思えない。「運命的な出会い」がある訳がない。自宅で一人でいるのだから。当然、コロナにもかからない。
この先もこのままずっと一人で生きていくのだろう。
全ての人間において、必ず悩みは抱えている。しかし、いつかは解消されるはずだという期待を持つ。だからこそ生きているのだ。
しかし、私の悩みが解消される日がくるのだろうか。
この先の見通しが暗いなと思いつつ、淡い期待を抱きながら、すっかり寒くなってきた夜更けを過ごしている。
食べたい物や飲みたい物もなく、ただ夜更けの暗闇を過ごしている。