そして報酬を貰う時(Stage1 終)
さて、このようにして全ての謎は解かれた。
タブレットは返却されたし、天沢茜が何をしていたかも分かった。
だからここから先の記述というのは、当然ながら謎を解いた後の話になるのだが。
実を言うと、この部分については特に述べることが無い。
推理の後で起きたことと言えば、「それでは帰ります」「いえいえ、ありがとうございました」という感じの会話をして、二人して別れて帰っただけだ。
夕食を食べていなかったせいで、互いに早く帰りたかったという事情もある。
そもそもにして俺は忘れ物を渡しに来ただけなのだから、当然の流れではあったが。
ああ、それでも。
無理矢理にでも追記するなら────そう、三つほど。
少しばかり、印象に残ることはあった。
詰まるところ、三種類の後日談だ。
今回の一件の締めとして、その三つだけは追記しておこうと思う。
一つは、俺が呼び止めるまでに天沢茜がジムでしていたこと。
要するに、オーバートレーニングに関するアドバイス云々の話である。
推理の後、そこについて天沢茜自身がちょっと零していたのだ。
曰く、俺が彼女をジムの前で呼び止める直前まで────天沢茜はこっぴどく叱られていたらしい。
ジムでその手の専門家に会ってすぐ、練習のし過ぎがいかに体を傷つけてしまうか懇々と説明を受けていたとか。
それこそもう、二度と練習のし過ぎなんてしないと断言できるほどにまで。
「中々練習の制限を守らないからって、松原プロデューサー補の指示でここに来たけど……本当にもう、そういうことはしないようにしようって思えた。そう言う意味では、良かったのかもしれない」
これは、去り際に彼女が言っていたことである。
本当に、身に染みたという表情をしていた。
懲り懲りという言葉は、このように綺麗な少女にも似合うらしい。
要するに彼女は、タブレットの置き忘れに関する説教は辛うじて避けられたが、別ベクトルの説教に関しては甘受したということである。
どういう流れを踏もうとも、彼女にとっての今日は「誰かに叱られる日」らしい。
自業自得と言ってしまえば、それまでだが。
こういう話を聞くと、俺の行動の意味もちょっと変わる。
というか、複数の解釈が出来るようになる。
これを「結局俺が忘れ物を届けようが届けまいが、大して差はなかった。どちらにせよ彼女は叱られていた」と受け取るか。
或いは、「本当なら、一日で二回受けるはずだった説教が半分になった。それだけでも天沢茜は楽になっただろう」と解釈するかは、人に寄るだろうけど。
何にせよ、このことに関しては──彼女がこれから練習のし過ぎをしないよう心掛けたことは──俺は単純に良かったと思っていた。
素人が口を出すことじゃないと思いながらも、俺自身、彼女のオーバートレーニングについては気になっていたからである。
だって、そうだろう。
先程までの彼女は、練習量を制限されているというのに自主練をして、しかも忘れ物をしてしまうほどにまで熱中していたのだから。
言葉を選ばなければ、これは普通じゃない。
こんな日々を続けていたら、アイドルとしての彼女にとって間違いなく良い結果にはならないだろうというのは、素人の俺にも分かる。
ジムでの説教を受けて、彼女がこれ以降はオーバートレーニングにならないように気を付けるというのなら。
良い形に収まってよかったなと、他人事ながらそう思えた。
ここまでが、一つ目の後日談。
続いて追記するのが、二つ目の後日談。
タブレットの一件が解決した、次の日に起こったことである。
その日は確か、俺は普通に掃除のバイトを行っていた。
この日に関しては、忘れ物を見つけることもなく、アイドルとかち合うことも無く、ようやっと無難に仕事をこなすことが出来た記憶がある。
ある意味で、本当のちゃんとしたバイト初日はこの日のことかもしれない。
しかし、そのバイトの後。
ちょっとばかり、変わったことが起きた。
