最後の証拠を譲り受ける時
「ええっと……何の話でしょうか」
まず、脊髄反射でそんなことを呟いてから。
俺は内心、分かり切っていることに対して何を聞いているんだ、と自分で自分に突っ込む。
茶木刑事と巌刑事が、今このタイミングで俺に聞きたい話。
そんなこと、火災前後における動向以外に無いだろうに。
事実、生真面目にも巌刑事は、俺の考えた通りのことをその場で繰り返した。
「二日前の火災について、少々茶木の方より聞きたいことがあるようです。そのために、事務所に連絡させていただいたところ、碓水さんという方がここに居ると教えてくださいましたので」
結果、握手会の会場にまで一々迎えに来た、ということらしい。
ここから分かることは、二つ。
一つは、事件の方に何か新展開があったのだろう、ということ。
そうでなければ、怪しいと睨まれている俺に、もう一度コンタクトを取ることはあるまい。
何か、俺の証言と照らしあわさなくてはならない新情報を、警察は手に入れたのかもしれなかった。
そしてもう一つは、警察はこの事情聴取を急いでいる──少なくとも、悠長にやる気はない──ということ。
仮に急いでいないのなら、俺が凛音さんとの話を終えるまで、ボヌールで待てばいい。
そうせずにわざわざこちらまで来たというのはつまり、早い段階で俺を確保したかった、ということだ。
要するに、総合的に考えて。
──警察は、いよいよ俺を吊るし上げる態勢に入ったのか……?
そんなところに思考が落ち着き、一人ぞっとする。
姉さんに「松原玲犯人説」の詳細を聞かされてから、一番恐れていたことが起きてしまった。
この二日間で、警察は俺の疑いを解くどころか、その疑いを濃くしたのだろうか。
そう考えざるを得ないくらい、俺にとって不利になる証拠でも出てきたのか。
もしそうなら、タイミング的には最悪と言える。
今まさに、凛音さんから何か、真相を解く鍵とやらを聞けそうな瞬間だったのに────。
「……急かすようで申し訳ありませんが、御同行をお願いできますか。少々遠くの場所で、茶木が待っておりまして」
申し訳なさそうな口調でそう言いながら、巌刑事がずい、と体をこちらに押し出す。
彼としては何ということも無い動きだったかもしれないが、なまじ体格が体格なので、控室の床がそれだけでギシリ、と悲鳴を上げた。
同時に俺も、身体をびくりと震わせる。
不味い。
我ながら情けないが、巌刑事のこの圧迫感を前にすると、どうにも口が自由に回らない。
このままだと、従わなくていいことにまで、簡単に従ってしまいかねない。
物事の優先順位が、脳内で強制的に書き換えられている感覚があった。
一昨日の事情聴取では、俺が疑われているという自覚が無かったので辛うじて普通に話せた。
だが、自分が疑われていると認識した上で刑事と話すのは、こんなにも緊張する物なのか。
脳内の冷静な部分が、そんな変に理屈っぽいことを考えて。
頭の中が、嫌な思考でぐるぐると回る。
同時に、ふらり、と足が前に出そうになった。
しかし、次の瞬間。
唐突に、俺の頭に冷や水をぶっかけるような声が背後から響いた。
「……それ、任意同行ですよね?令状も無い以上、無理に連れて行ってしまっては、違法行為では?」
その時、俺の後ろから聞こえてきた声は。
俺の声でも、巌刑事の声でも無い。
紛れもなく、凛音さんの声だった。
え、と思って俺は中途半端な姿勢のまま動きを止める。
何かの言い間違いか、とすら思ったが、訂正される気配は無かった。
「……勿論です。松原君には、断る権利があります。ただ、こちらとしても色々と話をしたい事情がある、というのが茶木の主張です」
凛音さんが口を開いたことに、僅かに表情を動かせながらも、巌刑事は律儀に返答する。
彼の口調は真剣そのもので、凛音さんのことを見くびっていない風だった。
そのくらい、彼も凛音さんの口調に真剣みを感じたのか。
「その理由と言うのは、何なんですか?私、玲君とこれからちょっと大事な話をしようとしていて、そうやって連れて行かれるの、困るんですけど」
「……申し訳ありませんが、私もその理由というのは聞かされていません。実際に会ってから話す、の一点張りでしたから」
「そういうの、警察的には有りなんですか?アイドルなら、意味不明な理由で人を連れ出すなんて、言語道断ですけど」
段々と、二人の声が大きくなる。
問い詰めるように、或いは弁明するように。
何時しか、凛音さんと巌刑事は、軽く口論をし始めた。
というか、巌刑事を前に萎縮してしまった俺の代わりに、凛音さんが反論をしてくれている感じがあった。
俺の言えないことを言ってくれている、というか。
まあ、詰まるところ。
何が起きているかと言えば。
トップアイドルと刑事が、俺を巡って、喧嘩し始めたようだった。
──……何で?