というのは、また俺は姉さんに会ったのだ。
場所としては、例の休憩室でのこととなる。
その日のバイトを終えた時、俺は「そういえば推理やら謎解きやらで、結局休憩室のお菓子を食べていなかったな……」と気が付いた。
だからある種のリベンジのつもりで、帰りに休憩室に寄った。
すると、室内には休憩中らしい姉さんも居たという流れだ。
「……ああ、玲。お前も休憩か?」
昨日も事務所に泊まり込んだらしく、殆ど一日振りに会った彼女は休憩室のソファでぐだー、となって寝ていた。
確実に皺になるだろうに、スーツ姿で寝転がっている。
それを見て、俺は少々驚きながら説明をすることになった。
「昨日色々あって、ここのお菓子を食べなかったから……リベンジというか、一つくらい貰っておこうかと」
「ふーん?……じゃあ、ほら」
興味なさげにそう言って、彼女は目の前にある菓子盆をずい、とこちらに寄越す。
そのお菓子を受け取りながら、俺はふと、昨日の姉さんの行動について思い返していた。
思い返したことは、たった一つ。
そう言えば俺が昨日ここに来たのは、彼女の勧めだったなという記憶。
昨日、俺が掃除を終えた頃に唐突に現れた姉さん。
忙しい中わざわざ来たのだから何か用があるのかとも思ったが、その割には大して長居もしなかった彼女の姿。
そんな記憶を、俺はぼんやりと反芻する。
──タブレットの持ち主の謎に関しては謎解きを終えたけど、そう言えば、この人の行動については解けてないな……。
ふんふんと鼻歌などを歌って寝ている彼女の姿を見ながら、俺はそんなことを思う。
昨日も「弟の仕事ぶりを見るためだけにわざわざ来るような人じゃない」と違和感を覚えてはいたのだが、その後が何かと忙しく、それ以上は考えられていなかった。
──タブレットの件と同じで、こっちも解けないかな。本人に聞いても教えてくれなさそうだから、推理で何とか……。
菓子盆から選び取ったクッキーをポリポリと食べながら、俺は何とはなしにそう考える。
この人の奇行の意味が分からないまま終わってしまうのは、どうにも気持ち悪いと思ったのだ。
推理の材料となる物は────例えば、昨日起こった出来事と姉さんの関係。
或いは、姉さんが俺にしてくれた話。
はたまた、やけにタイミングよく現れた姉さんの姿。
そんな記憶が、頭に浮かんで、消えて。
消えては、その端から浮かんで行って。
そんなサイクルを繰り返す中で、ふと。
俺は姉さんに、あることを聞いてみることにした。
「……なあ、姉さん」
「ん?何だ?」
「姉さんってさ……昨日、俺が働いているところを見に来ただろ?」
「そうだな」
「その直前の話なんだけどさ……もしかして姉さん、俺が居るレッスン室に立ち寄る前に、この休憩室に来てた?」
出来るだけ、軽く聞いてみる。
だからだろうか。
それを聞いた姉さんは薄く笑っただけで、特に返答はしなかった。
彼女の態度を見て、確信する。
ああなるほど、と。
──仕組んでるな、この雰囲気は……。
ぼんやりとそう思う。
証拠はないが、強いて言うなら姉さんの今の表情こそが証拠だった。
弟だからこそ、分かる。
姉さんは、意味も無く弟の様子を見に来る程、暇を持て余してはいない。
だがこういうことに関しては、やる時はやるタイプだ。
──よく考えれば、そうじゃないと話が出来すぎだしな……俺にとって都合が良すぎる。
苦笑とも諦観ともつかない感情が、俺の中で湧いてくる。
そのこと自体に、何となく俺は呆れを感じた。
この人の配慮は、とにかく分かりにくい。
……思い返してみると、彼女の昨日の行動は最初から不自然だった。
わざわざバイト終わりの俺のところに姿を現し、唐突に休憩室の話を持ち出すなど。
まるで、バイト帰りの俺を休憩室に誘導したがっているような姿を所々で見せていた気がする。
何故、姉さんはそんなことをしたのか?
姉さんから見て、俺を休憩室に導くことに何の得があるのか?