巌刑事を相手に、今まで見たことのも無い程の激しさを見せる凛音さんの姿に、俺は思わず呆然としてしまった。
俺を庇ってくれているのは何となく分かるのだが、理由がちょっと見えない。
嬉しさよりも先に、驚愕が来る。
どうして、ここまで守ってくれるのか。
何なんだ、これは。
──というかそれ以前に、警察の理屈に変に詳しいな、凛音さん。任意同行とか、令状とか。
ついぼんやりと、俺はそんなどうでもいいことを考える。
そうこうしているうちに、彼女はいよいよヒートアップしたのか椅子から立ち上がり、さらに俺を庇うように前に出た。
その動きは完全に、弱いものを背後に隠す保護者のそれである。
完全に、彼女は俺を守るような立ち位置になっていた。
大人として、自分がしっかりしなければならない、とでも思ってくれたのだろうか。
刑事相手に少しやりすぎな気もしたが、同時に頼もしい感じもする。
実際、その勢いを減じることが無いまま、彼女は俺を庇う理屈を言い続けた。
「玲君にはこの後、どうせだから握手会の物販も手伝ってもらおうかな、なんてことも考えてたんです。こういう場所に突然来て、しかもその場で事情聴取をせずに連れ去ってしまうなんて、いくら警察でも横暴だと思いますけど?」
「……移動を強いることは、重ね重ね申し訳なく思っています」
やや怒ったように、俺も聞いていない俺の予定をまくしたてる──そんなこと勝手に決めていたのか、この人、と俺は隣で驚いていた──凛音さんを前に、巌刑事は頭を下げる。
相当なことを言われているはずだが、彼の方は怒った様子は一切見せなかった。
慣れているのか、純粋に忍耐強いのか。
感情を見せないまま、彼はのっそりと口を開く。
「……しかし、今はどうしても松原君の証言が必要なのです。脅迫メール関連で新展開があったと、警視庁のサイバー犯罪対策課から報告がありまして」
「えっ、脅迫メールの?」
そこで彼が漏らした情報に、凛音さんは黙ったままだった。
しかし、俺が反射的に反応する。
すると、ずっしりと頷いた巌刑事は、俺の方に視線をやった。
「……そうです。ようやく、幾つものデバイスを経由していた脅迫メールの出所について、新情報があったとのことで」
「だったら、いよいよ玲君には関係がなさそうに思えますけど。誰がそんなのを送ったのか知りませんけど。その脅迫犯を、しっかり捕まえた方が良いのでは?」
「……正直、私もそう思います。しかし、茶木は松原君を呼べ、の一点張りでして。彼の話も聞きたいし、同時に教えてあげたいこともあるから、と」
凛音さんの嫌みを前に、巌刑事はピクリ、と眉を揺らす。
同時に、口角を軽く上げた。
どうやら、彼なりに苦笑しているらしい。
──よく分からないけど、サイバー犯罪の方について新情報が分かったんだな。で、その話を聞きたいのなら、一緒にきてくれ、と。それが、茶木刑事の算段か。
凛音さんが俺の代わりに怒る傍で、対照的に冷静になってきた俺は、一人そう考える。
話が話なのでややこしく聞こえるが、要するに「新しい話を教えてあげるから来てくれ。こっちも話を聞きたいから」という話だ。
新情報を人質に取られたような形で、愉快とは言えない状況だが、興味深い話でもある。
──実際、脅迫メール関連の情報は、積野大二の情報を手に入れた以外に深掘りが出来ていなかったし……聞く価値はある、か?
依然として色々と言い合っている凛音さんと巌刑事を前に、俺は内心そう考える。
茶木刑事は何やら俺から新情報が欲しいらしいが、その点については、俺も同じ立場なのだ。
話を聞く感じ、別に俺がここでついて行ったところで、その場で即逮捕される訳でも無いだろうし──それなら凛音さんの言う通り、逮捕状を持ってきているはずだ──ここでの事情聴取は、お互いにとって願ったり叶ったり、と言うことすら可能だった。
勿論、吊るし上げの可能性は残っているが。
──でも、凛音さんの気が付いたっていう真相は、また後で聞けば良いし……行くか。
最終的に、そんな結論に至って。
俺は、決意して顔を上げる。
そして、未だに緊張は残しながらも、巌刑事相手に声をかけることにした。
「……分かりました。行きます」
ピタリ、と凛音さんと巌刑事の両方が動きを止める。
さらに、ゆっくりと俺の方を見た。
「俺の方も、色々話したいですし……行きましょう、刑事さん。俺を、茶木刑事の居る場所に連れて行ってください」
「……ありがとうございます」
すぐに、巌刑事が頭を下げる。
彼の物々しさも相まって、刑事というよりも王に忠誠を誓う衛兵みたいな姿勢だったが、とりあえず言葉は伝わったらしい。
「玲君、良いの?……さっきも言ったように、任意だから。取り調べに耐えられる精神状態じゃないなら、断れると思うけど。未成年なんだから」
一方、心配そうな表情で、凛音さんは俺の顔を覗き込んでいた。
その顔を見ながら、俺はこの人は良い人だなあ、と馬鹿みたいに考える。
ここまでしてくれる理由は未だに分からないのだが、何というか、演技とかアイドルの評判のためとか、そういう域を超えた善意を感じた。
何にせよ、ここまで心配してくれたのであれば、答えておかなくてはならない。
俺は、出来得る限りの謝意を籠めて、彼女の提案を断る。
「大丈夫です。取り調べ自体は前もしてるんですし……心配してくれて、ありがとうございました」
「そう……でも、気をしっかり保ってね」
依然として心配そうに──本当に、この人は俺の保護者なのか、というレベルの心配顔だった──彼女はそう告げた。
それから、ふと思いついたように彼女は机の方に戻る。
そして、どういう訳か、ちょいちょい、と俺を手招きした。
──何だ?まだ何かあるのか?