その理由を休憩室に置き忘れられていた天沢茜のタブレットに求めることは、そこまで不自然な流れでも無いだろう。
あの日の休憩室が抱えていた唯一の特徴は、あれだけなのだから。
姉さんは、多分。
あのタブレットを俺に見つけてもらい、そして天沢茜に渡して欲しかったのだ。
天沢茜への説教を、勘弁してあげるために。
姉さんは昨日、天沢茜が立ち去ってから俺が掃除のバイトを終えるまでの間に、この休憩室に来ていたのではないだろうか。
今、目の前でやっているように、休憩するために。
時刻としては天沢茜が立ち去った直後、午後六時一分とか、二分とかの話である。
そしてその場で、姉さんは誰よりも先に、置き忘れられた天沢茜のタブレットを見つけた。
プロジェクターに繋がったまま放置されていたのだ、見つけられない訳がない。
俺がそれを見つけた時は、持ち主も分からず困惑するだけだった。
しかしグラジオラスのプロデュースに関わる姉さんなら、その持ち主など一発で看破出来たことだろう。
姉さんはそこですぐに、これは天沢茜の忘れ物だと気が付いたのだ。
それに気が付いた時、姉さんはどうしたか?
普通なら、ルール通りに天沢茜を呼び出す場面だ。
姉さんなら天沢茜への連絡先を知っているだろうし、仮に知らなかったとしても別の知っている人に教えてもらえる立場にある。
そして当然のことながら、天沢茜を呼び出した後は彼女を叱責したことだろう。
重要な情報も入っているタブレット端末をそこらに置き忘れてしまうようなアイドルには、「みっちり説教」。
姉さん自身が言っていたことだ。
正確には姉さんの方針と言うよりも、ボヌールという芸能事務所そのものの方針なのだろう。
いくら何でも、まだ若い姉さんが所属アイドルに対するルールを全て決めているはずもない。
事務所内での情報端末の扱いがそう言う風になっていて、姉さんはそれに従っている形になる。
だから、なのだろうか。
姉さんはそこで、規則通りに天沢茜を呼び出さなかった。
少なくとも、積極的に叱ろうとはしなかった。
寧ろ、それは避けたいと考えたのではないだろうか。
というのも姉さんはこの時、天沢茜がオーバートレーニングに関するアドバイスをもらいにジムに向かったことを知っていたからである。
「中々練習の制限を守らないからって、松原プロデューサー補の指示でここに来たけど、本当にもう、そういうことはしないようにしようと思えたから良かった……」
これは、天沢茜本人が言っていたことだ。
オーバートレーニングについて問題を抱えていた彼女は、姉さんの指示でそこに向かっていた。
恐らくそのスポーツジムとボヌールは、業務提携など何らかの繋がりがあるのだろう。
だからこそ姉さんはジムの人に、「ウチのアイドルに練習を止めろと言っても止めない子が居るので、説教してやってください」と頼んで、天沢茜を向かわせていた。
もしかするとボヌールでは、「練習をしすぎるアイドルにはあそこで説教」という感じで慣例化しているのかもしれない。
そして、その流れを知っていたからこそ。
既にそのジムでキツく説教を受けているであろう天沢茜に対して、置き忘れの件でさらに厳しく叱責をする、という行為を姉さんはしようとしなかった。
これ以上の説教を受けさせるのを避けたい、と思ったのか。
置き忘れをしてしまうくらい急いでジムに向かったこと自体、自分の指示が遠因なのだから、庇ってやりたいと感じたのか。
もしくは単純に、アイドルとしてはまだまだこれからの彼女を無闇に何度も叱責してしまうのは、本人の成長性から言って好ましくないと考えたのか。
弟として言わせてもらえば、どちらの可能性も有り得ると思う。
先述したが、姉さんは決して情に厚いタイプの人ではない。
しかし同時に、氷のように冷徹な人という訳でも無い。
基本的には、必要な場面ではちゃんと他者に配慮できる人のはずだ。
そういう人でなければ、アイドルのプロデュースなど出来るはずもない。
決して正しい行為ではないが、総合的に考えた末に「既に向かってしまったジムの方はともかく、置き忘れについて説教しないように配慮した方が彼女にとって望ましい」と判断したのだろう。
平たく言えば、説教をしないために置き忘れに気が付かない振りをしてあげたのである。
しかし姉さんが説教をしないように決めたところで、じゃあ完全に庇えるのかとなると、中々簡単にはいかない。
立場上、姉さん本人が「今回は例外だ」とか言って密かに天沢茜にタブレットを返すのは、あまり好ましくないからだ。
そんなことをおおっぴらにやってしまっては、流石に他のアイドルや社員に対して示しがつかない。
誰かに見つかったら、今度は姉さんの方がルール違反で叱責を受けることになってしまう。
特定のアイドルを贔屓した、ということにもなるだろうし。
つまり、その時の姉さんがすぐさまタブレットを回収するのは望ましくない。
回収したところで、中々渡せない。
変に持ち続けていたら、寧ろ騒ぎは大きくなるだろう。
かといって、そのまま天沢茜が忘れ物に気がつくまでタブレットを放置してしまうというのも、あまり良くない選択だろう。
その場合は、休憩室を利用した他の人にタブレットが見つかってしまうかもしれないからだ。
仮に発見者が真面目な人で、普通に事務所に報告した場合、姉さんも気が付かない振りは続けられなくなる。
タブレットを直に渡すことも、天沢茜本人がそれを回収するまで待つことも、姉さんには出来なかった
前者は姉さんの立場が危うく、後者は他者に気が付かれる危険性が上がる。
だからこそ姉さんは、俺に対して休憩室に行くように促したのではないだろうか。
自分の代わりにタブレットを天沢茜に返してくれるかもしれない、と期待して。
折よく、タブレットの取り扱いに関する事情は前日の夜に話している。
俺の性格上、密かに届けに出るのではないか、持ち主についても独自に推理してくれるのではないか、と行動を読んでいたのだ。
全体的に確実性に欠けるというか、俺が普通に事務所に報告したらどうするんだ、とツッコミたくなる悪だくみだが、結果から言ってこの思惑はドはまりした。
俺は姉さんの予想通り、何とか持ち主を推理をして、タブレットを渡しに行ったのだから。
──そう言う意味では、三日前からこっち、俺はずっとこの人の掌の上だったってことになるのかな……。
推理を終えて、俺はそんな結論に辿り着く。
結果から言えば誰も損をしていないし、天沢茜も助かっているので異存は無い。
だがそれでも、この姉に良いように使われたと思うと、何となくモヤモヤするのは何故だろう。
だからなのか、俺はややジト目をして、ソファに寝転がって鼻歌を歌う姉さんを見つめてみる。
しかし、俺の視線の意味を、知ってか知らずか。
こちらをチラリと横目で見た姉さんは、そこで不意に鼻歌を止めた。
「色々考えているようだな、玲」
「……おかげさまで」
「そうか、それは良かった」
全てを分かっているような、もしくは何も分かっていないような顔で姉さんは笑った。
それから、少しだけ表情を引き締めてこんなことを言う。
「しかし、ここ最近のことは良い体験になっただろう、玲?」
「体験?……何が?」
「……ここは芸能事務所だってことへの、理解のための体験だよ」
むくり、と姉さんは体を起こす。
そして、こちらが意図を把握せぬまま、こう続けた。
「玲、ここは既に芸能界だ。この世界では、一般人が毎日体験するようなことは一生起こらず、逆に一般人が一生体験しないようなことが、毎日起こる。事務所とは言え、ここは既にそんな場所なんだ」
そこで言葉を区切り、彼女は適当にお菓子をつまむ。
「ここの『日常』は、外の『日常』とは違う。何かと鋭いお前にとっては、ここでの毎日は良い経験になるだろう。だから、そうだな……」
軽く、一瞬言いよどんでから。
最後は、彼女はニヒルに締めた。
「……学べよ、玲?」
それだけ言って。
姉さんはまた、鼻歌を歌う作業に戻っていった。
ここまでが、二つ目の後日談の全てだ。
まあ要するに、姉さんの奇行と言うか放言と言うか、プチ陰謀である。
総合的に良いように使われたらしい弟としては、微妙に反応しづらい話だった。
そして、この次が最後の後日談。
姉さんとの一件から、さらに二週間経過した時の話である。
この日の俺もまた、相変わらずの掃除のバイトのためにボヌールに来ていた。
働き始めてからまだ二週間しか経っていないが、労働内容が単純なこともあって、もうその行動自体は手慣れたものになっている。