待たせている形になっている巌刑事を見ると、彼は構わない、とでも言いたげに手を振った。
事情聴取に行く前に、彼女とちょっと話すくらいの時間はくれるらしい。
それを汲み取ってから、俺は凛音さんの方に歩いて行った。
「……どうしたんですか?」
意図を量りかねながら、俺は凛音さんのすぐ前にまで来て、そう問いかける。
すると、突然、凛音さんの手が素早く動いた。
正確には、彼女は俺の服の胸元をいきなり、ぎゅっ、と掴んで、引き寄せた。
「えっ」
疑問に思う間も無く、俺は体を前のめりにさせる。
より分かりやすく言えば、彼女に正面から抱き着くようにしてもたれかかった、と言えばいいか。
位置が近かったのと、凛音さんの背が高いことが重なり、殆ど彼女の胸に抱き留められるような形になった。
訳も分からず、俺は上半身を彼女に預ける。
化粧品の心地よい香りと、柔らかな体が俺を支えていた。
「え、ちょっ」
「……玲君。取り調べに向かう前に、これだけは肝に銘じて?」
様々な意味でヤバさを感じて狼狽する俺の心境を無視して、彼女はそのまま、俺の耳元に口を寄せた。
巌刑事に聞こえないようにか、ヒソヒソ声である。
耳が吐息でくすぐったかったが、それを無視できるくらいの真剣さで、彼女は話を続けた。
「良い?刑事に何かプレッシャーをかけられても、絶対にやって無いことに頷いたりしないでね?このことを認めたら罪が軽くなる、なんて大嘘、信じちゃ駄目。認めさえしなければ、後はどうにでもなるんだから。ボヌールの人だって、その内助けてくれるだろうし」
「え、あ、はい?」
「それと……一応、これを渡しておく。私はこの後、最後まで仕事があるから、この場を動けないし、さっき言いかけた推理も言う暇が無いけど、参考にはなると思う」
意味深にそんなこと言いながら、彼女は器用に宙に浮いた俺の手を掴み、そこに何か、カードのような物を掴ませる。
名刺大の、何かを。
何だ、と思うと同時に、彼女はまた耳元で囁いた。
「このカードは、握手会に来た人全員に渡す物なの……玲君が来るまでに、私、余りのカードをメモ代わりにして、考えをまとめていたんだよね」
「はあ……」
「だから、いざと言う時、使って?警察に物凄く追い詰められた時とか、冤罪を被せられそうになった時とか……警察に鋭い人が居れば、多分これだけでも解けると思うから」
「えっと……はい」
全く意味は分かっていなかったが、とりあえず俺は頷く。
すると、不意に凛音さんは満足そうに笑って。
ようやく俺の服から手を離しつつ、行ってらっしゃい、とだけ告げるのだった。
「……あの方は、とても能力の高い人ですね。今まで任意同行を様々な人に求めてきましたが、あそこまで的確なアドバイスと反論をしてきた方は、見たことがありません」
控室での出来事から、数分経過して。
要請通りに車の助手席に乗った俺に、巌刑事は車を運転しながらそう告げた。
その口調は皮肉とかそういう物ではなく、純粋な感心に満ちている。
どうも、刑事である彼としても、彼女のあの対応は中々経験出来ない物だったらしい。
少なくとも、移動中の世間話に持ち出す程度には、印象に残る物だったようだ。
「……松原君は、あの方ととても親しいのですか?とても親身になって心配されていましたが……」
「あ、いえ、そんなんじゃないです。二日前の取り調べで言ったかもしれませんけど、今回の撮影で初めて会話したくらいで」
「……そうですか」
当てが外れたように、或いは普通に驚いたように巌刑事が言葉を漏らす。
個人的には完全に同感だったので、俺は答えずに頷いた。
本当に、トップアイドルとして忙しい彼女が、どうしてあそこまで必死に庇ってくれたのやら。
──まあ何にせよ、俺にとっては嬉しい誤算、か……まだ見れてないけど、使える物とやらもくれたらしいし、あっちが気になって緊張も解けたし。
茶木刑事に見えないように、俺は手渡されたカードを収めたポケットを軽くさする。
密かに渡されたということは、刑事には見られたくない物なのかもしれないと思って、巌刑事の前では見せていないし、自分でも見ていないのだが。
果たして、何が書いてあるのか。
助手席に座った以上こっそりと見られなくなってしまったのだが、どうにも気になる。
焦らされているような気分になりながら、俺は助手席の背もたれに体を預けた。