俺はいつものように自転車を置き、いつものように荷物もロッカーに置いて、いつものようにボヌールの中を歩いていた。
この頃になるともう、以前のようにロッカーを間違ったり、レッスンを終えたアイドルと出くわしたりすることは無くなっていた。
自主練ならともかく、レッスン室をアイドルが集団で使用する時間は予約により決まっている。
掃除の仕事である以上、その終了予定時刻ちょっと過ぎ──アイドルやトレーナーが去った頃──にレッスン室に行けばいいだけなので、アイドルたちと直に遭遇すること自体が既に無くなっていたのだ。
だから俺は、その日も誰も居ないレッスン室に入って。
準備室内の掃除ロッカーに、一目散に向かって。
そしてロッカーの足元に何かが置かれていることに、不意に気が付いた。
「何だこれ……ビニール袋?」
無意識に、声を発する。
ロッカー前に何かが置いてあったことは今まで無かったため、率直に驚きがあった。
目の前に映る物と言えば、ロッカーの足元にちょこんと置かれているビニール袋。
何だこれはと思いつつも、俺はある種の反射でそれを摘まみ、無造作に中を覗く。
すると、実に見慣れた物体が奥に入っていた。
「……カフェオレの缶?」
袋の中に入っていたそれを、俺は手に取る。
間違いなく、それは自販機でよく売っているようなカフェオレの缶だった。
缶コーヒーの隣にでも並んでいる、アレである。
そんなカフェオレの缶が、ビニール袋に何本も入っている。
半ダースはあるだろう。
見たところ全ての缶が未開封で、新品。
何故こんな物が置いてあるのか、と俺は思わず黙考する。
とりあえず新品である以上、捨てておいて欲しいゴミという訳ではなさそうだが。
──もしかして、また忘れ物か?レッスン後に飲もうと思ってこの場所に置いたけど、そのまま忘れたとか……。
だとしたら、またややこしい。
あの時のタブレットならともかく、カフェオレの缶から状況証拠だけで持ち主を特定するのは不可能じゃないだろうか。
そう思いながらも、俺は何となくその缶をくるくると回してみる。
すると、缶の裏にマジックで文字が書いてあることに気がついた。
「『名探偵さんへ、この前のお礼です。遅くなりました。天沢』……?」
瞬間、二週間振りに天沢茜の顔が脳内に思い浮かんだ。
アイドルたちと顔を合わす機会が無くなった都合上、ここのところ見ていなかった顔である。
そう言えば今日のレッスン室はグラジオラスの使用日だったな、ということも思い出した。
「……俺がレッスン後にここに来ると踏んで、置いていってくれた、のか?」
呟いてみると、根拠がないにも関わらず、それだろうという気がしてくる。
例によって証拠はないが、そこはまあ、勘だ。
たまには、直感に身を任しても良いだろう。
恐らく今日は、練習量を抑えられている彼女にとって、珍しく許可された練習日だったのではないだろうか。
彼女は久々にこのレッスン室を使用し、帰る前に掃除ロッカーの前にこれを置いておいてくれたのではないか。
「そうか、だからこの銘柄……」
カフェオレの銘柄は、あの日、彼女の前で飲んだ物と同じだった。
ジム前の自販機で買った奴である。
話した場面があの日くらいしかないので、彼女からすれば、お礼を渡したくても俺の好みの物など分からない。
だから、とりあえず飲んだ様子を見たことのある物を選んでくれた、という流れか。
精一杯、お礼になる物を考えてくれたのだろうか。
そうして、全ての流れを察してから。
微笑ましいような、懐かしいような気持ちになって、俺はその缶を片手に思考に耽る。
どうも俺は、本来のバイト代が手に入る前に報酬を手に入れてしまったらしい。
もしかするとこういうのも、姉さんに見つかると「みっちり説教」されるのだろうか。
だけど────。
「……まあ、これくらいは、貰って置いても大丈夫だろう、うん」
天沢茜と姉さんに色々と振り回され、夕暮れの街を全力疾走までしたのだ。
このくらいの報酬は貰っても、多分罰は当たらないだろう。
そう思いながら、俺はいそいそとカフェオレの缶を自分の鞄へと収めていく。
時間経過のせいか、缶の表面は氷のように冷えていたが────どういう訳か、あまり冷たいとは感じなかった。